ウィーンへ

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 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンにおいて、音楽家の父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ・ケーヴェリヒ・ライムの第二子として生まれた。マリアは7人の子供を産んだが成人したのは3人のみ。ルートヴィヒは長男になる。  父ヨハンは宮廷歌手であったが、無類の酒好きで収入は途絶えがちだった。  ベートーヴェンは父からその才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けた。  1787年春、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問した。  カール・チェルニーの伝える所によれば、ベートーヴェンはこの地でモーツァルトの即興演奏を聴き、彼の演奏を 「すばらしいが、ムラがあり、ノン・レガート」 と語ったという。  ウィーンで2週間程滞在した頃、ベートーヴェンは母親の危篤の報を受けてボンに戻った。母は2か月後の7月に死没した。  一方で父親のアルコール依存症と鬱病は悪化していった。  1790年12月には、当時絶頂期だったハイドンがボンに立ち寄り、ベートーヴェンの才能を認め、1792年7月には弟子としてウィーンに来れるよう約束が交わされた。  1792年11月2日の早朝に出発し、1週間かけてウィーンに到着した。  1792年12月18日には父ヨハンが死去したが、ベートーヴェンは葬儀のためにボンに戻ることはなかった。  1792年11月~1794年1月までの日記には、買い物の支出の記録やハイドンのもとでのレッスン料の記録は残っているが、父ヨハンの葬儀に関する記録は全く残っていない。  ベートーヴェンはウィーンに来てから徐々に名声をあげていき、4年が経った1796年の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっている。 『彼は演奏の稀にみる速さによって広く称賛されており、最も手強い困難な箇所をいとも簡単に習得してしまうことで驚きを与えている。  すでに音楽の内なる聖域に入ってしまったようで、正確さ、感性、趣味において傑出している。~中略~  このような非常に偉大な天才が、その実をこれほど優れた大家たちの指導下に置いたとあれば、そもそも期待できないことなどあろうか!   彼は既に数曲の美しいソナタを作曲している。その中で最も新しいものは、特に傑出したものと評価されている」 (1796年にヨハン・フェルディナント・フォン・シェーンフェルトが刊行した『ヴィーン・プラハ音楽芸術年報』の作曲家に対する寸評)
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