〈こい〉と言わないで

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 歩くたびに靴の中で水が滲み出てグチャグチャと音を立てる。学校に来るまでに長く走ったせいかまだ心臓がうるさい。頭の中に色んなことが渦巻いているのに、どれも意識する前に通り過ぎて(わだかま)っていく。  不意に右手に弱く手応えがあった。振り返ると、靴下のままの木元が足の裏を気にして立ち止まっている。 「……悪い。足、平気か……?」 「うん。ごめん、少しだけ待って……」  木元が前屈みで靴を履くと、服の先からポタポタと水滴が垂れる。 「なあ……」  勝手に口が動いた。靴を履き終えた木元が顔を上げる。 「なんか、あるだろ。俺に、言いたいこととか……」  木元がまっすぐ俺を見た。 「……うん、ありがとう」  苦しい。怒りとも悲しみともつかない感情が喉の奥を締め付ける。 「そうじゃなくてッ! お前のせいだって言えよっ! お前のせいでこんな、こんな目にあったって……」  いっそ怒って突き放してくれれば楽なのに。お互い嫌いあって、もう話すこともないんだ。 「……映画の公開、来年の春だって」  顔を上げると、木元は変わらない表情で俺を見ていた。 「一緒に観にいこうよ」 「……なんで……っ」  泣きたくないのに、我慢できなくて涙が溢れてくる。 「もし映画が失敗作でも、萩丘くんとなら笑い話になるから」 「なるかな……、笑い話……」 「うん……」  俺は「そっか」と笑い混じりに言うと、ふと視線を感じて振り返った。すると、怪訝そうな目つきの通行人たちが咄嗟に顔を逸らす。  少し気持ちが落ち着いたおかげで、改めて自分たちの異様さに気づいた。全身ずぶ濡れで、道端で言い合いまでして、怪しまれるのも無理はない。 (これ、電車乗れねーよな……)  落ちる水滴を見ながら立ち尽くすと、隣に歩み出た木元が俺の顔をのぞき込んだ。 「僕の家、もうすぐだから、行こ」 「マジで? いいの? てか、これはどうする……?」  胸に抱えたままの濡れた教材。泥水のせいで汚れてるし、もう捨てるしかないんだろうか。 「それは……洗剤を溶いた水で軽くすすいでから、とりあえず冷凍してみる」 「冷凍……?」 「濡れた紙は冷凍してから乾燥させると、元に戻るんだよ」 「マジ!? なんで!」  驚く俺を見て、木元が珍しく声を立てて笑った。 「やっぱり萩丘くんと話すの楽しいな」  そう言って、通り過ぎていく。 「おい、いま少しバカにしたろ」 「してないよ。ただそんな驚くと思わなくて……っ」  また笑い出す木元にいじけて目を眇めるも、追いつく頃には我知らず笑顔に変わっていた。 「そういえば木元、眼鏡は? アイツらにやられた……?」 「うん。けど、家にもうひとつあるから。でも、これを機にコンタクトにしてみようかなぁ」  風に初夏の気配が滲む6月の終わり。夕焼けと夜が混ざり始めた空に浮かんだ小さな月が、二人分の足跡をそっと照らしていた。
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