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俺が木元と出会ったのは、中学生になって初めての冬。朝からずっと雨が降っていて、校舎の中にまで雨の匂いが染み込むような、そんな日のことだった。
「えー、小倉先生はインフルエンザでお休みなので、今日の数学は自習とします。必要な場合は、図書室で教材を借りに行っても構いません」
担任教師の言葉でたちまち教室がざわめいた。
「静かに!」
そんな注意も空しく、あちこちで話し声が上がる。俺の背中にもツンとシャーペンの先端が当てられた。誰の仕業かは分かっていたので、あっさり振り返る。
「先生がインフルとかヤバくね? このまま俺らのクラスも学級閉鎖かな?」
興奮した様子で顔を寄せてきたのは、井上翔也だ。同じバスケ部で、中学生になってできた最初の友達。部活見学の時に知り合って仲良くなった。バスケに対する真剣さや熱量も高く、一緒にいると良い刺激になる。勉強嫌いの俺が高倍率の中高一貫校に入れた理由が、監督からのスカウトによる特別推薦であることを知っている唯一のクラスメイトだ。
この学校は高校進学のタイミングで『特進コース』『スポーツコース』の進路選択をすることができる。でも、俺みたいなスカウト組は、一般試験を受ける代わりに『スポーツコース』へ進級することが決められていた。もちろん学力テストがなかったわけじゃないけど、厳しい一般試験をクリアしたヤツらからしたら良い気はしないだろう。そう思って、なるべく口外しないようにしている。
「学級閉鎖って、そうなったら部活もできねーじゃん。次の大会まであと1ヶ月ねーのに……」
担任が説明を終えて教室を出ていくと、各々が自習に取り掛かるべく動き出した。
「井上、俺図書室でテキスト借りてくるけど、お前どうする?」
「あー、俺は塾の宿題あるからそれやるわ」
「ああ、了解」
何でもないように踵を返したが、今一瞬流れた気まずさに気づかないほどバカじゃない。プロのバスケ選手になるという夢のために入学したはいいものの、クラスメイトとの勉強に対する姿勢の違いに、居心地の悪さを感じる時が度々あった。そういう時は、途端に息が詰まりそうになる。
俺は逃げるように教室を出ると、冷たい廊下の空気を切って図書室へ向かった。
当然ながら図書室にはほとんど誰もいなかった。
「一年三組の人たちですか?」
貸出カウンター越しに図書館司書の先生が声をかける。俺と数名のクラスメイトがうなずくと
「問題集は数に限りがありますから、授業後に必ず返却してください」
説明を受けて、みんなぞろぞろと『テキスト・問題集コーナー』の書架へと歩いていく。俺はそんな列を逸れて本棚の列に身を滑り込ませた。目当ての教材がある訳でもないし、何よりすぐ教室に戻るのも惜しい。せっかく抜け出せたんだ。もう少しだけ──
身長は平均よりある方だけど、本棚は俺の頭上よりずっと上まで伸びていて、そこに隙間なく本が並んでいる。
(外国の本、か……)
背表紙の題名を何とは無しに眺めて歩く。そうして本棚の角を曲がると「わっ……」と微かな声があがった。顔を向けると目の前に人が迫っている。本に夢中で気づかなかった。ぶつかる既で立ち止まるも、避けようとした相手の腕からバラバラと本が落ちた。
「あっ、すンません……」
慌てて本を拾い集めて、ある一冊に目を留める。
(ミスター、も、ず……?)
「それ、おもしろいよ。一話完結で、勉強の息抜きに丁度いいし」
「え……」
顔を上げると、分厚い眼鏡をかけた男子生徒が俺を見下ろしていた。小柄だし、多分一年生だろう。
「探してたんでしょ? 小説……」
レンズの奥の瞳に不思議と惹き付けられる。
「うん……」
勝手に口が動いた。
「僕の私物でよければ、貸してあげる」
「あ、ありがとう……」
そいつは俺の手から小説以外の本を掬い取ると、腕に挟み、空いた方の手を差出した。
「一年一組、木元博」
真っ直ぐ伸ばされた手のひらも、俺よりずっと小さい。
「一年三組、萩丘、一輝……」
手を重ねると、ひんやりとした指先が力んで、グッと引き上げられた。
「よろしくね萩丘くん。僕、休み時間はだいたい図書室にいるから」
「ああ……読み終わったら、返す」
「うん。自習、三組もなんだ。お互い頑張ろうね」
またね、とその姿が本棚の影に消えた。俺は受け取った本の表紙に改めて視線を落とす。
──『Mr.MOZU』
カバーは無く、青い厚紙に銀色で題名が印字されている。指でなぞると文字に合わせてざらざらと凹んでいた。
「──まじで塾の課題持ってくるんだった!」
数人の靴音で我に返る。俺は表紙を隠すように本を胸に抱くと、クラスメイトと入れ違いに教材コーナーへ向かった。
『モズ、君ときたらまた僕を騙したな!』
そう僕が凄むと、モズはその黒い瞳を細めて涼しげに笑んでみせた。
『“敵を欺くには味方から”と言うだろう?』
初めはとっつきにくかった翻訳の独特な言い回しにも次第になれて、次々と文に目を走らせる。行ったこともないイギリスの街並や空気、モズたちの声や仕草が頭の中で鮮やかに展開する。そのとき──
「──カズキッ!!」
「うわっ! ッくりしたあ!」
目の前でねーちゃんが睨んでいた。思わず飛び退いてベッドの背にひじをぶつける。
「ッた! ンだよ! 入るならノックくらい──」
「しーまーしーたぁ。アンタが何回呼んでも出てこないのが悪いンでしょ? ご飯冷めるよ?」
言いながら俺の手元をのぞきこむ。
「何読んでンの? ……小説?」
「勝手に見んな!」
本を閉じて表紙をひざの上に伏せると、ねーちゃんはニヤリと笑って部屋から飛び出した。
「おかーさーん! カズがモテようとしてるモテ! 外国の本読んでるよーっ!」
「はあッ!?」
俺はベッドから跳ね起きると、騒ぎながら階段を降る背を全力で追った。
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