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秋の訪れ
ふいに意識を引き戻された利蔵は不審げに目をやった。
「本気じゃない? どういう意味だ」
「もし私のアレルギーが命に係わる重篤なものだって判ってたら、あの人やらなかった気がする。ちょっと具合悪くさせて私を怖がらせることで、私が話し合いに応じるようにしたかったんじゃないかな」
「まあもしものことがあれば、必ず警察が出張ってくるからな。そうしたら全部バレて元も子もなくなるし、それは奴らも望まないだろう。でもな」
利蔵はふんと鼻を鳴らした。
「俺にとっては、どっちでも同じだよ。俺たちは検察でも弁護士でも、ましてや裁判官でもねえ。殺意があったかどうかなんて、どうだっていいんだ。あいつは依頼人であり、保護すべき対象であるおまえを裏切った。その事実だけで充分だ」
利蔵の珍しく静かな声音に、今度は美海音が黙り込む番だった。
「――宇崎さんとは話したの?」
利蔵は黙って頷いた。
宇崎の父親が入院したという病院を訪れた利蔵の手に、警察での分析結果が握られているのを見た誠司は、即座にすべてを悟ったようだった。
「……庇うわけじゃねえが、最初は誠司もきちんと務めを果たすつもりだったはずだ。だがあいつも親父さんのことで金に困ってたみたいでよ。奴らと交渉するうちに、たまたまそれを知られたか何かで、協力話を持ちかけられたそうだ。もしおまえの意思を翻させていくらかでも奴らの懐に入れば、そのうちの何%かを成功報酬として支払うって条件でな」
「ふうん……そんな理由だったら、私が貸してあげてもよかったのに。無事に遺贈が済んだら可能でしょ?」
美海音の単純な提案に、利蔵は陰鬱な気分も忘れて思わず噴き出した。
「そういうところがまだ子供だな。いくら何でもそんなわけにはいかねえよ。まだ未成年のおまえから、大人が金借りてみろ。横領か、あるいは恐喝したかと疑われるのがオチだ。そもそも大の大人が、年端もいかねえ女子高生から金借りる真似なんかするか。そこは大人のプライドってものがあるからな」
「それぐらいなら、あの人たちに味方して私に一服盛る方がいいってこと?」
冷静な美海音の指摘に、利蔵はぐっと詰まった。
「――すまん。おまえの言うとおりだ。どんな理由があるにせよ、あいつのやったことは許されることじゃない」
利蔵は自分の言葉を吞み下すように空を仰いだ。目に染みるような青空なら絵になるが、あいにく今日はどんよりとした曇り空だ。
「寂しい?」
探るように下から覗き込む美海音の視線に閉口して、利蔵はぷいと顔を背けた。
「あ、やっぱ寂しいんだ」
「うるせえな。ガキが判ったような口利くな」
美海音は珍しくきまり悪そうに口ごもった。
「――でも正直、ちょっと悪かったかなとは思ってる」
「悪い? 何がだよ」
「だって高校の頃からの友達だったんでしょ? なのに私のせいでこんなことになっちゃったから……」
利蔵は気を変えるように、自分の膝をばんばんと音を立てて叩いた。
「それはまた別の話だ。おまえのせいじゃない。いくら親父さんのことがあるとはいえ、さすがに依頼者の命を危険にさらすような真似した奴と、親友づきあいするつもりはないからな。いちおうこれでも元警官だぞ」
だが美海音はそれには答えず、遠くの川原に見える親子連れをじっと眺めていた。
「……まあその、なんだ。寂しいってのはないけどよ。何しろ長い付き合いだったからな。なんかこう、急に隣の席にいた奴がいなくなった的な……」
「だからそういうのを、世間では “寂しい” って言うんじゃないの?」
「なにが世間、だ。ばりばり現役のJK風情に言われたかねえよ」
美海音はぷっと口を尖らせた。
「こう見えても、それなりに世間は見てきたと自負してますけど。ばりばり現役のJK風情でもね。少なくとも授業中に居眠りしまくってた高校生男子に比べれば」
「ったく、口の減らねえ……」
悔しまぎれに利蔵が口の端から呟きを洩らすと、珍しく美海音が、あははと声を上げて笑った。
「ねえ、これからは私が雇ってあげる」
「は? おまえが何だって?」
美海音は立ち上がると、くるりと利蔵の前に回り込んだ。
「ボディガード。まだ遺贈の手続きは終わってないもの。代理人は別の弁護士さんが引き継いでくれたけど、それが終わるまでは完全に安全とは言えないでしょ? もうあの人たちが何かしてくることはないとは思うけど。とにかく遺贈が済んだらお金払うから、それまでは契約続行ってことでどう?」
利蔵はげんなりした顔で美海音から目を逸らした。
「あほう、さっき俺が言ったこと聞いてたか。いい歳して、女子高生から雇われるなんて真っ平だ」
「出た、大人のプライド」
利蔵は目の前の美海音を押しのけるようにして立ち上がると、さっさと川べりの道を歩き出した。後ろから美海音の不満そうな声が追っかけてくる。
「ちょっと、話の途中で帰んないでよ。今度、新しい弁護士さんに会いに行かなきゃいけないんだし……」
「うるせえな」
利蔵は立ち止まると、肩越しに振り返った。
「そんなもの、金もらわなくてもやってやる。いったん引き受けたものを、そうぽいぽい放り出せるか。大人を舐めんじゃねえよ」
「――なんか義務感丸出し。いかにも契約があるから仕方なくって感じ」
「何言ってんだ、おまえがさっきそう言っただろうが。遺贈が終わるまではって」
それはそうだけど、と美海音が悔しそうに口の中で言葉を転がした。
「……でも私、けっこう楽しかったけどな。利蔵さんとコンビ組むの」
「勘弁してくれ。探偵気取りのJK相手にするほど、俺ぁ暇じゃねえんだよ」
そう言うや、利蔵はくるりと前を向いた。だが歩き出そうともせず、背中を見せたままその場に立ち止まっている。
「利蔵さん?」
利蔵は聞こえるか聞こえないかの声音で、ぼそりと呟いた。
「――遺贈の手続きが終わったら、多少は金が入るだろ。そうしたら早めにスマホ買え」
「スマホ?」
「ああ。それならいつでも好きに連絡できるだろうが。俺の番号は知ってるだろ」
ぽかんとする美海音の顔を見ようともせず、利蔵はぼそぼそと言葉を続けた。
「今度、美味いコーヒーの店に連れてってやるよ。ファミレスとかじゃなくて、本物のコーヒーが味わえる店にな。そうすりゃいずれ飲めるようになるだろ」
そう言い捨てると、利蔵は日の暮れ始めた川べりの道を足早に歩いていく。
川から吹き抜ける夕暮れの風はかすかに冷たく、どこか秋の気配を感じさせながらも、立ち尽くす美海音の頬を優しく撫でた。
「利蔵さん、待ってよ」
頬にかかった髪を払いながら、美海音は長く伸びた利蔵の影を踏むように、その後ろ姿を軽やかな足取りで追いかけていった。
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