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倫が車に引き返そうとした。
あちらの歩道には手すりや柵がない。
こちら側にはある。手すり柵が、手かせ足かせみたいに感じられる。
あちら側に行けない。
それに俺の肩をトマの手が抑えている。
左右を確認してから運転席側に回ろうとして、倫はこちらを見た。
やっと見た。
車のバックドアに手を添えて、こちらを見て動きを止めた。
雨上がり、クモの糸に雨粒がぶら下がっているのを見たことがある。
風に吹かれていた。
細く細くきらきらした糸に、数滴の粒がくっついて一緒に揺れていた。
倫の目はあの時の雨粒みたいに見えた。
細い糸が、真っ直ぐに、俺に向かって放たれた。
「倫」
その名を呼んで自分を慰めた。何度も。
発した音に自分自身が共鳴する。
「真白。危ないよ」
トマが俺の肩に腕を回し、後ろから抱きとめる。
倫は俺を見て、おそらくトマを見て、また俺に視線を戻した。
唇が一文字に結ばれている。
倫は再び動き始めた。
手ぐしで髪をまとめ、結び直した。車の運転席側に回ろうとした。
俺から目を逸らして。
まるで何事もなかったふうに。
まるで俺と会ったことなんて、ないみたいに。
何も聞こえなかったみたいに。
倫は目を伏せて、運転席のドアを開けた。
横顔のあごの線がきれいで、目元がちょっと寂しげで、そんな一瞬一瞬を目に焼きつける。
俺は目を逸らすことなんて出来ないのに。
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