アリは猫の唄を知らない

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「そういや、なんか話したいことあるって言ってたじゃん。そろそろ聞かせてもらってもいい?」  不意にはっきりと聴こえた問いに、小さく身体が揺れる。正直、もう話をしたくない。疲れていた。それでも話さなくてはという義務感が、冬亜の期待感が、押し寄せてきて苦しくなる。  困り果てた末、この口はニヤリと笑った。 「ええ? 聞きたいのお?」  飛び出したのは、信じ難いようなふざけた物言い。きちんと積み上げられなかった対話の底から現れた、不気味な道化の私。  冬亜はめんくらった様子を見せたけれど、すぐに立ち直る。 「……うん。聞かせて」 「えっとお~、ずっと黙ってたけどお、アタシ蟻の子孫である蟻人間だからあ、犬みたいな猫人間のオマエとは、仲良くできないんだってハナシ」  ひりつくような……  間が。  お願い。笑い飛ばして。いつもみたいに。ひとつも面白くなかったと思うけど。共感性羞恥やばいかもしれないけど。ちょっとしたギャグだと思って。お願い。お願いだよ。 「……何、それ」  冬亜は苦笑を漏らした。よかった、笑っ 「そんな持って回った言い方しなくていいよ」  再会してからはじめて聞く種類の、ひややかな声が私の頬を裂いていく。明瞭には聴こえないその音色の深さは、こんなときにも私の心を切なくさせる。 「何か俺に、しっくりこないものがあるってことでいい?」 「ちがーうもん」 「違わないだろ」 「ちがうもんん~!」  冬亜は大きくため息をついた。もう無理だ。一秒でも早く、彼を解放してあげなくちゃ。  なのに、私は冬亜の顔を下からずいと覗き込む。 「は? 何? オマエ今、ワイのこと気持ち悪いって思ってんだろ? ひどい。ひどいひどい。ひどすぎるよう。うぇ~ん泣いちゃう。ひどいひどいひど~い!」  私であったはずのソイツは、傘をぶんっと放り捨てた。それから、びたびたに濡れた暗い色の草地へと躍り出ていく。そして、踊り出した。  少女で少年だったころ、金色に光る草たちの目を盗んで淡いキスをした私たちは今、豪雨と雑草の谷底に埋まりながら、指一本ふれあわない。  この世で一番大切で、そして離れなければいけないことを適切に伝えるには、どうしたらよかったんだろう。思い切り抱き締めて念じればよかった? あなたが好きで、あなたとだけは無理なんだって。    *  ひとり乗り込んだ帰りのバスに揺られながら、私は、いつか見た光景を思い出している。  寂しい道のかたわらに、白い猫がいた。いっぱいの枯れ葉にまみれて、横たわって。見るからにしなやかなその生き物はそのとき、もう生きてはいなかった。  あんなに可愛く躍動する生き物が、すでに命の灯を失っている。それだけでも息苦しいほど悲愴なのに、その顔に蟻が群がっていたことが、二度私を絶望させた。おまえたち、甘いものしか食べないんじゃなかったの。どうして、こんなに尊いものを舐め続ける習性なんかに生まれたの。  抱き上げて葬ってやる度量などあるわけもなく逃げ出した自分自身にも、三度目の落胆をした。  だらだらと雨の流れ続けるバスの窓の向こう、どうしようもないそんな光景が、現れてはまた消えていく。  聴こえないことが悪いことだとか、聴こえないから何かをあきらめなきゃいけないなんて、全然思わない。聴こえなくたって成り立つ関係はいくらでもあるはずだし、私以外の人にならちゃんとできるはず。  ただ、今の私の人間性は冬亜のそばにいるのに相応しくなくなった。郷愁の上に新しいお城を建てていくような恋を続けるには、相応しくなくなった。それだけだ。
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