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夏の誘惑
「もしもし永瀬? 今何してる?」
「別になにも。CD聴きながら漫画読んでただけ」
夏休み。その日はサッカー部の練習も休みで、僕は別にすることもなく部屋で漫画を読んでいるところだった。
「オヤジくさいなぁ。海行こうよ、海!」
「やだよ暑いのに。どこに行ったって混んでるでしょ?」
折角の君からの誘いを断りたくはなかったけれど、外はこの夏一番の猛暑。この暑さに人混みを歩くなんて、考えただけでもウンザリだった。
でも君と一緒ならそれもいいかな。
「じゃあいいよ他のやつを誘うから。折角静かな穴場を見つけたのに」
もうちょっと熱心に誘ってくれると思っていた僕は、君にあっさりと退かれてちょっと焦ったよ。
自分から断ったくせに、君と一緒に海に行くというオイシイ役をのやつに譲ってやるのはどうしても嫌になった。
「本当に静かなところなの?」
「うん。静かだしすごく綺麗なんだ。永瀬も絶対に気に入るって」
「だったら行ってもいいけど」
「ホント?」
「ああ」
どうやら上手く君の誘いをキープすることができて、僕は安心した。だって、君は一度言い出したらきかないから、ご機嫌を損ねると大変なんだ。
それなのに、君ったら、
「他に誰か誘う?」
なんて、僕に聞くんだよ。仕方なく僕は、
「どっちでもいいよ。椎名の好きにして」
拗ねた感じが出てしまわないように僕は平静を装った。
「今から集めるのも時間かかるか……二人で行こう。いいよね?」
「別にいいけど」
僕はわざとどっちでも良さそうな返事をしたけど、電話のこっち側ではガッツポーズを作ってた。知らなかったでしょ?
君と一緒に海に行くなんて初めてだったから、本当に嬉しかったんだ。
「じゃあ今からM駅に集合ね。ダッシュだよ。遅れたほうが昼飯おごり。いい?」
「OK!」
携帯電話をベッドへ放り投げて、僕は大急ぎで海パンとゴーグル、タオル、それにビニールシートをリュックの中に詰め込んだ。
「椎名と海に行って来る!」
「海ってどこの海に行くの?」
「M駅の近くだと思う」
母はびっくりしていたよ。行き先もはっきりしない場所へいそいそと出かけて行くなんて、およそ僕らしくないからね。しかも、さっきまで暑くて何もしたくないと言っていた僕がいきなり海に行くなんて言い出すんだから。
呆れ顔の母を残して、僕は愛用のチャリに飛び乗った。
近くの駅まではノンストップで走って5分。そこから約束の駅までは、乗り換えも含めて40分くらい。どう考えたって、余裕で君より早く着けるはず……だったのに……どうして?
「はい、永瀬の負け。昼飯はおまえの奢りね」
「何で?!」
改札を出たところで、仁王立ちで待ちかまえている君を見て驚いたよ。
「何で? じゃないの。遅れたほうが昼飯奢るって約束だったでしょ」
「それはそうだけど……椎名! おまえどこから電話かけた?」
「ここからだよ。なに? 家に居ると思った? 残念でした」
やられた。
「いいじゃん。永瀬が昼飯奢るのはもう決まり! それより早く行こう。遅くなっちゃうよ」
僕はまんまと乗せられたわけだ。僕がこうやって来ることも、君にお昼ご飯を奢ることも、最初からの予定の行動だったわけね。
「ズルしたほうが負けだよ!」
僕にそう言われて、走りかけていた君が何をしたか、憶えている?
「アッカンベーーーッ!」
まったく、子どもっぽいったらないよ。
「待てよ椎名!」
他のやつなら許さない。君だから……
君だから、どんなズルをされても僕はこんなに幸せな気分になれる。君は本当に僕にとって【特別な存在】だったんだ。
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