七月グラーベ 2

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七月グラーベ 2

一星が通う高校は中高一貫の音羽が通っていた高校でもあったため、音羽の話題は何かと一星の耳に入ってきていた。 「おい、見たか今月のフォルテ」  一星の机の前にはクラシック専門雑誌フォルテが掲げられていた。 「見てないよ」 「おいおい、お前それでも音楽科か?」  一星の机の前に座っているのは、一星の友達である影山寿史だった。彼も同じく音楽科で、ピアノを専攻していた。 「溜池弦蔵と溜池鞠の愛娘、ついにデビューって記事があるんだけどさ」  一星の眉間が寄った。 「その娘の音羽さんの写真もあるんだけど、スタイルいいのな」  寿史の鼻の下が伸びているのがわかる。 「あまりスタイルがわからない服着ててもわかるその胸。やばいよー俺ファンになっちゃうよ」  顔よりスタイルと公言する寿史は、雑誌の音羽のスタイルにくぎ付けだった。痩せすぎず、胸のあるスタイルに、大学生らしい大人と子供の中間な雰囲気が男子高校生を刺激するには十分だった。  雑誌とはいえじろじろと音羽を見る寿史に、たまらず一星は雑誌を取り上げた。 「え、なに。一星も気になるの?」  にやにやする寿史に一星は露骨に嫌そうな顔をした。 「人の婚約者をエロい目で見るな」 「婚約者って……え、こんっ!」  寿史が大声を上げそうになる瞬間、一星は寿史の口元を手で覆った。 「でかい声出すな」 「え、いや、婚約者って……マジ?」 「マジだよ」 「どういうこと?」  寿史はわけわからんと頭を抱えて一星の言葉を待った。 「親が友達同士で、昔そんな話になったらしいよ。俺もつい最近知った」 「マジかよー、お前ずるいぞ!」 「安心しろ、俺はあいつと結婚するつもりないから」 「ないって……」  ふんと鼻で笑い飛ばしているが、じゃーなんで雑誌を取り上げたんだと寿史は心の中で矛盾を感じたが、ややこしくなりそうなので、あえて言わなかった。 「まぁ婚約者だから仕方なく月一で食事してるけど、そんだけだから」  さりげなく毎月会っているアピールもされたと思ったが、寿史は黙っておいた。 「あいつがピアノうまいって誰よりも知ってるし、誰よりも認めてるのは俺だから」  寿史は首を傾げた。これはあれか? 俗にいうツンデレの類かと。  寿史は何かを言いかけて口を開いたが、これ以上深堀して変なスイッチが入ったら嫌だな思ったので、話題を変えることにした。 「あー……それでコンサートは行くの?」 「来てって言われから行くよ」 「あっそー……」  寿史はどうでもよくなってきた。 「その雑誌、一星にあげるわ」 「え、いらねーよ」 「俺ももう萎えたからいいや」  久々にピアノ界のマドンナを見つけたのにと寿史と机に突っ伏した。 「音羽さんあきらめるから、もう雑誌もいらないです」 「あきらめんの早いな」 「お前さえいなければあきらめなかったさ」  窓から入ってくる生ぬるい風が妙にしみ、寿史は春の訪れをもうしばらく待つことにした。  一星の通う高校の掲示板に、クリスマスコンサートと書かれた弦蔵と音羽の写真が載ったポスターが至る所に貼ってあり、それを見るたび一星は心の中でため息をついていた。 「あいつちゃんとやれるのか」  ポスターを見て独り言ちていると、ふとアルトの優しい声に声を掛けられた。 「音羽さんの演奏楽しみね」 「細川先生……」  音羽と一星が中学時代にお世話になった音楽教師の細川だ。たまに廊下で会うこともあるが、目もあってないのに向こうから声をかけてくるのは初めてだった。 「音……溜池さんのこと知ってるんですか?」 「知ってるわよ、教え子だもの。誰よりもピアノが上手な子だったわ」  細川は懐かしむようにポスターの音羽を眺めた。 「やっと表舞台に出てくれるのね」  ほっとしたように言う細川に一星は違和感を感じた。 「なんかあったんですか?」  一星の問いに細川は少し目を見開くと、すっと息を吸い込み、懺悔するかのように話し出した。 「そうね……あれは音羽さんが中学一年生の合唱コンクールの時ね」  あの時のことは鮮明に覚えている。 「音羽さんが演奏者に立候補してくれたんだけど、もう一人立候補者がいて、どちらかを選ばなければならなくて。それで二人の演奏を聴いて決めることにしたの」 「もちろん、溜池さんだったんですよね?」 「いいえ、もう一人の子に決めたわ」  一星は少し驚い顔で細川を見る。細川の目に迷いはなかった。 「音羽さんはね、上手すぎたのよ。合唱コンクールの主役は合唱で、ピアノが表に出すぎてはバランスを崩してしまう。だから音羽さんを選ぶことができなかった」  細川は大きく息を吐いた。今まで溜まっていたものがやっと出たという感じだった。 「彼女のピアノは完璧すぎてね。今でもあの時の演奏を思い出せるわ」  目を閉じればすぐにあの時の目に焼き付いた映像が流れる。ピアノを弾き始めた途端、風が頬をなで、草原の草木が揺れ、鼻を草木の香りがかすめる。空が沈んでフクロウが鳴き出し、星が瞬き始める。地球を感じて大地に立つ自分がそこにいた。ピアノの音だけ、風も匂いも感じられるのかと、その時の驚きは、今でも忘れられない。 「定点観測という曲で、同じ曲を何度か聞いているけど、あれを超える演奏をいまだに聞いたことがない。素晴らしいとしか言えない演奏だった。でも……合奏向きではない」  細川は自分に言い聞かせるようにいった。あの時の選択は間違えではなかったと。  実際、合唱コンクールでは優勝できるほど、ピアノと調和が取れた素晴らしい合唱となった。 「それは溜池さんに言ったんですか」  一星の声に、細川は我に返った。一星の顔を見ると、少し怖い顔をしていた。  責められている気がいた。 「言えるわけないわ。それは相手の子にも失礼になるし、それがその子に伝わらないとも限らないわ。でもそれ以来、音羽さんは人前で弾かなくなってしまって。悪いことしたなって。でも……教師の立場として黙秘しないといけないこともあるから」  言い訳しか並べていない気がするが、気がするだけだと細川は考えないようにした。 「なんでそれを俺に伝えたんですか」 「あまりにも熱心にポスターを見てるから思わずね。それに……もう時効かなって。ずるい大人ね」  刻まれたしわの数ほど細川はあの時より年齢を重ねていた。それでもふと、気が緩んだ瞬間、胸につかえたものが出てしまうこともあった。  一星は何も言わず黙ったままだった。  教師の立場からすればそういう選択だったかもしれないが、そのおかげで音羽が才能を発揮できないのは違うと思った。
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