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急展開
「ごめんなさい。お待たせしました」
珍しく美海音が素直に頭を下げた。さすがにきまりが悪いらしい。
「いいから早く座れ。氷が溶けるぞ」
「うん……きゃっ!」
ボックス席に座ろうとした美海音の手が当たったのか、今度はテーブルの上のグラスが勢いよく横倒しになった。中身のアイスコーヒーがテーブルと言わず床と言わず、派手に飛び散ってあちこちに褐色の溜まりをつくる。
「うわっ!」
「おま……ったく、何やってんだよ!」
テーブルは一瞬で騒然となった。はずみで利蔵のグラスまでが傾き、新たな雫が飛び散る。店員が遠くから慌てて駆け寄ってくる前に、美海音は慌てたようにおしぼりを掴んでテーブルの下に潜り込むと、濡れた合皮のソファや床を吹き始めた。
「おまえ、今日どっかおかしいぞ。どうしたんだよ」
いつも小憎らしいぐらい冷静な美海音にしては、どうにも落ち着きがない。だが利蔵の叱責も聞こえないのか、美海音はテーブルの下から、にゅっと手を突き出した。
「ナプキン取って」
「は?」
「紙ナプキン。テーブルの上の」
利蔵は仕方なく舌打ちをひとつ洩らすと、テーブルの上のホルダーから紙ナプキンを乱暴に束で抜き取って、美海音の手に渡してやる。
「ありがと。もうちょっと待ってて」
美海音は紙ナプキンを掴むやテーブルの下に潜ったまま、利蔵の前のテーブルの縁に垂れたアイスコーヒーを手早く拭った。
「あのお客様。あとはこちらが拭きますので、どうぞお座りになってください。新しいお席をご用意しますので……」
店長と思しき男性が離れた席を指し示すと同時に、美海音がテーブルの下から姿を現して立ち上がった。その手には濡れたおしぼりと紙ナプキンが、それぞれ透明なビニール袋に入れられてぶら下がっている。
――ビニール袋? いつの間にそんなものを、と利蔵が怪訝に思うと同時に、美海音が口を開いた。
「さ、これで用は済んだわ。帰ろう、利蔵さん」
「は? おまえ何言ってるんだ、美海音。まだ話も何も……」
「いいの。もうこっちの用事は終わったから、これ以上ここにいる必要ないわ」
「おい! 何だ、さっきから黙って聞いてれば!」
あまりに奔放な美海音の物言いに、さすがに堪忍袋の緒が切れたのか、滋が声を荒げた。一瞬でまわりの客が黙り込み、驚きと好奇の視線が集中する。
「だめよ、義兄さん!」
「伯父さん、やめろよ!」
薄っぺらな温厚の仮面をかなぐり捨てた滋を、祐子と直人が慌てて止める。だが美海音は驚いた様子もなく、にこりと笑った。
「悪いけど、私はサチさんとの約束を破るつもりはまったくないから」
「約束だと?」
「そう。サチさんはいつも『もう弟たちには関わりたくないし、関わってほしくもない』って言ってたから。だから私は、そっちの提案とやらに応じるつもりはこれっぽっちもないわ」
「美海音、やめろ!」
「……生意気な口を……この小娘が……いつか痛い目みるぞ……!」
ぎりぎりと歯軋りの音が聞こえそうな顔つきで滋が唸った。直人と祐子も蒼ざめた顔を引きつらせて、美海音を睨み上げている。だが美海音は怯むどころか、挑むような口調で切り返した。
「痛い目? それなら自分たちこそ心配した方がいいんじゃない? いったい何が目的で、今さら私を呼び出したんだか。さ、利蔵さん、帰ろう。まだやることあるし」
そう言うや、美海音は立ったままでテーブルの上の自分のグラスを掴むと、わずかに残ったアイスコーヒーをまるで見せつけるかのように、ぐいと飲み干した。そして空になったグラスを置くや、唖然とする滋たちに背を向けて悠然と店を出て行った。
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