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婚約不協和音
「音羽、俺が指揮する楽団でピアノ弾かないか」
久々に帰国した父弦蔵が、娘の音羽を見て最初に言った言葉がそれだった。
音羽は父の言った言葉を理解するのに数秒かかり、理解したあと慌てて頭を振った。
「父さん、私が無理なの知ってるでしょ」
お帰りと迎えたかったがそれどころではなかった。
弦蔵は世界をまたにかける指揮者で、今回日本の東京フィルハーモニー交響楽団で指揮をとることとなり、休暇もかねて帰国した。その楽団でピアノを弾かないかと言っているのだ。
「お前のピアノがピカイチなのも知っているが故に、それを腐らせるのは音楽家として容認できない所がやはりあってな」
「腐らせるって……」
音羽はソファーに身を沈め、弦蔵は自分の部屋に荷物を置きに行った。
音羽は音楽一家の娘で、母の鞠も世界をまたにかけるピアニストであった。母は父とは別々で活動しており、ワールドツアーの真っ最中だった。そんなハイブリッドから生まれた音羽は、母のおなかの中にいた時から英才教育を受け、自分の環境がいかに恵まれているかなど知らずにスクスクと育っていった。
母から完璧を求められたレッスン、父からは、曲の背景や感情、作曲家の歴史を学び、そうして耳も感覚も研ぎすまされた音羽から紡ぎだされる音は、一音一音が美しく洗練され、麻薬のような中毒性で何度でも聞きたくなると聴くものを魅了した。
「父さん、わたし別に腐ってないよ」
リビングに戻ってきた弦蔵に音羽は対抗した。ここで言い負かされれば、コンサートに出ざるを得なくなることはわかっていた。
「大学だって音大だし、ピアノの先生になるため教員免許だってとるし。ピアノでこれからも生きていきたいと思ってるよ」
「俺の言ってることはそういうことじゃない」
弦蔵は冷蔵庫からビールを出して音羽の前に座った。プシュッと缶をあけると、乾いた喉を一気に潤した。
「お前のピアノがもったいないと言っているんだ」
耳が痛いと音羽は片目をぎゅっと瞑った。
「お前の奏でるピアノがどれほど凄いか、お前は全くわかっていない。いいか、この俺が言ってるんだぞ、音楽に対してすこぶる厳しいこの俺が」
楽団を束ねる指揮者故、誰よりも厳しく誰よりも音を求める男が言っているのだ。その意味がわからないほど音羽もバカではない。
「でも、私には無理だよ……」
弾きたくないわけではない。弾けるなら弾いている、でも無理なのだ。
「お前の願いをなんでもかなえてやる。それでどうだ」
「なんでも?」
「なんでもだ。別荘が欲しいなら買ってやる。地球一周旅行でもいい。まぁ大学の単位を与えるのは無理だがな」
弦蔵はビールをもう一口飲んで缶を終わらせた。
「本当に、なんでも?」
「なんでも、だ。どうだ? やるか?」
音羽の心が揺らいでいた。なぜならどうしても叶えたい願いがあったからだ。自分ではどうすることもできないが、父ならできる。そう確信できる。
「なら……」
音羽は弦蔵に自分の願いを告げると、弦蔵は少し驚いた顔をし、すぐに親指をぐっと立てた。
「一星、ちょっと話があるんだがいいか」
ヴァイオリンの練習をしているところ、一階にいる父政重から呼ばれた。練習中に呼ばれるなどよっぽどのことなのだろうと、一星は練習をやめ父のいるリビングへと向かった。
「なんかあったの、親父」
まぁ座れと向かいのダイニングテーブル席に促され、一星は素直に座った。
「そのーなんというか……」
言い淀む父の顔はなんとも複雑そうな顔をしていた。
台所に立つ母路子の顔をみると、母も知っているのかなんとも言えないという表情だった。
「なんだよ、気持ちわりぃーな」
「驚かずに聞いてほしいんだが、実はな……」
政重は両手を組み、考え込むように下を向いた。
「実は……お前に婚約者がいるんだ」
「は?」
「婚約者が、いる」
政重は今度はゆっくりはっきりと言った。
「婚約者」
「そう、婚約者」
路子の顔を見ると、路子は下を向いて黙々とじゃがいもの皮をむいていた。
「初耳だけど」
そんな馬鹿なと思いながらも、一星は一応話を進めることにした。
「お前は今年十八で結婚できる歳になるし、お相手の娘さんは今年二十歳だから正式にこの話を進めようってことになってな」
うつむいたままの政重の顔がいまだに見られない。
「相手は?」
ようやく見られた政重の顔が、決意の顔だった。
「溜池弦蔵さんとこの娘さん、音羽ちゃんだよ」
しばらくの沈黙の後、一星が小さく何かを発した。
「なんだって?」
政重は一星に顔を近づけた。
「無理っつったんだよ!」
一星は勢いよく立ち上がった。
「絶対無理!」
「なんで?!」
政重も思わず立ち上がる。
「あの女だけは無理! ぜってぇー許さねぇ―!」
一星は怒りのままリビングを出て自分の部屋へと帰っていった。
「まぁ、思った通りの反応ね」
ため息をついて路子は包丁を置いた。
「あいつはなんであんなに音羽ちゃん嫌うんだろうな」
「いい子なのにね」
政重と路子はため息をついた。
それから二週間後のお昼時、とあるホテルのレストランに音羽はいた。清楚なワンピースでめかしこみ、携帯を見たり置いたりとそわそわと落ち着かない様子だった。
ふいに前の椅子が引かれ、男が無言で座った。
「あずみ、いっせい……くん?」
音羽の目の前に座った男は、音羽の記憶からだいぶ成長し、たくましく育った男だった。
そしてその眼差しは、昔のように音羽を歓迎していなかった。
音羽が最後に一星を見たのは、十年前の秋。
紅葉が色づき始めた冬手前の秋に、二年ぶり溜池家と安積家が日本でそろうということで安積家にて食事をすることとなった。
弦蔵と政重は高校大学と共に音楽を学びあった中で、政重はチェロを、弦蔵はピアノから指揮者へと転向し、それぞれの道を歩みながら同じ時を過ごしていた。
「そういえば、マサがそろそろ本腰を入れて活動していくって聞いたんだが、本当か?」
食後のウイスキーを嗜みながら弦蔵は政重に聞いた。
「あぁ、一星が大きくなったし、路子のピアノ教室もだいぶ板についてきたしな。だから俺もそろそろ復帰しようと思って」
路子は世界をまたにかけるほどの才能はなかったが、それでも政重を虜にするくらいピアノの才能はあった。
「マサは俺と違って、育児もちゃんとできる男だから、路子さんも安心して仕事ができるってやつだな」
「いや、俺の場合は単に子育てやりたかっただけだし、一星はやんちゃで手のかかるやつだから、路子だけだと大変だと思ってさ」
「確かにあの子は手がかかる。いつ学校の先生に呼ばれるかと冷や冷やものよ」
音羽ちゃんのピアノが聞きたいとソファーを飛び回る一星、それを嫌がりながら止めようとする音羽を横目に、路子はため息をついた。
「良き両親だねぇ。うちは両親ともに育児放棄してるからさ」
鞠は軽口をたたいた。
「それは否定できんな。俺も鞠も音羽をほったらかしであちこち行っているしな」
その分、家政婦や両親に頼みながら音羽を育てていた。
「その割には音羽ちゃんひねくれてないよなぁ。そこはすごいよ」
「あの子は生まれる前からそうなることわかってたのよ。じゃなきゃ説明つかないわ」
「確かに、鞠さん出産直前までレコーディングしてたし、出産の時なんか弦蔵のコンサートがあって、それを行ってこい! って行かせて。俺たちが鞠さん病院に連れてな」
「それでマサ君が父親って看護師さんに間違えられてね」
「そうそう、弦蔵くん俺より先に子供を抱くなよって私たちに言って、コンサートに行ったんだもんね」
路子がおかしそうにいうと、そうだったかなと弦蔵は首を擦った。
「本当、いい子に育ったものね」
感慨深そうに鞠がうなずいていると、あることに気が付いた。
「あれ? 子供たちはどこに行ったの?」
「一星が音羽ちゃん連れて部屋を出ていったよ。ピアノの部屋じゃないかな」
「あいつ音羽ちゃんのピアノ大好きだからな」
やんちゃな一星がいなくなり、穏やかな空気が大人たちに流れた。
「もう、一星くん私が来るとピアノ弾いてしか言わないんだから」
ピアノ教室として使用している部屋に音羽を連れてくると、一星はピアノのカパーを開けた。
「しかたないじゃん、音羽ちゃんのピアノが好きなんだもん」
その言葉に音羽はまんざらでもなさそうな顔をした。
「はい、ここ座って」
一星が横長のピアノの椅子の端に座り、その隣をバンバン叩いた。
「はいはい」
音羽はゆっくりと座った。椅子の位置は音羽にぴったりの位置だった。
「何か聞きたい曲ある?」
「音羽ちゃんがひいてくれるならなんでもいい」
自分の身長より少し高めの椅子に足をぶらぶらさせながら、一星は楽しそうにしていた。
その目の輝きにふとある曲が浮かんだ。
「そうだ一星くんの名前にちなんだ曲にしよう。今までなんでひかなかったのってくらいぴったりな曲だよ」
「なにそれ?」
「聞いたらわかるよ」
音羽はにっこり笑うと、白盤から弾き始めた。
二小節目でわかったと一星の顔が明るくなった。
「キラキラ星だ!」
「正解」
最初は幼稚園などで良く聞くありきたりなキラキラ星だが、次第に音が増え、変奏曲へと姿を変えていった。
キラキラ星と同様にどんどん輝きがあふれていく一星の目。
-このキラキラ輝く目をずっと見ていたい。
この時の輝きが音羽の音楽人生にとって全てとなった。
「もうメニュー決めたの?」
低い男らしい声に音羽は我に返った。
「う、うん、コースにしようと思って。お金のことは気にしないで。一星くん学生だし、私が支払いするから」
「あっそう、じゃー遠慮なく」
一星はメニューを決めると、店員を呼び、それぞれ注文した。思いの外逞しく、モテそうな顔立ちに育った一星を音羽はあまり直視することができなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、たまらず一星が口を開いた。
「あんた、知ってたの? 俺たちが婚約者だったって」
「この前父に聞いて知ったよ」
「俺と一緒か……」
また沈黙が続き、今度は音羽から話題を振った。
「十年振りだよね。私が知ってる一星くんってこんなに小さい頃しか知らないから、こんなに大きくなってるなんて知らなかったよ」
こんなからこんなだよと手でジェスチャーしながら音羽は話した。
「ヴァイオリンも弾けるし、ピアスもあけて、クラシックやってるなんて信じられないくらい今どきの高校生だし。学校だとさぞかしモテるんだろうなぁ」
モテる一星がすぐに想像ついた。
「あんたは……変わらないな」
「それは良い意味でとらえていいのかな?」
一星は音羽の問いに答えることはなく、気まずい雰囲気が流れた。
それからすぐに料理がテーブルに運ばれてきた。
黙々と食べる一星に何か話かけなければと音羽は思うが、思えば思うほど何を話せばベストなのかわからず、料理の味がろくにわからないまま、食事が進んでいき、あっという間にデザートまでたどり着いてしまった。
「俺が、ヴァイオリン弾いてるの知ってたんだ」
ふと、一星が音羽に尋ねた。
「うん、この世界に入っていれば一星くんのヴァイオリンの噂は届くよ。いろんなコンクールで優勝してて、コンサートにも出てるって。ピアノからヴァイオリンに変わったのは残念だけど、やっぱりおじさんの血を引いてるし、なんでもできちゃうんだね。すごいよ」
音羽は意気揚々と一星を褒めたたえた。
「あんたは?」
え? と音羽は一星を見ると、一星は獲物を捕らえるような目で音羽を見ていた。
「あんたは何してんの?」
「私? 私はその、音大入って、今はピアノの先生目指してるよ」
「コンクールは出てないの?」
一星の声が冷たくなっているのを感じた。
一星は音羽がコンクールもコンサートも出ていないことを知っていたが、あえて聞いた。
「出て、ないね……」
音羽が暗くなっていくのがわかる。そんなことお構いなしに一星は問い詰めた。
「なんで出ないの? あんたの実力なら優勝間違いないだろ」
「そ、そんな買い被りだよ。私よりうまい人なんていっぱいいるし」
「上手い下手の話じゃねぇーよ。俺は……」
一星は余計なことを言いそうになり、そこで言うをやめた。
「あ、あの、でも、今度コンサートに出るの」
「コンサート?」
一星が食いついたことで、音羽はぱっと顔を明るくした。
「そう、父が今度東京フィルハーモニー交響楽団で指揮をとるから、その時にコンチェルトで私が出ることになったの」
へぇという一星の声が心なしか明るくなった気がした。
「もしよかったら聞きに来てくれないかな。来てくれると嬉しいな」
最後の方がだんだんと声が小さくなっていったが、聞き取ることはできた。
「いいよ、別に」
「ほ、本当?! 良かったぁ」
「ただし、聞くに堪えない演奏だったら帰るから」
「うん、うん、それで構わない。がんばるよ。……それでなんだけど」
言い淀む音羽になんだよと一星は促した。
「その……一星くんってたくさんコンクールとかコンサートに出てるでしょ。私は今回初めて色々わからないところがあると思うんだ。だからこうやって月一回でいいから一緒に食事してアドバイスもらえないかなって思って」
音羽はティーカップの取っ手を持ったり放したりして、自分を落ち着かせようとしていた。
「なるほどね……」
一星は背もたれに自分の背中を預けた。
「いいよ、そんくらい」
音羽はほっとした。
「けど、それとこれとは別に、俺はあんたとの婚約は認めてないから」
音羽はおもわず一星を見た。
「あんたのこと許してないから」
「許す?」
許すとはなんだと音羽は頭を巡らせたが、全く覚えがなかった。
「一星くん、許すってどういうこと?」
「あんたにはわからないことだよ。だから俺は絶対あんたと結婚なんかしない」
一星は残りの紅茶を一気に飲み干すと、席を立った。
「そういうことで。次会う日はまた親父かお袋に連絡して。じゃ、ご馳走さん」
それだけ言って、一星は去っていった。呼び止めようとしたが、意味がないと判断した音羽は大きくため息をついた。
許さないってなんだろう。
久々の再会は、心にもやもやが増えただけだった。
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