羽を伸ばせなくなった世界

1/2
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
 ダンッ、と勢いよく立ち上がる音が響いた。 「異議あり!」  しゅびっと姿勢良く手を上げて告げる女性。 「被告人は、少し表情を動かしただけです。それを犯罪と決めつけるのは、行き過ぎです…!」  すると、もう一人別の男性が立ち上がる。眼鏡をかけていて、いかにも知的でクールな印象を与える。 「何も行き過ぎではありません。AIの分析により、被告人は被害者女性の胸に視線を向けた後、鼻の下を0.3ミリ伸ばしたと防犯カメラの映像分析によって判断されています。」 「たかが0.3ミリです! くしゃみしそうになっても、動きます。」 「いいえ、AIにヒトの表情を学習させて分析させた結果、くしゃみの表情筋の動かし肩と明確に違いが出ました。」  被告人の男性は、真っ赤になって(うつむ)いていた。痴漢をしたわけではない。  ただ、いかがわしい姿をした女性の姿を見てびっくりして、思わず大きな胸だな、と思ってしまっただけだ。それが、防犯カメラに映っていたその時の自分の表情を分析され、鼻の下を伸ばしたからという理由で、条例違反で罰金刑をくだされるとは夢にも思わなかった。  男性を犯罪者にしたのは『犯罪予防法』という新しい法律だ。人々の表情をAIで分析し、犯罪を犯しそうな人をあらかじめ逮捕したり、罰金刑に処することができる法律だ。人権に反するということで、大規模な反対運動が起きたが、結局施行されてしまった。  男性はその法律が施行されて間もなくの、違反者の一人ということで注目されていた。しかも、視姦罪という罪で。  あまりにも理不尽で、しかも罰金が二百万の上、被害女性にも和解金として三百万を支払うようにと命じられ、弁護士を雇って戦っているが……、あまりにも恥ずかしい。穴があったら入りたいほどだ。  それだけではない。世間の風当たりも強い。ただ、女性の方を見ただけなのに、痴漢か何かしたかのような犯罪者扱いをされている。 「被害女性は精神に傷を負いました。」  男性の方が精神が参っている。最近、何も感じないし、もうどうでもいいや、と投げやりな気分になっていた。姉に話すと心療内科に連れて行かれ、うつ病と診断された。 「だったら、あんな格好しなきゃいいでしょうが…!」  思わず弁護人の女性が怒鳴ってしまう。しん、と静まり返った法廷に、間延びした声が響いた。 「すぅみませーん。わたしぃのぉ、趣味なんですぅ。」  すぐに弁護士は咳払いして謝罪した。 「今のは申し訳ありません。ですが、体を覆う布がほとんどない、乳房や臀部(でんぶ)がほとんど丸見えの水着だけの状態で出歩くのは、公衆わいせつ罪に当たります。」  すると、訴えている水着女性の弁護人がすっと立ち上がった。 「どうやら、法律を理解されていないようです。犯罪予防法では視線や言葉でわいせつな言動をした場合も含まれます。確かに被告人は鼻の下を伸ばしたのです。当然、犯罪予防法の処罰の対象となります。」 「話をすり替えないでください。被害女性のAさんは服を着ている状態とは言いがたい姿でした。  現に多くの人が非常識な姿に振り返って、Aさんの姿を確かめています。それなのに、被告人だけが罰金刑を受けるのは、不公平です。」  被告人の弁護人に正論を糺され、詰まる水着女性Aの弁護人。当の水着女性Aは今日も目のやり場に困る服装をしていた。一応、裁判だということで、上着を着ているのだが、真っ黒なビキニの上にスケスケの真っ白い上着なので、丸見えだった。  さらに、その状態で服の裾を引っ張って伸ばしたりしたものだから、胸のボタンが取れてはらり、と胸の谷間が露わになる。思わずといった体で法廷内が騒がしくなった。 「静粛に!」  裁判官が静かにさせた。  だが、誰もが思っていた。なぜ、こんな馬鹿馬鹿しい裁判が真面目くさって行われているのか。なぜ、この騒動の原因である女性が何も言われないのか。  犯罪予防法が出来てから、少しでも女性を見てから表情を変えると、わいせつな視線で女性を見たことになり、罰金刑をくらってしまう。ゆくゆくは禁固刑にまでなると言われており、女性からも疑問の声が上がっている。  この法律が制定されてから、公衆の面前で大胆な服装をする女性が現れ始め、そんな格好をするのはどうなのか、と疑問を呈した人達が罰金刑をくらう事態が続いている。  何のために、こんな馬鹿げた法律を制定したのか、政治家は何をやっているのかと非難囂々である。外国で続けて制定されているので、外国にしろと言われた圧力だろうと、国民はあきらめている。 「とにかく、AIで分析しなくては分からないほどの表情の変化だったのに、どうして被告人が鼻の下を伸ばしたと分かったのでしょうか? 先医ほども指摘しましたが、多くの人がAさんを見たのにもかかわらず、被告人だけが罪に該当するのはおかしいのではないでしょうか?」 「大勢の人の視線に戸惑ったと訴えています。そして、特に被告人が表情を変えたのを目撃されています。逆に言えば、小さな表情の変化も人間は見つけることができるということです。」  この変な裁判は結局、被告人の敗訴で決まった。なぜなら、政府はこの犯罪予防法を今さら取り下げるつもりはなく、圧力がかかったからだと噂された。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!