71人が本棚に入れています
本棚に追加
/37ページ
ロビーは花の香りがした。
南国のフルーツを思わせる甘ったるく重い花の香り。
控えめな照明の中に甘い香り。いるだけで酔ってしまいそうな空気が漂っている。
私はベータだからオメガの発するフェロモンは感じない。そのはず。
オメガのフェロモンはアルファにしか感じ取れないのだという。
フェロモンの匂いってこんな感じかなと思いながら、高級ホテルの床に車椅子を滑らせる。
一歩進むごとに見えない膜の内部に入り込んでいく感覚がある。
空気が肌にまとわりつく。
クライエントがどこにいるか、すぐに分かった。人だかりが出来ていた。
ホテルのロビーにふさわしくない怒声が聞こえる。
オメガの彼、真白さんは人だかりの真ん中にいた。
「めずらしい。元気なタイプね」
麻子先輩がほがらかともとれる口調で私に耳打ちした。
私は人だかりをかき分けるように車椅子を進めた。
「ざっけんじゃねえよ。俺に触るな!」
クライエントは、真白さんは、ラウンジの床を転がっていた。
七転八倒という言葉がよく似合う。ローテーブルやソファを蹴っ飛ばす勢いで、床の上でもがいていた。
私は車椅子のストッパーをかけてから、彼の近くにひざまずいた。
お腹に力を入れ、言葉をはっきりと押し出す。
「プリンスロイヤルサービスです」
真白さんは四つん這いに近い姿勢で私を振り仰いだ。
オメガ特有の、透き通るような白い頬に、涙のあと。
真白さんは黒い髪に黒い目をしていた。
まつげにも涙の粒がひっかかっていて、シャンデリアの光を反射していた。
「真白さんですね」
彼は、威嚇するような目で私を見返し、ひと言、吠えた。
「遅えんだよ!」
最初のコメントを投稿しよう!