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木場家の食卓
12月16日、正午過ぎ。今年も残すところ半月を切り、1年を振り返る内容のニュースが多く取り上げられている。実家のダイニングテーブルの前に腰掛けた木場は、昼食を箸でつつきながら、そのニュースを見るともなく眺めていた。
「あ、ちょっとお兄ちゃん!それあたしの魚!」
横から声がして、木場ははたと視線を落とした。白ご飯に味噌汁、焼き魚に和え物と、和食の見本のような献立が眼前に並んでいる。木場の箸先が掴んでいたのは、自分の右側に座る妹の焼き魚だった。
「あ、ごめんごめん。ニュース見てたらボーッとしてたみたいだ」
「もう、食べる時くらいしっかりしてよね。お兄ちゃんただでさえも抜けてるんだから」
妹は拗ねたように言うと、木場から焼き魚を奪い返して口に放り込み、当てつけるように大袈裟にもしゃもしゃと咀嚼した。
「こら、茉奈香。隆司も久しぶりに帰ってきたんだから、そんなに当たらないの」
窘めるように言いながら、追加の肉じゃがを木場の前に置いたのは母だ。子どもの喧嘩を見つめるように皺の寄った目尻を細めている。
「うわぁいい匂いだなぁ」木場が相好を崩して肉じゃがのお椀に箸を伸ばした。
「やっぱり母さんの料理はいいね。普段コンビニ弁当ばっかりだから余計に美味く感じるよ」
「お兄ちゃんも早くお嫁さんもらえばいいのに。警察にいい人いないの?」妹がご飯を頬張りながら尋ねた。
「うーん、婦警は気が強い人が多いからなぁ……。自分じゃ相手にされない気がするよ」
「まぁそうだよね。お兄ちゃんって刑事のくせに全然頼りないし、あたしだって別の人の方がいいもん」
ばっさりと切り捨てられ、木場は皿に頭がつきそうになるほどがっくりと首を垂れた。妹は素知らぬ顔で肉じゃがに箸を伸ばしている。そんな2人の姿を、母は微笑ましそうに眺めている。
木場隆司は、今年で28歳になる警視庁捜査一課の刑事だ。
警察官としては6年目で、最初の2年は交番勤務をし、その後本庁の交通課に3年間所属、そして今年度から晴れて念願の一課に配属となった。以来、日々は目まぐるしく過ぎて実家に帰る暇もなかったが、年末になってようやく落ち着きを見せ始めたため、連休を利用して実家に顔を出すことにしたのだった。童顔で小柄な容姿のために被疑者から舐められることは多いが、実家でも妹に足蹴にされるのは日常茶飯事だった。
その木場の妹が、3つ年下の茉奈香である。大学の法学部に在籍する4年生であり、検事を目指して勉強中の身でもある。幼い頃から推理小説を読み漁り、昔は本気で名探偵になりたがっていたが、高校生の頃からは現実的な方向に路線変更し、検事を目指すに至った。なぜ刑事ではなく検事なのかと聞かれれば、「お兄ちゃんの上に立ってこき使いたい」からだそうだ。
容姿はマッシュボブにぱっつんの前髪。髪型だけ見れば可愛らしいお嬢さんのようであるが、その舌鋒は鋭く、いつも兄に辛辣な言葉を浴びせかけては母に窘められている。ただし、決して木場を嫌っているわけではなく、むしろ小さい頃はいつも木場の後をついて回っていた。単に兄をいじるのが面白いのだろう。
そんな2人を日だまりのような笑顔で見守っているのが、母の雅子である。白髪の混じった髪を無造作に一つ結びにし、エプロンをつけて食卓を行き来する姿はどこにでもいる主婦そのものである。
だが、若い頃は女手一つで2人の子を育てるのに苦労しており、経済的にも余裕がなかったため、子に不憫な思いをさせたのではないかと心配していた。それでも2人ともやさぐれずに育ってくれて安堵しているようだ。木場が勤めに出てからは家計も安定しており、今は茉奈香と2人で慎ましい生活を送っている。
『それでは、次のニュースをお伝え致します。先日、都内の自然公園にて、身元不明の男性の死体が発見されました……』
アナウンサーがニュースを読み上げる声が聞こえ、木場は思わず顔を上げてテレビを見た。枯れ木の立ち並ぶ殺風景な公園と、雑草に覆われたおんぼろの小屋が画面に映し出されている。小屋の前には幾重にも黄色いテープが貼られ、紺色の制服を着た鑑識が忙しなく行き交っている。
「やだ、こんな年末に事件? しかも死体って」茉奈香が顔をしかめた。
「うちの近くじゃないみたいだけど、それにしても物騒よねぇ。もう少しほっとするニュースはないのかしら」
雅子が自分のご飯をよそいながらため息をついた。都内ってことは警視庁の管轄か。自分にもそのうち出動命令がかかるかもしれないな。久しぶりに実家でのんびりできるかと思ったのに、刑事の休みなんてあってないようなものだ――。木場はそんなことを思いながら味噌汁を啜った。その間にも、アナウンサーが淡々と原稿の続きを読み上げる。
『死体は公園内にある小屋の中で発見されましたが、小屋にはもう1名の男が倒れており、手には凶器と思われるナイフを握り締めていました。警察は、男を重要参考人として取り調べを進めていく模様です。
男の氏名は蒲田次郎、53歳。所持品から、警視庁に勤める現職の刑事であることが判明しており――』
その名前を聞いた途端、木場は口に含んでいた味噌汁を盛大に吐き出した。茶色い飛沫が食べかけの料理の上に巻き散らされる。
「もう、お兄ちゃんたら汚いなぁ! ちゃんと吹いてよ!」
茉奈香が怒って立ち上がったが、木場は妹の方には目もくれず、野球ボールを口に突っ込まれた人のようにぽかんとしてテレビを凝視していた。
「隆司、死体と一緒に倒れてたって人、刑事だって言ってたけど……もしかして知り合いなの?」
息子の顔が見る見るうちに青ざめていくのを見て、雅子が心配そうに声をかけてきたが、木場はすぐに返事をすることが出来なかった。今聞いたニュースの内容が、質の悪い冗談としか思えなかった。
「……お兄ちゃん? 大丈夫?」
兄の様子が只ならぬことに気づいたのか、茉奈香が顔を覗き込んできた。そこで木場はようやく我に帰った。自分に注がれる母と妹の視線から逃れるように、空になった味噌汁の椀に視線を落とす。
「知り合いなんてもんじゃないよ……」
木場が震える声で言った。声だけでなく、拳までもがぶるぶると震えている。
「ガマさんは……、自分の上司なんだ。刑事のイロハを教えてくれた人なんだよ!」
そう叫んだ瞬間、押さえつけていた感情が一気になだれ込んできて、木場は拳をぐっと握り締めた。茉奈香も雅子も、信じられないように目を見開いて木場を見返している。
平和の象徴のような木場家の食卓に、暗雲が垂れ込めた瞬間だった。
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