01 迷惑な溺愛

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01 迷惑な溺愛

 夫婦の形はそれぞれ。  手を取り合って慈しみ合いながら歳を重ねるのも良し、小さな小競り合いを続けて仲直りするたびに愛を深めるのもまた良し。  しかしながら。  時として妻はその愛を拒否する権利があると思う。 「………あぁ、マリー。今日も君を愛している」 「ありがとうございます」  熱のこもった瞳で頬を撫でる夫にマリーは機械的な返事を返した。機械的とは言っても笑顔は一応向けている。感情のスイッチを切って夫と会話するのも随分と上手くなった。 「領主が変わってから色々と気苦労が多い。挨拶回りにもまだ来ていないし、集会だって開かれないんだ。僕のように正義感溢れる男が自分から行くべきなのかもしれない」  会話を続けながら夫の手がスルスルと自分の太ももを撫で回すことに不快感を覚えつつ、さり気なくスカートを引っ張ってみる。ピッタリとくっついた厚い手は簡単に退きそうもない。 (………今日はしつこいわね)  こうした攻防も初めてではないので、マリーは目を閉じて小さな欠伸を一つしてみた。ふあぁ、と間抜けな声を出してみる。チラッと夫を見遣ると驚いた顔をしていた。 「どうした、もう眠いのか?」 「はい。実は月のものが来ていて……」 「残念だな…今日は君を可愛がってやろうと思ったんだが。ここ暫く都合が合わなかっただろう?」 「えぇ、また是非今度……」  にこっと笑顔を向けると夫であるマイセンはやれやれと気落ちした表情を見せつつ、納得したようだった。  都合が合わなかったのではなく、マリーは意図的に夫との夜の行為を避けていた。結婚した女の務めを放棄するとは、と年老いた義母などは目くじらを立てて怒りそうだけれど、これでも譲歩している方だと思う。  マイセン・ハワードはこの辺りでは有名な男爵家の令息だ。齢は三十代半ばとマリーよりも年上であるものの、安泰した生活を求めて彼に求婚する女は多かったと、本人から聞かされた。 「では、キスだけでも」  否定する前にずいっと伸びてきた手がマリーの後頭部を掴む。半開きの口に夫の唇が重なり、ぬるりとした舌が忍び込むのを感じた。 「………っ、んぅ…!」  夕食に食べた豚肉の獣臭さが残っている。  赤ワインと混じって気持ち悪い。  そんなこと露ほどもマイセンは気にしていないようで、身じろぐマリーの反応を良い風に解釈したのか、もう一方の手がドレスの上から尻を揉み始めた。 (冗談じゃないわ。もう寝たいのに……!)  焦りを感じ始めたタイミングで、ちょうどノックの音が部屋に響いた。  返事を返すと扉の後ろから中年の女が顔を出す。ギョッとするマイセンを見ることなく、女はズカズカと夫婦の寝室へと押し入って来た。 「ママ、マリーとの時間を邪魔しないでくれよ!」 「ごめんなさいね、マイセン。ママはマリーと大切なお話があるのよ、大事なことだから少しだけ二人にしてくれないかしら?」 「マリーは今、月のものが来ているそうだ。眠い眠いと言っているから早めに解放してやってほしい」 「まぁまぁ、そうなのね。分かったわ」  マリーの虚偽の報告を信じて律儀にそれを義母へと告げる夫に目眩を覚えつつ、来るべき攻撃に備えて笑顔を作る。  ほとんど全ての嫁と姑がそうであるように、マリーにとってもマイセンの母は難敵だった。嫁いで来た時は一生懸命に気に入られようと尽くしたけれど、半年が過ぎた頃にはさすがのマリーも気付いた。この女は自分と仲良くする気なんて微塵も無いのだ、と。  頭を掻きながら部屋を出て行くマイセンを見送って、義母はこちらへと顔を向けた。 「またダメだったのねぇ」  主語がなくても分かる。  彼女は子供のことを言っているのだ。 「………すみません」  返せる言葉は限られていた。マリーはいつも通りに悲しい表情を作って、弱々しい声でそう答える。お決まりの回答に義母は不満げだ。 「マリー、貴女はまだ若いけど…どこか体調が悪かったりするの?」 「いいえ……お義母様」 「明日、知り合いが紹介してくれた懐妊術師に来てもらうように頼んだから、会ってくれるわよね?」 「懐妊術師ですか……?」  怪しすぎる職業に眉を寄せると義母はフンッと鼻を鳴らした。 「べつに貴女が石女(うまずめ)だって疑ってるわけじゃあないのよ?ただ、ちょっと……ねぇ?」  マリーは何も答えなかった。  義母の言いたいことは分かる。  それは今まで再三言われてきたことで、結婚して三年経つのに未だ子宝に恵まれない若い夫婦を案じての気遣いだと理解もしている。 「………すみません、お義母様。ご心配をお掛けして」 「当然の務めよ。ハワード家の存続に関わる問題だもの」  ホホッと笑うと身を翻して義母は部屋を去った。  きっと入れ替わりでもうすぐマイセンも戻ってくる。  マリーは窓の外に目を走らせた。  白っぽい丸い月が気持ち良さそうにプカプカと浮かんでいる。開け放たれた窓からは心地よい風が吹き込んでいた。 (………もう無理だわ……うんざりなのよ)  窓枠に手を掛けて下を見下ろす。夜風に背中を押されるように、マリーは窓を乗り越えて草の上に飛び降りた。二人の寝室が一階にあったのはきっと不幸中の幸い。  結婚して三年と二ヶ月。  マリーは、嫁ぎ先である男爵家から脱走した。
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