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 気を取り直した母親とふたりで、敬一は近所の床屋へ祖父を連れて行った。 「お客さん、いったいどれだけの間放っておいたんですか。いっそこのまま伸ばしたらどうです、立派なひげじゃありませんか」  その間にも祖父のひげは成長を続け、胸の下辺りにまで白髯が届いている。  事情を知らない床屋の亭主が、軽く笑いながら母親に言う。 「なん日じゃありませんよ、まだ剃ってから三時間くらいしか経ってないんです。おかしいでしょ、さっさと綺麗さっぱり剃っちゃってください。笑いごとじゃなく、気味が悪いったらありゃしない」  ヒステリックに母親が捲し立てる。  異様な事態に頭が混乱して、怒りっぽくなっているようだ。 「はいはい、じゃあ剃っちゃいますよ」  床屋は大量にシャボンの泡を塗りたくり、一気にひげを剃ってゆく。 〝ぞろり、ぞろり〟  剃刀が手際よく動く。  さすがは専門だけあって、あっという間に顔が綺麗になってゆく。  しかし床屋の顔が怪訝そうに、ぎゅっとしかめられた。 「なんなんですかこれは? 剃っても剃っても見る間にひげが生えてくる。これじゃ切りがない、医者に診せた方がいいんじゃないかな。まともじゃないよこんなの」  顔全体を三度ほど剃ったあと、床屋はとうとう匙を投げた。  ピカピカに磨き上げられた剃刀で剃ったばかりだというのに、祖父の顔には薄すらとひげが浮かんでいる。  帰宅したときには、すでにひげは絵本や映画で見る仙人のようなありさまになっていた。  しかし祖父は特に身体の不調を訴えるでもなく、ごく普通に元気なままである。  夜の七時半頃に父親が会社から帰ってきて、祖父をひと目見てぶったまげて目を剥いた。 「お、親父。いったいなんだその姿は――」  居間のソファーに座ってバラエティ番組を見ている祖父は、茫々と伸びたひげの中に埋まっているように見える。  母親が興奮した口調で、今日のあらましを父親に説明する。 「どんどんひげが伸びるだと? そんな馬鹿な話聞いたことがない」 「馬鹿な話だろうがなんだろうが、実際にお爺ちゃんはこんなになってるのよ。信じるもなにもないじゃないの、あたしだって頭が変になりそうよ」  母親の言葉はもっともだった。 「ううむ。――よし明日会社を休んで、親父を大きな病院に連れて行こう」  その夜は家族三人がかりで、苦労して祖父のひげを大きなはさみで切り取り寝かしつけた。  翌朝祖父の寝室を見て、一家は驚愕のあまり声さえ出せなかった。  掛け布団を覆い尽くすように広がる、白いひげを目にしたからである。  様子を見ると、どうやら祖父は目は醒めているらしい。 「お爺ちゃん、身体の具合はどうですか? どこか変なところはありますか」  母親が恐る恐る声を掛けた。 「いいや痛いところも痒いところもない、じゃがひげが重くて身体を起こせないんじゃ。どうにかしてくれんか、これじゃトイレにも行けん」  しゃあしゃあとした顔で、祖父が応えた。  ひげが伸びているだけで、身体そのものにはなにも変調はないらしい。 「これじゃ病院へも連れて行けないわ、いったいお爺ちゃんどうなっちゃうんでしょ」  母親が泣き出した。 「泣いても始まらん、そうだ救急車を呼ぼう。おい敬一スマホで救急車を呼べ、ぐずぐずするな」  父親も苛々としているのか、口調が荒々しい。  敬一はスマホを取り出し、110番を押す。  電話はすぐに繋がった。 「はい消防です。火事ですか、救急ですか」 「き、救急です。お爺ちゃんが大変なんです、すぐに救急車をお願いします」  慌てながらも、なんとかそこまで話す。 「お爺さんが具合が悪いんですね、状況をお話下さい。どこが悪いんでしょうか、なるべく詳しくお願いします。持病があったり病院に通院しているのならば、それもお願いします」  冷静な声が帰ってくる。 「昨日からひげが生えてくるんです、どんどんひげが生えてくるんです。どうにかしてください、お願いします。お爺ちゃんのひげを、ひげをお願いします」 「ひげ? なにをおっしゃってるのか分かりません。これは110番ですよ、ひげが生えてくるって、からかうつもりなら切ります」 〝ぷつっ〟  一方的に電話が切断された。  呆然とした顔で、敬一は手にしたスマホを見詰めている。 「どうなった、救急車はすぐに来るのか」  ぼーっと突っ立っている息子へ、父親の声が飛ぶ。 「電話切られちゃった――」 「なにやってんだ、もう一度掛けろ。なにをしてるんだお前は、高校生にもなって少しはしっかりしろ」  父親が怒鳴る。  敬一は再びスマホのボタンを押す。  再び同じ会話が繰り返されてゆく。  しかし、敬一が症状を伝え始めると、急に相手の反応が冷たくなる。 「あっ、切らないでください。本当に一大事なんです、お爺ちゃんが大変なことになってるんです」  必死に電話を切らないように、敬一は縋るように声を出している。 「おい、俺に代われ」  父親が強引にスマホを奪い、大きな声を出す。 「とにかく救急車をよこせ、さもないと訴えるぞ。親父に万が一があったら、お前を刑務所に入れてやる。御託はいらんから、とにかくすぐに救急車だ」  高圧的な父の剣幕に押され、どうにか救急車を向かわせてくれることになった。  布団の中には白いひげに覆われた小柄な祖父が、屈託なく欠伸をしていた。
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