アリは猫の唄を知らない

1/10
前へ
/10ページ
次へ
 大学に入って一週間が過ぎ、清らかな桜の花びらが若葉の色に濁されはじめたころ、その声は突然私を呼び止めた。 「茜音(あかね)?」  肌寒い土曜の午後だった。演劇サークルの見学を終え、私と友達は部室のある建物を出てきたところだった。軽やかなのに低く深みを帯びたその声を聞き、私の足はぎくりと地面に釘づけになる。 「茜音だよね」  顔を見て確かめるまでもない。声の主は、中川冬亜(とうあ)。私の幼なじみ。兼、はじめての恋人だった人。  近づいてくる彼は、想定より少し背が高い。面長になった気もする。切れ長の目に白い肌、すんなりとしなやかな全身の線は変わらない。横にいた友達が、気を利かせて先に帰っていってしまう。 「驚いた。いや正直、同じ大学っぽいのは人から聞いて知ってたけど」 「うん。私も」 「でも、早速会うとは思わなかった」 「うん……」 「あいかわらず、瞳が黒い」 「……ふふ」  思わず、笑ってしまう。  茜音って、蟻みたい。いつだったか、冬亜はそう言ったのだった。瞳と髪が深い黒だからって。いまいちな喩えに腹が立ったけれど、あまりに悪びれないから笑ってしまった。そんな彼を、私は犬みたいな猫みたいだと思った。  前と変わらず私よりきれいだと思う肌が目に眩しく、頬が熱くなりかける。会わなくなった二年半の間に、会話の質感が変わってしまったなんてこともない。あまりにも、昔のままの冬亜だ。このまますんなりと、元に戻れるんじゃないかと錯覚してしまう。  私が出てきた建物を彼はちらりと見た。 「サークルかなんかの用事?」 「うん。劇研の見学してた」 「そっか。演劇続けるんだ?」 「まだわかんないけど。冬亜は?」 「俺もわかんないけど、なんかちっちゃいことやろうかなって。ボードゲーム研究会とかさ。ちっちゃいって言ったら失礼か」 「ふふ。バスケとはぜんぜん違うジャンルだ」 「そう」  少し話せば、彼が特別なのはすぐに分かる。人の疲労を溶かし、芯から解き放ってくれる力が彼にはある。これ以上ひとりでも多くの女の子に、これに気づいてほしくない……と思ってしまう。 「このあと、時間あったりする?」  慎重に私の顔色を見ながら、冬亜はそう言った。  ほら。こうやって距離が縮まってしまうのは分かりきったことなんだから、すぐに立ち去るべきだったのに。分かっていたのに。なのに、私はそうしなかった。 「よかったら、カフェかなんか行かない?」 「いいよ」 「よかった」  ほっとしたように、彼は笑う。  ……よく、ないのに。  ダメなのだ、私たちは。近づいてはいけないのだ、本当は。一秒でも長く一緒にいたら、どうしようもない自然の力で、ふたりとも絶対にいやな思いをする。私はそれをよく知っていたはずだ。だから、私から距離を置いたのに。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加