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はてさて手持ちの酒の二刀流も平らげ、さらには追加の誤発注のハイボールもあらかた片付いた宴もたけなわの頃、この飲み会の本来の意図である歓迎会という側面がウワバミのごとく鎌首をもたげてきた。
というのも、この酒宴は新年度から赴任してきた上長との懇親会も兼ねていたのだ。もっとも自分はこの瞬間、初めてその謀りを知ったのだが……
部内でももっとも社歴の長い社員が、お近づきのしるしとしてハンカチとワインを手渡す。
ワインの壜が青かったのでデザートワインだろうか。出資割り当てはどうなっているのだろうか。様々な疑問を消し去るように拍手をしていると、同じ大部屋にいた見ず知らずの団体客からも拍手が起きた。素面の人間が見ればお寒いかぎりの光景だろうが、酒以外にもこうした謎の一体感で盛り上がることができるのは酔っ払いの特権である。
ラストオーダーから三十分が経過し、店員が退店を申し出てくる。
まったく不満はない。もともとがそうした契約であるし、店の経営を円滑にするにはある程度の強制力が必要だ。さもなくば、クダを巻いた酔っ払いがここを根城と居直りを極めこむだろう。
たび重なる席替えによって期せずして上座に陣取っていた自分は、ほかの面々が店を出ていくなかでテーブルの下に忘れ物が残っていないかを確認した。親切心ではなく、ここで恩を売り、顔を覚えてもらうのは今後の自分にとって有益だからだ。
「酒は人間関係の潤滑油」というのは、なにも本音をさらけ出すことだけがその意義ではない。言い替えれば、「情けは人のためならず」である。
昨年末の忘年会では、店を出たタイミングで当時のリーダーに二軒目に行こうと誘われたものだが、あいにくその人は一月に異動してしまった。
ひるがえって、いまのリーダーは一次会が終わるなりすっぱりと帰る人である。
どちらかの是非を問うわけではないが、自分も今回は一次会で切り上げることにした。
〝封建社会の完成形は少数のサディストと多数のマゾヒストによって構成されるのだ〟
自分の敬愛する漫画で武家社会を端的に言い表した台詞だが、上役が代わればある程度の主義を変えるのもまた現代の侍たる企業戦士の信条である。
「すいませぇん。明日はちょっと早いんで、これで失礼しますぅ」
見えすいたいいわけでぺこぺこと立ち去る姿はとても侍のそれではないが。
よく落語などで耳にする「いい心持ち」とはこういうことを言うのだろう。
視界がゆっくりと傾きながらも両足がしっかりと地面についている感覚のなかで駅を目指す。
通りがかった店から出てくる客のはしゃぎぶりを微笑ましく思い、同じようにふらつく通行人に共感を抱くのは酩酊感がもたらす御業か。
駅舎の手前で先に帰った件のリーダーの広い背中を見かける。
声をかけたらそのまま二軒目に連れ去られるだろうか。はたまた同じ路線に乗り合わせて帰路を共にするだろうか。そんな懸念が一瞬間頭をよぎったが、構わず声をかけた。「なるようになれ。灰は灰に、塵は塵に」の精神である。
「お疲れさまです。今日はありがとうございました」
「ああ、千勢さん。お疲れさまです」
「お帰りは何線ですか?」
そう訊ねると、リーダーは自分の使うものとは別の線を言った。投げたコインは表と出たが、それが勝ちか負けかはわからない。
笑顔で別れて改札を通ると、途端に尿意がわきあがってきた。というのも、こちらの容積は随分前に決壊を目前にしていたのだ。
構内のトイレで用を足すと、お次は空腹感がやってきた。さすがに葉物野菜の切れ端と鶏肉の皮、それに山葵の一山では酒でかさ増しするにも限界がある。
渡りに船と、ホームに上る階段の近くに立ち食い蕎麦屋があった。
券売機に行列を成す背広姿のサラリーマンたちに私服の自分がひとり。申し訳なさと所在のなさを感じていると、せっかく買ったチケットを持たずに店に入ろうとしてしまった。
「券、忘れてますよ」
自分の後で券売機に立ったヒゲの紳士にそう声をかけられる。
慌てて受け取り、自分の蕎麦が茹で上がるのを待っているうちに申し訳なさも溶け出していく。
駅の立ち食い蕎麦屋は注文から品が出るまでがとにかく早い。それでいてその場にいる男性を中心とした客層には妙な連帯感も生まれている。
『われらの時代・男だけの世界』
ヘミングウェイの短編集もかくやの空間だ。
手早く出された蕎麦を手早く食べ、手早く店を出る。後から来る客への配慮のあらわれなのだろう。自分もその流れに追いつこうと必死で箸を動かす。そこにはチャラチャラした若者も、アブラギッシュなオヤジも関係ない。ハードボイルドとは、案外こういうところにあるのかもしれない。
「お食事中すみません」食後にお盆を下げた自分がそう声をかけたのは、あのヒゲの紳士だった。「さきほどはチケットをありがとうございました」
「いえ、とんでもないです」
たったそれだけだったが、それだけでよかった。
食事を邪魔された当人は迷惑だっただろうか。それでも、結果として酔っ払いの自己満足に付き合ってもらえたのならありがたい。
時間が午後九時半という中途半端な早さだったせいか、はたまた世の飲み会人口が目減りしているせいか、帰りの電車ではすんなりと座席に腰をおろすことができ、このエッセイを途中までしたためることができた。
ありがたい。ありがたい。
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