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桃井さんとつばめくん
つばめくんがいつもいる場所を知っている。埃だらけの理科準備室。の、いちばん奥にある流しの下。この世の終わりを予知したみたいに憂鬱そうな顔をして、背中を丸めて座っている。
つばめくんは、男好き、らしい。
クラスの男子が、そう言っていた。本人から聞いたわけじゃないから、本当かどうかわからないけれど、でもそう噂されているのを、確かに耳にした。
つばめくんには、雑誌に載っているようなわかりやすくイケイケな男の子、というような感じの魅力がないが、なんだか妙~に目が離せなくなるような不思議な雰囲気があるので、女の子によくモテる。よくモテるのに全然嬉しそうじゃなくて、いつも困った顔をするので、そういう噂が広まったのかもしれない。
わたしがつばめくんを最初に見つけた時、彼はやっぱり、困った顔をしていた。
放課後。普段立ち入らない理科準備室に足を踏み入れたら、暗い室内で男の子が丸まっていたのでぎょっとした。幽霊を見てしまったのかと思った。そして、ぎゃっ、と悲鳴をあげて飛び上がった拍子に、近くにあったビーカーを落として割ってしまった。
ばりんっ! と大きな音が鳴ったので、そこにいたつばめくんは驚いたように顔を上げた。私は割れたビーカーと、つばめくんを交互に見て、「ごごご、ごめんっ」と謝った。
慌てながら、ビーカーの破片に手をのばすわたしを、つばめくんはそっと制して「危ないよ、塵取り持ってきてあげる」と言った。それを聞いてようやくわたしは、ああなんだ、つばめくんじゃないか、同じクラスの、と彼のことを認識した。
薄暗い理科準備室で二人、骨を拾うようにガラスの破片を集める。その間、わたしも、つばめくんも、一言も話すことはなかった。沈黙が重い。でもいやじゃない。つばめくんの持つさざ波のような空気は、なんだかとても、心地よかった。
「どうもありがとう、助かりました」
「いや、いいんだ」
「つばめくん、ここでなにしていたの。居眠り?」
「まあ、そんなところ」
つばめくんはそのとき、はじめて笑った。ちょっと肩をすくめて、斜め下のほうを見ながら。
「桃井さんは、どうしたの?」
「わたしはね、先生のお手伝い。明日の授業の準備だって。あそこの教科書一式、教室へ運ばなきゃいけないの」
「偉いね。係かなにか?」
「ううん、違うけど。でも、理科の先生いま、おなかが大きいでしょ」
だから、と言うと、つばめくんは目をぱちぱちとさせてから、そっか、と微笑んだ、
わたしは、つばめくんがどうしてこんな薄暗いところで居眠りしていたのか聞こうと思ったけれど、なんだか踏み入ってほしくなさそうなかんじがしたので、何もきかなかった。それじゃあね、と立ち去ろうとすると、つばめくんは「いやいや、俺も手伝うよ」と慌てて言って、教科書を半分、持ってくれた。
いい奴じゃん、つばめくん。
教科書の束を、二対一くらいの量にわけっこして、二の方をよいしょと手に抱える横顔を見ながら、そう思った。
わたしはそれから、時間をみつけてはちょくちょく放課後の理科準備室を覗きに行った。
つばめくんは、ほぼ百パーセントそこにいた。
流しの下で、背中を丸めて座っている。たまに眠ってしまっている時もあって、そういう時わたしは、つばめくんが眠る流しに腰かけて、彼が目覚めるのを待つ。薄暗い室内で、カーテンの隙間から漏れる日の光に埃がきらきらと照らされて、それがなんだかすごく綺麗だった。
「ねえ桃井さん」
ある日、つばめくんはものすごく真剣な声で、わたしに言った。
「桃井さんも噂、聞いてるでしょ、俺の」
わたしは、コンビニで買った芋けんぴをばりばり食べている最中だったので、急にそんな話題を振られてぎょっとした。やべ、と思いながら急いで芋けんぴを飲み込み、ちょっと考えてから、
「つばめくんが、男好きだってこと?」
と訊いてみた。
つばめくんは、ぶはっと噴き出して笑った。わたしはきょとんとしてしまったが、つばめくんは尚もくつくつと笑って、「うん。そう、それそれ」と言った。
「まあ、聞いてるけど……なに? どうかしたの?」
「どう思う?」
「どう思うって?」
「その、噂に対して」
流しの下で、体育座りをしたまま、膝に肘をついてこちらを見るつばめくん。わたしは、ああこれってもしかして、返答間違えちゃいけないタイプの質問じゃない? なんて思いながら、けれど結局、漫画やアニメのキャラクターのように、胸がスッとするような言葉を思いつくでもなく、
「どうって……つばめくん、女子にモテるのに嬉しそうじゃないから、そういう言われ方しているのかなって思っていたけど。違うの?」
と。ただ思ったことを口にした。
「まあ、そういうのもあるかもしれないけれど。……俺ね、みんなが、人が変わっちゃうくらいに熱心になれることが、全然わかんないんだ」
「はい?」
「誰かと、付き合いたいとか」
つばめくんは言った。長いまつ毛に縁どられた瞳が、なにかを確かめるみたいに虚空を見つめる。
「好きだとか、愛してるとか。そういうの」
「……ほう」
「わかんないんだ」
一呼吸。
「わかんないんだよ」
――そう言ったきり、叱られた子どものように俯いて、黙り込んでしまうつばめくん。わたしは、何と返せばいいのかわからなくて、「そか」と頷いた。それから、芋けんぴの袋に手をつっこんで、ぱりぽり、と食べ進める。
するとつばめくんは、音にハッとしたように肩を揺らして、
「ふふ」
と。可笑しそうに小さく笑うのだった。
わたしは、自分でいうのもなんだけど、客観的に見てまあまあかわいくて、まあまあイケてる女子だと思う。
肩の下あたりまで伸ばした髪は、ママ譲りでちょっと癖が入ってふわんとしているし、鼻はすっと通っている。唇は小さくてツンとしていて、瞼は一重で、大きくてくりくり……とまではいかないけれど、ぱちっとしたアーモンド形だし。今はもうやっていないけれど、中学の時はバスケ部に入っていたこともあって、クラスでもわりと賑やかなグループに属していた。
中学の頃から、高一の冬の今に至るまで、男の子に二回告白されたこともあるし、そのうちの一回は実際交際するまでに至った。……まあ、中三の冬から卒業までという、ほんの一瞬の期間だったけれど。しかも、受験でいちばん忙しい時期だったこともあって、恋人らしいことなんてほとんどしていない。
はじめてできた彼氏は、同じバスケ部の、岡くんという男の子だった。
雪の降る寒い日。通っていた塾の授業が終わって、さてさっさと帰ってテレビでも見るか、と思いながら外へ出ると、バスケ部の男子が四人、なにやらだんごになって話し込んでいた。そしてその四人組は、階段から降りてきたわたしの姿を見るなり「おいっ、来たぞ」「ほら、岡!」と騒ぎながら、一人の背中をぐいぐい押した。
その時点で、なんとなく察しはついていた。
名前を呼ばれた岡くんが、観念したように一歩前に出て、「あ、あの、あ~……塾、おつかれ!」とはにかむ。「あ、うん」と戸惑いながら頷くわたしをよそに、岡くん以外の三人は、「それじゃ、ごゆっくり!」「しっかりやれよ!」「あんまイチャイチャすんなよ!」なんてわあわあ騒ぎながら、その場から嵐のように去って行った。
「か、帰ろうか。送っていくよ」
「あ、ありがとう」
自転車で来ていたから送られる必要なんてまったくなかったし、むしろ徒歩の岡くんにあわせて自転車を押すはめになった。そのぎこちないかんじが、ものすごく居心地悪かった。気まずくてたまらなくて、わたしは頭の隅で、ああ平穏がほしい、このまま自転車にサッとまたがって、「ここまでで大丈夫! それじゃっ」と立ち去ってしまおうか……なんてそんなことを考えた。
「あ、あのさ」
でもそんな目論見は、淡く砕け散った。
ダイエーの前に差し掛かったところで、岡くんが意を決したように声を張り上げた。え、ここでっ!? とわたしは思い、ちょっと慌てた。ダイエーに吸い込まれてゆく人たちの視線が、わたしたちを物珍しそうに眺めるのをひしひしと感じたから。
「その……まずは、急にごめん。びっくりしたよな」
「あー……ま、まあ、うん」
「神林が、桃井と同じ塾だから、授業が終わる時間とか教えてくれてさ。それで、」
神林、というのは、さっき「イチャイチャすんなよ」と笑いながら去って行った男子だ。丸坊主頭が特徴的で、そのビジュアルはバスケ部というより野球部感が強いので、試合でユニフォームを着ている時なんかは、よく周りから「助っ人の方ですか?」なんていじられ方をしている。
「なんとなく、察しはついてるかもしれないけど……れ、ラインとか、超、送ってたし」
心臓が、痛いくらいに鳴って。背中にへんな汗をかいた。
「俺さ。桃井のこと、好きで。かわいいなって、ずっと、思ってて。……だ、だから彼女に、なってほしくて」
「……うん」
「どう、かな。どう、だろう。……どう、ですか」
じ、と。真剣な眼差しがこちらを向く。んぐ、と思わず、一歩後ずさる。
岡くんがさっきした前置きの通り、彼はこの二か月くらいの間、ほぼ毎日、わたしにラインを送ってきていた。
――最初は、『来週の試合、応援行く?』なんていう、とりとめのない連絡からはじまった。
部活を引退してからほぼ接点のなかった岡くんから急に連絡がきたことに、驚かなかったといえばうそになる。でもその時点では、深く考えはしなかった。しいて言うなら、気の強いメンバーの多い女バスの三年の中でも、わたしは珍しくぼんやりした奴だったので、いちばん気軽に連絡がしやすかったのかな、と。そのくらい軽い調子で考えていた。
『行かないよ~。男子は行くの?』
何の気なしに、疑問形で返してみると、ものの一秒で既読マークがパッとついた。
『いや、俺らも行かない笑』
『話変わるけど、桃井って高校どこ受けんの?』
「……んん?」
最初の違和感は、ここ。
わざわざ、『応援行く?』なんて訊いてきたんだから、わたしの『行かない』に対して、自然だと思われる返信は、大きくわけてふたつある。
ひとつ、『俺らは行くよ! 女子は行かないのか、残念』。
ふたつ、『マジか! 男子は行くんだけど、女子も来ない?』。
でも、岡くんの返信は、そのどちらにもかすりもしない。それどころか、わたしが『行かない』と返信するや否や、さっさと話題を変えてしまう始末だ。
なんか変だな、と思いつつ、『水濱西だよ』と返すと、『マジか! すげ~』という、本当にすげ~と思っているのか疑問に思える返事のあと、
『今度勉強教えてよ笑』
なんて、返ってきて。
――あ、もしかして、と。その時はじめて、予感した。チャラくもかんじられる、文末に添えられた『笑』はきっと、断れられた時のための退路というか、お守りみたいなものなのだろうと、中学生ながらにわたしはそう理解した。
正直言うと、岡くんのことは、なんとも思っていなかった。
ただのチームメイト。一対一でちゃんと話したことはないし、なんなら同じクラスになったことすらない。ラインでやり取りをするのだってそれがはじめてだったし――だから正直、戸惑った。戸惑った末、『なんでよ笑 わたしより頭いい人、たくさんいるよ!』と返すと、わたしの長考に反して、やっぱりものの一秒でパッと既読がついた後、
『いいじゃん笑 わかんないことあったら、連絡するわ』
なんて文章に続けて、お笑い芸人が『よろしく!』と親指をつきたてているスタンプが送られてきて、最初のやり取りはそこで終了した。
それから、だいたい二日に一回くらいのペースで、岡くんはわたしに、連絡をしてきた。
無視をするのもかんじが悪いし、彼は本当に、『これってどうやって解くの?』とか、『この答えのどこがダメなのかわかんなくて』とか、勉強に関することをとっかかりにして送ってきていたので、わたしは素直に応じた。解き方を教えると『ありがとう! ところでさ』と雑談に流れるのがお決まりの流れで、それはそこまでしつこいわけではなかったので、ぽつぽつと返信をするようにした。
――そんなことを思い出しながら、ダイエーの前で、岡くんの真剣な目を見つめ返した。
きっと、返信をしない方がよかったのだ。
あるいは、『勉強に集中したいから、返信遅くなるかも!』とか『通知切ってるから、気づかなかったらごめんね』とかなんとか言って、ちょっとずつ距離を置いていったりして。
そうしなかったのは、たぶんわたしが、心のどこかで、浮足立っていたから。
やり取りをしているうちに、岡くんに対して恋愛感情を抱くようになったから――というわけでは、ない。ただ、『誰かに、女の子として魅力的に思われている』というのが、単純に嬉しかった。だってはじめてだったのだ。『この人は、わたしのこと素敵だって思ってるんだ』『どういうところを見て好きだって思ったんだろう』とか考えると、自分が漫画やドラマのヒロインになったような気分になって、うきうきした。
だから、ラインがくれば返信をした。廊下ですれ違ったときに目があえば、「おはよ~」ってあいさつだってした。
だから。
――もし断ったら、岡くん、びっくりするだろうな。だってこの目、断られるなんて全然思っていなさそう。それに、さっきの三人組だって、どう思うだろう? わたしのことを、とんでもなく性格の悪い奴だって思うかもしれない。それにそれに、私がここでふったら、岡くんに恥をかかせることになるよな。だってあの三人は、今日岡くんがわたしに告るって知ってるっぽいし。……そんなに悪い人じゃないし。むしろ、スポーツができて、頭もそんなに悪くなくて、顔だってけっこう、かっこいいし。だから、とりあえず、とりあえず……
「は……はい」
頷いた途端、背中に重たいものが、ずしんと圧し掛かったような気がした。たぶん、罪の重さだ。
「え……え、え、え? まじ?」
「う、うん。よ、よろしくね」
「ま……まじ~~~っ!?」
岡くんの、幸せに満ち満ちた絶叫があたりに響くのを聞きながらわたしは、ぎゅ、と自転車のハンドルを握りしめた。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。……きっと、一緒にいるうちに、好きになる。
だけど、そんな中途半端な気持ちではじまった交際が、うまくいくわけなんて、なくて。
わたしは、受験を理由に彼の誘いをのらりくらり断り続けた。ラインの返信も、最低限しかしなかった。もちろん、デートらしいデートだって、一度たりともしなかった。
真正面から彼に向き合ったら。――恋人関係にある二人が、真正面から向き合うということがどういうことなのか。考えると、なんだか怖くて、嫌な気持ちになったから。
公立高校の合格発表が終わって、わたしも彼も、お互い無事に第一志望への進学が決まったある日。友達と二人で歩いていたら、前から彼が歩いてきて。わたしは気まずさに、目を逸らしてしまった。
あの時。
一瞬だけ見た、岡くんの顔は、すごく悲しそうで。自分の顔が、カッと熱くなるのをかんじた。申し訳なくて。情けなくて。
だからその日の夜、
『俺たち、友達に戻れないかな』
『俺から付き合いたいって言い出したのにごめん! 笑 どうかな』
という連絡がきたときは、心底ホッとしたものだ。そしてその時はじめて、岡くんのことをすごくいいなあと思った。それは恋とか愛とかそういう気持としてではなく、人間として。
だってきっと、色々言いたいことがあったはずだ。文句を言われたっておかしくないような態度を、わたしはとっていた。それなのに。
少し前までは、いかにもチャラそうに感じられた文末の『笑』が、その時ばかりはありがたかった。
『うん。わたしも、同じこと考えてた。色々ごめんなさい』
『今までありがとう! これからもよろしくお願いします』
そう返すと、数分後に既読マークがついたあと、『よろしく!』という、彼が愛用しているお笑い芸人のスタンプが送られてきて、わたしたちのやり取りは終了した。
そしてそれを最後に、わたしたちは一度も連絡をとっていない。
次の日。
いつものように理科室へ向かうと、そこにはいつものように、つばめくんの姿があった。埃だらけの理科準備室。の、いちばん奥にある流しの下。「やっ」と声をかけると、のろのろと顔をあげたつばめくんはわたしの顔をじっと見て、「もう来ないかと思った」なんて言うのだった。
「なんで?」
「きのう、あんな話をしたから」
「ああ…………ね、横、つめて」
「え?」
「お邪魔します」
「え、え、え?」
「うわ、狭っ」
ぐいぐいとつばめくんを押して、流しの下に一緒に入る。膝を抱え込んで、スカートが皺にならないように、ぐいっと伸ばして。流しの下は想像以上に狭くて、でも、なんだか不思議と、ホッとした。
放課後の理科準備室。遠くから、生徒たちの話し声が廊下を伝って聞こえてくる。ひとつ上の階にある音楽室からは、吹奏楽部が練習をする音が響いてきて、トロンボーンの間の抜けた音が突き抜けた。
風に合わせて、クリーム色のカーテンがふくらみ、その裾の一端だけが一瞬ちらりと視界に入る。そういうのを見ながら、「わたしさ」と口を開くと、つばめくんは「え……うん」と戸惑いながら相槌を打った。
「今ね、好きな人がいるんだ」
「……う、ん」
「あ。今、『告白されたらどうしよう』って思ったでしょ」
「な……」
横を見る。ものすごく近くに、つばめくんの整った顔がある。わたしの言葉につばめくんは、恥じ入ったように視線を反らした後、「ばかにするなよ」と小さく呟いた。
「あはは。ごめんごめん」
「……」
「好きな人、つばめくんじゃないよ」
わたしは言った。わたしの言葉に、つばめくんがホッとした、ということがわかった。狭い空間でお互い膝を抱え込んでいるので、腕どうしが触れ合って、そしてぎゅっと力の込められたその腕から、わずかに力が抜けたのだ。
「いいなあ、桃井さんは」
「ん?」
「……心に形があるのだとしたら、スタンダードなのがハート形だとするでしょ?」
「んん? うん」
「桃井さんは、ハート形の心を持ってる。世の中の人の大半が持ってる。そして、世界はハート形の心を持ってる人たちが生きやすいようにできている。当然だよね。……でも、俺はハート形の心を、持ってないから。……だから、生きづらい」
一度そう言って、
「生きづらいよ」
つばめくんは膝にぺったりと額をくっつけて、黙り込んだ。
ぎゅ、と胸に手を当てる。自分の心がどんな形をしているのかなんて、考えたこと、なかった。つばめくんは、ずっとそういうことを考えながら生きてきたのだろうか。
でも。
「わたしの好きな人ね、二十二個年上なんだ」
「…………はっ?」
間の抜けた声と顔が、こちらを向く。ふ、とちょっと笑ってしまう。
「音楽の、田沼先生っているでしょ? 好きなんだ、わたし」
「な、なに、それ」
「これ、人に言ったの、はじめて」
へら、と情けない笑顔を浮かべてみる。つばめくんは、どんな反応をしたらいいのかわからないって顔で、黙り込んだ。戸惑いとも、呆れともちがう。それは“絶句”って言葉が似あう表情だった。
「……正気? 二十二個上って、父親くらい離れてるじゃん」
「あー、ね。……父親にコンプレックスがある子どもは、父親みたいな人を好きになりがちなんだって」
「は」
「うち、再婚なんだ。ほんとのパパは消防士だったんだけど、仕事中に死んじゃった」
つばめくんの顔が、青ざめてゆく。『正気?』なんて言ったのを、まずかったと振り返っているのだろう。やっぱりいい奴だな、と思う。だからわたしは、そんないい奴なつばめくんを安心させるために、慌てて言葉を続けた。
「……あっ、でも、新しいお父さん、超良い人だよ! 筋肉むきむきで、涙もろくて、映画の予告とかだけでも泣いちゃうの。……良い人すぎて、ちょっとうざいけど。毎週末ごとに、家族でお出かけだ~っていって強制的にどっか連れていかれるし。でもね、」
「……う、ん」
「……自分でも、よく、わかんないだけどね。良くしてくれてるのに、失礼だなって、そう思いはするんだけど。でも、いつまでたってもずっと、わたしにはパパがいないんだって気持ちが胸にあって。たまに、悲しくって、涙が出る」
「うん」
「だからかなあ。……中学の時、同じバスケ部の男の子と、少しの間だけ付き合ってたことがあるんだけど、なんか、こう、安らがない? っていうか」
「うん、」
「でも、田沼先生と、話してると。すごく、すごく、安心する。この人の傍にいれば大丈夫だって、そういうふうに思う。……それでわたし、気づいたの。ああわたしってたぶん、お父さんが欲しいんだ。お父さんみたいな人に、守ってもらいたいんだって」
わたしは言った。
「……二十二個も年上の、学校の先生のことが好きなんて、きっと、『冗談でしょ』ってかんじだよね。『少女漫画の読みすぎ』って言われたり、『一時の気の迷い』なんて思う人もいると思う。……あーあっ! ね、つばめくん」
わたしは言った。そっと隣を覗き込みながら。
「わたしもたぶん、ハート形の心、持ってないよ」
「……」
「でも、ハートよりかわいい形かも。星形とか、お花型とか……おんぷ形とか? ふっふっふ。……ね。どう思う? わたしの、こういうところ」
「……どうって?」
「好きだなって思う?」
吹奏楽部の、空気の読めない『アンダーザシー』が響いてくる。頭の中で、セバスチャンの台詞を思い出す。『アリエル、よく聞いてくれ。人間の世界は最低だよ』。そうかもしれない。そうなのかな? どうだろう。
「……うん」
――なんて考えていると、ややあって、つばめくんは言った。ずび、と鼻をわずかに鳴らしながら。声はわずかに震えていた。
「桃井さんのそういうところ、好きだ」
「ふっふっふ。そうでしょ」
「俺、人のこと、好きになれないわけじゃないんだよ」
「うん」
「愛せないわけじゃないんだ」
「うん、うん」
「……ありがと」
その「ありがと」は、背中がそわっとなるくらい心のこもった「ありがと」だったので、なんだか照れくさくなった。
「……わたしも、つばめくんのこと好きだよ。全然タイプじゃないけど」
「ふ、はははっ」
狭い流しの下に、笑い声が響く。
わたしたちはそれから、しばらくの間そこでじっとしていた。沈黙が重い。でもいやじゃない。つばめくんも同じことを思ってくれていたら良い。
心の形が違くたって、通じ合えることはたぶんある。
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