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プロローグ
満開に咲き誇った桜が、心を揺さぶる。
生暖かい風に乗って薄紅色の花びらが頬を掠めるたび、思い出すのはただ一人の顔。忘れたくても忘れられない、心の傷みだ。
あの頃、僕はまだ幼くて、君の気持ちに気付かないでいた。それどころか、自分の気持ちさえ持て余していた。
君の傷ついた心は、僕を許してくれているだろうか。未熟な恋心だったと、笑って許してくれるだろうか。
それとも・・・・・・君の記憶の中から僕のことはもう消え去ってしまっている?
本棚の上段、不揃いに並んでいる世界文学全集の中から、一冊の本を取り出す。ツルゲーネフの【初恋】。
陽の光で黄ばんでしまった厚紙のケースから、本を抜き出してみる。パラパラとページを捲ると、一枚の写真がこぼれ落ちた。そこには、あの懐かしい顔が微笑みを覗かせている。
共に学んだ高校のグラウンド。サッカーボールを抱いた君が、眩しそうにカメラに向かってVサインを送る。
写真好きだった君が、おじいちゃんから中古のライカを貰ったと、大はしゃぎで僕に自慢したんだったよね。
サッカー部の朝練の前に、誰も居ない校庭で僕たちはお互いの写真を撮り合った。モノクロームのその写真は、今でもあの時の鮮やかな君の表情を僕に伝えてくれる。
あの時、君が撮った僕の写真はどうなっているだろう。写真は苦手だと嫌がる僕を追いかけて、無理矢理シャッターを押したあの写真。
きっと苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたに違いない僕の写真を、結局君は僕に見せてくれなかったね。
あどけない君の微笑み。心地よく響く笑い声。無邪気に僕に抱きついてきていた、熱い体。その全てを自分だけのものにしたかった。
君が、好きだった・・・・・・
自分の気持ちを取り繕うのに精一杯で、僕は君の気持ちを勘違いしていた。君もきっと僕のことを好きだと。
僕は知らなかったんだ。君があれ程までに僕のことを嫌っていたなんて。
思い出せば切なさで胸が苦しい。君への思いは、今も募るばかりだから。
満開の桜を見る度に、僕は思い出す。君との出会いを。そして、別れを――
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