酔いどれ覚書

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 滅私奉公の側面ばかりとりたててみたが、そこはやはり勤務時間外の飲みの席。ささやかな贅沢があってしかるべきである。この日の自分のわがままは、ラムコークを頼むことにあった。取り扱っている店の多寡は知る由もないが、このときは無性にラムコークを飲みたかったのだ。  すでにグラスのビール三杯を平らげた自分に、そのチャンスが早々にやってきた。隣に座っていた上長が生粋のビール党で、手元のピッチャーが早くも空になったのだ。 「次もビールでいいですか?」  先手を打って了承をとり、ビールのピッチャーふたつとともに目当てのラムコークを注文する。そのとき周囲の人たちにも同じように、次もビールでいいかどうかを訊ねることを忘れない。  あなたがビール以外の飲み物を頼みたいとき、ほかの人もまたビール以外の飲み物を頼みたいもの。そう思うことはけして罪ではない。  首尾よくビールとそのほかの注文をしたつもりだったが、ここで問題が発生。店の喧騒か店員の技量か、はたまた自分の声が通らなかったせいか。ビールがピッチャーではなくジョッキできてしまったのだ。  上長に詫びを入れたあとすぐさま注文のしなおしをしたのだが、それですべてが解決したわけではない。  そう。いわゆる「宙に浮いたビール問題」である。  これもまた先に論じた「駆けつけ三杯にビールを頼む問題」よろしく、周囲のビール党に件のご発注を押しつければ済む問題かもしれない。だがあいにくそのときの適任はピッチャーを頼もうと自分が進み出た上長のみ。よもや尻拭いをさせるわけにはいかない。 〝この世の中には二種類の大人がいる。きっちり責任果たす大人と、果たそうと努力している大人だ〟 というのは昔のアニメで聞いた台詞だ。このときの自分もまた、少なくともその後者になろうとジョッキのビールを引き受けた。  無論自己犠牲などの崇高な理由だけではない。絢爛たる胃の内容物を披露するまでにはまだ余裕があったし、ラムコークのアテにビールを嗜むのもまた一興だった。本当の意味でのっぴきならなければそっと残すか、テーブルの離れた位置に置いてめざとい酒豪が見つけるのを待つつもりだ。  そうしたわけで追加注文の必要がなくなって周囲を見ると、酒宴の場はすっかり温まっていた。グラス片手にほかの席へ移動する者、小皿に残った野菜の切れ端を箸てつつきながら懇々と語る者。この混沌こそが飲み会の醍醐味である。  自分はこうしたとき、もっぱら持ち場を離れずに来た人との語らいを楽しむトークショーの司会ポジションに落ち着く。はたして、大皿に残った山葵をつまみにビールとラムコークをやっていると、当初の面々の一部が様変わりした。  世代はそれぞれ違えど、皆一様に趣味人という側面も持つ。趣味人がひとりいれば、五十人は隠れているというのが世の定説だ。  小説を書いていることを無駄に伏せたい自分は、キャンプと映画という表向きの趣味を両手に抱えて来たる襲撃に備えたが、たいていの場合それは杞憂に終わる。というのも、趣味人たちは携帯電話に撮った画像を振りまわしながら自分のライフワークを語り尽くすのに寸暇を惜しんでいるからだ。  けして皮肉ではない。自分の知らない世界を知ることのできる機会はありがたいし、聞き役に徹する者がいて当人が酔っていれば、そこにはおのずと満足が生まれるものだ。  さらに世間一般で認知されている話題であれば、自分の持った知識で話を繋げればいい。そこで一見の者を批判するのは自称中級者だと見切りをつけよう。真の趣味人とは、己が趣味に引きずりこむためであればいくらでも素人に甘言を囁くものだ。
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