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朝陽さんとつばめくん
――いまわたし、最高に生きてるってかんじがする。
森の中。地面の下に扉。深くフードを被った男の子と、その肩にすました顔でとまる黒い猫。
『――元来た道を、真っすぐに戻るんだ。決して僕たちについてきてはいけないよ。』
そう言われたというのに、主人公の女の子は、その男の子と猫を追いかけて、扉の向こうへ進んでゆく。そこには、まばゆいばかりの光を放つ大鏡が置いてある。勇気を出して鏡の向こうへ飛び込んだその先には――お城のような、大きな大きな建物があって。そこは、魔法使いの子どもたちが勉強をするための学校で――
「――向日葵、あんたいつまで起きてんの!?」
魔法の世界にとっぷり浸かっていた意識の中に、急に現実世界の怒号が響いてきて、思わず「ぎゃっ」と悲鳴を上げた。その拍子に、ぱたんと本を閉じてしまって、大慌てで今まで読んでいたページを探す。……い、いけない、折り目がついちゃった! これ、図書室の本なのに!
「え……はっ、もう一時!? うそっ!?」
「早く寝なさい! お母さんがトイレから出てもまだ部屋の電気ついてたら、ブッ飛ばすからね!」
「ひ、ひぇ……」
ママの“ブッ飛ばす”は、正真正銘の“ブッ飛ばす”(後ろから頭をばしんと叩く)なので、私は慌てて本にしおりをはさんで表紙を閉じた。
すると、愛用しているピカチュウのブックカバーと目が合って、「あの猫ってこれから、人の言葉を話しだしたり、するのかな。ポケモンでいう、ニャースみたいに……」と言う具合に、頭の中をほわんと疑問が満たした。一度気になりだすともうだめで、「あと数行読めば猫が再登場して謎が解けるかも……」なんて思いながらそうっとページを開いた。
ガチャ。つかつかつか。
――バシンッ!
「いッッッ……!? !?」
「早く寝ろ!」
後頭部を叩かれて、思わず頭を抱え込む。このご時世に、平気で娘の頭をひっぱたくとは、なんて親だ。
そう思いつつ、忠告されていたのに寝なかったのは素直に私が悪いので、私はじんじん痛む頭を押さえながら、「ご、ごめんなさい」と呟いて、よろよろとベッドに入り込んだ。
ピピピピ、
「う、うぅ……」
ピピピ、ピ――
「向日葵! はやく起きないと遅刻するよ!」
「うううぅ、う……ごふん、まえに、ねた、ばっか、」
……な、気がする。
なんて思いながら起きるのが、やっぱり私の、いつもの日常。
寝間着にしている中学の時のジャージを脱ぎ捨てて、大急ぎで制服を着て。洗面所でばしゃばしゃと顔を洗い、ミディアムボブ(と、いえば聞こえはいいが、ようはおかっぱだ)の髪を櫛でてきとうになでつけて黒い縁の眼鏡をかけたら、あっという間に準備は完了。
プリーツの少ない武骨な紺のスカートは折ったりしないし、ワイシャツもきっちり第一ボタンまで閉める。セーターは可愛げのない真っ黒。もちろん、お化粧なんてものはしない。
全身くまなく校則に準じた、没個性女子高生。
それが私だ。
「向日葵、朝ご飯は!?」
「蒸しパンある!? 歩きながら食べるッ!」
「もうっ、いっつも菓子パンばっかり! あぁほら、お弁当!」
「ありがと、いってきます!」
「おーい、向日葵、ママが折角作ってくれた朝ご飯だぞ。それをいつも無駄にして――」
「ごめんパパ、遅刻するからもう行く!」
なんて返事をしながら、ああそういえば、昨日夢で聞いた「おーい」はパパの口癖だ、と気づく。読んだ小説の内容とごっちゃになって登場したんだな、と思うと、ちょっと「おぉ」って気持ちになる。なんの「おぉ」なんだと訊かれたら、上手く答えられないけど。
外へ出る。びゅお、と冷たい風が頬を容赦なく冷やして、ぶるっと身震いする。十二月も、もう半ば。……しまった、マフラーをしてくるのを忘れていた。夏生まれだからか関係なく、私は冬が大の苦手だ。でも、だからといって夏が好きというわけでもない。
私の名前は、朝陽向日葵。
……ちょっと、ラノベの主人公っぽい名前だなって、自分でもそう思う。英語にすると、モーニングサン、サンフラワー。なんとびっくり、『サン』がふたつも登場するなんて。
でも、そんな名前に反して私自身はといえば……自分で言うのもなんだけど、あまり明るい奴だとは言えない。
運動はできない。おしゃれに興味もない。社交性だって全然ない。だからといってはなんだけど、中学の時は一人も友達がいなかった。
でも、今は違う。
「向日葵~、おはよ~」
「あ、よっちゃん。おはよ~。今日も寒いねえ」
昇降口に到着したところで、背後からぽんっと背中を叩かれた。振り向くと、ほのぼのした顔立にほのぼのした表情(目がふにゃんと垂れていて、口がぱかーっと開いた状態のこと)を浮かべた女の子、クラスメートの飯島夜ちゃん、通称よっちゃんが立っていた。
「ね~、ほんと寒い! なのに一限目、体育だよ。やんなっちゃう」
「ほんとほんと。しかも、バスケ……チーム競技……あぁ、気が重い……」
「向日葵、顔、顔」
あはは、とよっちゃんが笑う。でも次の瞬間にはふっとなにかに気が付いたように目線を上げて、
「――あ、つばめくん」
「えっ、ど、どど、どこっ」
わたしは、大慌てできょろきょろとあたりを見渡した。
そしてその姿は、すぐに視界に入ってきた。
大勢の生徒たちが騒がしく行きかう、朝の昇降口。そこで、ひときわ輝く姿が見えた。学校指定の紺のブレザーによく映える、白いウールのマフラーがよく似合っている。男子にしてはちょっと長い髪がマフラーにすっぽり入り込んでいるところが、すてきだ。スクールバッグにごちゃごちゃとキーホルダーとかつけていないところも、上履きが薄汚れていないところも、ほとんどの男子がちゃんとつけていないネクタイを、律義にきちっとしめているところも、やっぱりすてき。
――白戸つばめくん。
その姿を目にしただけで、胸が、ぎゅうっと締め付けられる。
「挨拶、してくれば?」
「……それ、本気で言ってる?」
「え? うん。クラスメートなんだし、ふつうでしょ」
「わかってない……わかってないなあ、よっちゃんは!」
思わず、大きな声を出してしまう。物珍しそうな視線がいくつか集まったのをかんじてハッとなり、いそいそとその場を足早に立ち去りながら、「要はね、つばめくんという存在は」と私は口を開いた。
「そう――推し、ってやつなんだよ」
「推し」
「そう、そう、そうっ! 推しにはね、認知されたくない派なの、私」
「クラスメートなんだからされてるでしょ、認知」
むしろ、されてない方がショックじゃない? とよっちゃんは言う。でも私はそんな発言を無視して、言葉を続けた。
「それに、叶うなら誰も彼の世界を脅かさないでほしいというか……」
「脅かすって?」
「あ、つばめくんだ。おはよー」
教室にたどり着いたところで、明るい声が聞こえてきた。
パッと視線をそちらに向ける。すると、同じく私たちと同じクラスの桃井さん――桃井桃子さんが、登校してきたばかりのつばめくんに、気さくに声をかけていた。
ぎゅ、とかたく、拳を握りしめる。
「桃井さん。おはよう」
「今日も寒いね~。朝起きてすぐ、サボっちゃおうかなって本気で迷った。布団から出たくなさすぎて」
「あはは。うん、俺も」
「え。つばめくんでも、サボろっかなとか思うことあるんだ」
「あるよ、全然ある。でも、とりあえず身支度だけして、そっから考えよう、とか思ってると、なんだかんだでサボらずに来ちゃうんだよね」
「うわ~、わかる……いちばん辛いのは布団から出る瞬間だから、そこさえ乗り越えちゃえば、あとは勢いで行けちゃうんだよね……あ、ひまちゃん、夜ちゃん、おはよ~」
桃井さんの視線が、くるん、とこちらを向いて、思わずどきっとしてしまう。
「あ、う……おは、よ」
「おはよー、桃井さん、つばめくん」
感じよく挨拶を返すよっちゃんとは対照的に、私はぼそぼそと覇気のない言葉を発するしかできない。
すると、そんな私たちに対して、今度はつばめくんが、
「おはよう、二人とも」
なんて、後光が見えるようなまばゆい笑顔を浮かべながら、言ってきて。
私は、「うっ」と短くうめき声をあげたのち、そのままばびゅんと大急ぎで自分の席(窓側のいちばん前)へ向かった。
「向日葵、いまのはないよ」
「……私も、そう思う」
うめきながら鞄を置いて、そうっと視線だけをつばめくんたちのいる廊下側の方へ向けてみる。けれど二人は、もうこちらのことなんてまるで気にせず、雑談を再開させていた。
つばめくんは最近、よく笑うようになった――と、思う。
少し前までは、教室でほとんど、口を開かなかったのに。
そして私は、つばめくんのそんなクールなところに、心底憧れていたのに。
「……仲いいよね、あの二人」
「え? あー、うん。そうだね」
「付き合ってるのかな」
「え。いや、それはないんじゃない?」
「なんで?」
「付き合ってるかんじの距離感じゃないから」
「付き合ってるかんじの距離感って?」
「だからほら……ちょっともじもじしながら、『おはよう、つばめくん』『おはよう、桃子ちゃん』『えへへ』『ふふふ』……みたいな?」
「変な顔」
「おい!」
声色を変えながら小芝居を繰り広げだしたよっちゃんに、ふ、と思わず笑ってしまう。怒ったような言葉のわりに、よっちゃんも笑っている。
私とよっちゃんは、仲良くなるべくして仲良くなった、と思う。
八か月前。緊張で吐きそうになりながら参列した入学式。の、後の、ホームルーム。
まわりはきらきらと華やかな子ばかりで、初日なのになぜかみんな仲良さそうで――「インスタでDMくれた子だよね?」「やだ、同じクラスじゃん! 超うれし~っ」「ね、ね、ライン交換しようよ」「てかクラスのグループライン作らない?」なんて漏れ聞こえてくる会話を耳にしながらわたしは、自分の心臓が、きゅーっと縮こまってゆくのを感じていた。
そんな時だった。
『あ』からはじまる苗字の宿命、出席番号一番を呪いながら、自己紹介でなにを言おうか考えていると、つんつん、と背中をつつかれたので、私は驚いて、ぴゃっと飛び上がった。
「朝陽向日葵ちゃんっていうの? よろしくね~」
ほんわかした笑顔に、おっとりした喋り口調。窓の外から差し込む春の日差しが、その子にはよく似合った。
「あ、よ、よろ、しく」
会話、終了。
ぽそぽそと、小さな声しか出ない。もっと他に、「あなたの名前は?」とか「どこ中?」とか、それこそ周りの子たちみたいに、「インスタ交換しよ~」とか(やってないけど)言えばいいのに、それもできない。
顔がカッと熱くなって、恥ずかしくて逃げ出したくなる。……ああ、高校では頑張って友達を作ろうと、思っていたのに。こんな私と仲良くなりたいと思うような人、きっといない。この子だって、そうだ。
なにか、よっぽどの理由がないと。
けれどそんな私に対して、事前に配られていた座席表の名前を見ながら、その子はちょっと照れくさそうにこう続けた。
「わたし、飯島夜」
え、と思って顔を上げる。ぱち、と視線が合う。するとその子はにこっと笑って、こう言った。
「わたしたち、二人で朝と夜だねえ。仲良くしてね」
――その言葉に私は、生まれてはじめて、自分の苗字が『朝陽』であることに感謝をしたのだった。
桃井さんは、かわいい。
「桃井桃子です。もが4つも入ってる変な名前なので、みなさん覚えやすいと思います。よろしくお願いします」
アイドルみたいな自己紹介だな、と思った矢先に、アイドルみたいな自己紹介じゃん、と誰かが言って、わっと教室に笑いが溢れた。桃井さんは「あはは、はじめて言われた。なんか照れる」と言いながら静かに席に座って、その主張しすぎないかんじがまたみんなの心を掴んだ(たぶん)。
ふわふわの髪に、ぱちっとした瞳。つんと尖った唇は、いつもうるうるつやつやだ。身長はたぶん、165センチくらい? 手足はすらっとしていて、細いというより薄いってかんじ。聞いた話だけど、中学の時はバスケ部だったらしい。……かわいいのに運動神経もいいなんて、ずるい。
そんな桃井さんは、夏休みに入る直前の七月、二年の先輩に告られていた。なぜ私がそんなことを知っているのかというと、なにも桃井さんが周囲に「実は先輩に告られちゃって~」と言いふらしていたからというわけではなく――たまたま、現場を見てしまったのだ。
クラス棟と教科棟を繋ぐ、渡り廊下。そこで、違う学年カラーの上履きを履いた男女が向かい合っていたので、おや、とつい、視線を向けてしまった。
「ご、ごめんなさい。わたし、好きな人がいるんです」
え、そうなんだ、と思った。
桃井さんの、好きな人。それって誰だろう。大抵の人は、桃井さんが相手ならOKをしそうなものだけど。
そんな風に、ずっと不思議に思っていた。でも、私と彼女はクラスこそ同じだけれど、二人きりで会話をすることなんてまずないような間柄だったので、相手を訊く機会が巡ってくるようなことも、もちろんなかった。
――けれど。
「最近、つばめくんと桃ちゃん、仲良いよね」
体育の授業中、自分のチームの試合の番が回ってくるまで、隅っこで体育座りをしていたら、クラスの女の子たちがひそひそ話をしていた。その視線の先には、話題の渦中の二人がいた。
グラウンドに向って開け放たれた体育館の扉のところで、二人はなにやらお喋りしては、時折くすくす笑っている。男子は外でサッカーのはずだけれど、たぶん、女子と同じく自分のチームの試合の番が回ってくるまでは暇なのだろう。
黒いジャージの上に蛍光色のビブスをつけたつばめくんと、いつもはおろしている長い髪を、ポニーテールにしている桃井さん。二人は、音楽室の方を見て、そこから聞こえてくるピアノの音について、なにやら話しているみたいだった。
「ね~。あの二人、お似合いだよね。桃ちゃんかわいいし、つばめくん、かっこいいし」
「でもつばめくんって、男が好きなんじゃないっけ?」
「その噂、根も葉もないらしいよ。あんまりにも女子に興味ないから、男子たちが『お前ってもしかして、男が好きなの?』って悪気なく訊いたのを、やっぱりたまたま訊いてた他の男子が『男が好きらしい!』に変換して広まったんだって」
「なにそれ!? つばめくんからしたら、クソ迷惑じゃん」
「まじ、それな。……でもま、今となってはって話じゃん?」
ね~、と女の子たちが言う。
じ、と二人の姿を見る。
桃井さんは、ピアノの音にあわせて、ふんふんと鼻歌を歌って、時には楽しそうに体を揺らしている。心底楽しいとでもいうように。それを、つばめくんがうんうん頷いて聞いている。
……なにあれ。
ああいう子どもみたいなことを平気でして、恥ずかしくないのかな。そうだ、思い返してみれば、桃井さんってちょっとあざといところがある。ワイシャツの上に着ているセーターは黒とか白とかじゃなくて、淡いピンク色だし、ちょっと大きめのサイズを買っているのか、指先はいつも隠れているし。だらしないって思わないのかな。
それに、桃井桃子、なんて。
いったい、どんな親の元にうまれたら、そんな名前になるっていうんだろう。もしかして、セーターがピンク色なのも、名前を意識してたりするのかな。だとしたら、ちょっとイタくない? そんな桃井さんと付き合ってるっていうのなら、つばめくんの趣味も疑っちゃうかも。
……つばめくん。
「いや~っ、負けた負けた! 向日葵、みてた? わたしの華麗なトラベリング!」
「……みてた。ボール持ったままふつうに4,5歩歩くから、何事かと思った」
「やだっ、照れる~。……よいしょ」
よっちゃんが私の隣に腰かけて、ふいー、とため息をつく。
天井の高い体育館に、だむだむ、とボールの跳ねる音がいくつも響いている。コート上では運動部の女の子たちが激しいボールの奪い合いを繰り広げて、「ナイッシュー」とか「そこっ、ディフェンス!」とか「戻って戻って!」とか必死で声をかけあっている。みんな、バスケなんて体育でしかやったことないだろうに、どうしてあんなに動けるんだろう。
「また話してるねえ、あの二人」
「う……っ」
よっちゃんの言葉に、ぐさ、と胸に太い刃が突き刺さったような感覚になった。
「……つばめくんも、やっぱ、ああいう子が好きなのかなあ」
「ああいう子って?」
「桃井さんみたいに、かわいい子」
「そりゃ、だれだってかわいい子は好きでしょ。わたしも桃井さん、好きだよ。でも、向日葵のことも好き!」
「ぎゃっ! ちょっと、そういうのいいから」
ぎゅう、と抱き着いて来たよっちゃんを引きはがすと、あはは、と笑い声があがった。そんな私たちに対し、バレー部の子たちがちらっとことらを見て、「仲いいねえ」なんて微笑ましいものを見るように呟かれる。私はなんだか恥ずかしくなって、「べ、べつに、そんなんじゃないっ」と叫んだ。
「そういえば、向日葵ってどうしてつばめくんを好きになったの?」
不意に、よっちゃんはそんな風に、今更すぎる質問をしてきた。
「……めっちゃ今更じゃん!」
「いいじゃん。教えて、教えて」
「え~……しょ、しょうがないな。ま、まあ? そこまで言うなら? 教えてあげないことも? ないけど?」
なんて言いつつ、話したくてうずうずしてしまう。自分から言うのは恥ずかしいけど、人から訊かれたら話せることって、たくさんある。私の場合、つばめくんに関わるすべてのことが、それに当てはまる。
「つばめくんはね。……読んでくれたの」
「え? ……なにを?」
「私が、おすすめした本。しかも、おすすめしたその翌日に!」
ぽっ、と思わず、頬が熱くなる。
――あれは、入学して間もない頃の話だ。
よっちゃんが風邪を引いて休んだせいで、私はクラスに話せる人もおらず、読書くらいしかやることがなかった。まあ正直いうと、よっちゃんがいたって私は気にせず本を読んでいるが。
よっちゃんは私が本を読んでいても、気にせずお喋りをしてくれる。私の相槌があろうがなかろうが、関係ないとでもいうように。最初はちょっと戸惑ったけれど、次第にその関係を心地よく思うようになった。よっちゃんの声は、勉強中に小さな音で流すラジオみたいに、聴いていて心地良い。
「休み時間、やることなくて、でも教室にいるのもなんとなく苦痛で。私、人気のない場所を求めて理科準備室で本を読んでいたの。そうしたら、ちょうど忘れ物を取りに来たらしいつばめくんがきて。それで、『なにしてるの?』って訊かれてさ」
「へ~。なんか、漫画みたいだねえ」
「でしょ~っ!?」
あの時のことを思い出すと、なんだかすごく、神聖な気持ちになる。
人気のない教科棟。薄暗い理科準備室。扉の外から聞こえてくる、わあわあきゃあきゃあという騒がしい声。そんな中で、世界から切り離されたように妙にはっきり響いた、つばめくんのテノールの声。
「本読んでるのって言ったらつばめくん、『へー』って。それから、ちょっと迷ったように視線を外した後、『いつも本、読んでるよね』って」
「それってつまり、向日葵のこといつも見てるってこと……!?」
「やだ、やめてよ~っ」
思わず、弾んだ声を出して、よっちゃんの肩をばしばし叩いてしまう。
「だから私、一生懸命考えたの。それで、『どんな話が好き?』ってきいたら、つばめくん、なんて言ったと思う?」
「なんて言ったの?」
訊かれて、答えようとして。
「――え、とね、」
どうしてだろう。
きゅ、と急に、ブレーキがかかった。
頭の隅で、あの日のことを思い出す。
静かな理科準備室。つばめくんの、ちょっと寂しそうな表情。
するとちょうど、ぴーっ、とホイッスルが響いて、試合が終わった。ありがとうございましたーっ、とコートに立っていた女子たちが頭を下げ合う。
「はい、集合~。お、ちょうどいい時間だね。号令するよ~!」
体育の小川先生の声が響いて、私たちみたいに座っていた面々も、気だるげにぞろぞろと立ち上がる。
「あっ、終わっちゃった! あとで続き、聞かせてね!」
「う、うん」
頷きながら、私はぎゅ、とジャージの胸のあたりを握った。
ぐわんぐわんと、と頭の中で声が響く。いつの日にか聞いた声だ。
――数ページ前まで友達どうしだった登場人物たちが、急にお互いに恋したりとか、しない話。
苦手なんだ、俺。そういうの。
……つばめくんはどうして、“そういう話”が苦手なのだろう?
*
悪い魔女の手によって封印されていた女神様を蘇らせて、荒れていた国に平和が戻る。魔法使いの男の子と、その男の子に導かれて不思議な世界へやってきた人間の女の子は、手を取り合って喜び合う。だけど、そんな喜ばしい時間も束の間。女神さまは、女の子にこう言う。『あなたは、元いた世界へ帰らなければいけない』。
別れを惜しむ二人。もうじきに、魔法の世界と人間の世界を繋ぐ扉が閉ざされる、という時、女の子は男の子の胸に思い切り飛び込んで、こう言う。
『さようなら。あなたのことが好きでした』
「でもさ、こういうのって、ある種お約束ってやつなんじゃないの?」
「う~ん、そうだねえ」
「年若い男女が大冒険を共にしたら、ふつう、恋に落ちちゃうものじゃない? いや、大冒険を共にしなくたっていい。異性と仲良くなるって、それはもう、ふつうに恋なんじゃないの? 少なくとも、物語の世界だと、ほとんどの場合でメインキャラクターの男子と女子は結ばれるし」
「うん、うん、そうだねえ」
「たぬちゃん、話きいてる?」
「う~ん」
私の言葉に、たぬちゃん――音楽の田沼先生は、手元のプリントの束から視線を少しもこちらへは向けず、いわゆる生返事ってやつをした。一歩間違えれば“ぼさぼさ”
ともいえる、癖の強い髪。サイズがあっていないのか、歩く度にかちゃかちゃ揺れる、大きな眼鏡。今年もう37? らしいけれど、二十代後半といわれても全然違和感のない、ちょっと幼い顔立ち。そういうのをぼうっと眺めながら、私は「はあ」とため息をついた。
放課後の音楽室が好きだ。……ただし、吹奏楽部がいないときに限るけれど。
吹奏楽部の女の子たちって、私、正直ちょっと苦手。仲間意識が強そうというか。大勢でひとつの曲を演奏するのだから、それもまあ当然のことなのかもしれないけれど。でも、前に一度彼女たちが練習をしている最中にうっかり音楽室の扉を開けてしまったら(忘れ物をとりに来たのだ)全員の視線が統率のとれた軍隊みたいに一気にぐるんとこちらを向いて、それがすごく怖かった。言葉にせずともその視線が、「自分たちのテリトリーに異物がやってきた」という警戒をひしひしと滲ませていた。
「確かに、物語の世界のハッピーエンドといえば、思いあう男女が結ばれるっていうのが定番ではありますねえ」
「でしょ~っ!?」
「でも、それだけじゃない作品もたくさんありますよ。男女が恋愛関係にならずに、あくまで友人どうしや良き相棒のままクライマックスを迎えるようなやつ」
「例えば?」
「例えば……え~と、『魔女の宅急便』とか?」
「原作だとキキとトンボは将来結婚するよ」
「えっそうなんですか!?」
「しかも、子どもまで生まれて、その子どもが主役のお話まで出てる」
「ええっ!?」
「……ま、たぬちゃんの言う通り、男女が恋愛関係にならずに終わる作品も、そりゃたくさんあるよ。でも、だけどさあ。だからってわざわざ、『そういう話』を求めて読む気持ちがよくわかんないっていうか」
椅子で船をこぎながら、私は言った。
「登場人物どうしが最後結ばれてくれたら、嬉しくない?」
「うーん、どうでしょう。僕はどっちでもいいなあ」
「ええ~」
「よし、終わった。朝陽さん、僕もう行くよ。君も、暗くなる前にはやく帰りなさい」
楽譜の束をとんとん、と合わせて立ち上がり、そんなことを言う田沼先生。私は、面白くない気持ちで立ち上がりながら、「はあい」と気怠く返事をした。
私がこうして時折、放課後の音楽室に遊びに来るようになったのは、夏休みが明けてからだ。
よっちゃんが委員会に行ってしまって(なんとよっちゃんは風紀委員なのだ)、なんとなく真っすぐ帰る気にもなれず、つまらない気持ちで放課後の校舎を歩いていたら、ぽろんぽろんと揺れる音が響いてきた。そしてその音の――曲の名前を、私は知っていた。最近やったゲームで登場する曲だったから。
だから、音に導かれるように音楽室の扉を開けると、そこには鍵盤に向き合って一心不乱に音を奏でる田沼先生の姿があった。邪魔にならないように傍に寄って、演奏が終わるまで待ってから、
「今のって、『ファンタジーテール』の曲ですよね!?」
と訊くと、田沼先生はきょとんと瞳を丸めさせて、「い、いいえ?」と言った。
「今のは、エリック・サティという作曲家の曲ですよ」
「え……う、うそ」
「有名な曲なので、色んな映画やドラマの劇中歌としても使われています。なので、どこかで聴いたのかもしれませんね」
そう言われて、私は自分の頬がポッと赤くなるのを感じた。恥ずかしかった。すごく子どもっぽい間違いをしてしまった……と自分を恥じた。だから、急いで立ち上がって、「す、すみませんでした。そ、それじゃ、もう行きます」と言うと、田沼先生はきょとんと瞳を丸めた後、くすくす笑って、
「よかったら、恥ずかしがらずにまたおいで」
と、言った。
またおいで、なんて人に言われることは、ほとんどなくて。私はなんだか夢見心地で、「はあ、まあ、じゃ、そうします」なんて返事をした。そしてその日以来、私は本当に、二週間に一度くらいのペースで放課後、音楽室に足を運ぶようになった。
たぶん、誰にとっても一人くらいは、こういう距離感の大人というのがいるのではないだろうか。
クラスの友だちとも、家族ともちがう。担任の先生とも全然ちがう。心地よい距離感の大人。悩みっていう悩みを話すってほどではないけれど、時折ぽろっと本音が言えてしまう大人。
私にとっては、それが田沼先生なのだ。
音楽室を出る。時刻はまだ十六時半。廊下の窓から見下ろせるグラウンドでは、サッカー部たちが練習試合をしている。校舎のまわりでは野球部たちが野太い声をあげながら走り込みをしていて、体育館へとつながる外廊下では、ダンス部の女の子たちがおそろいの練習着に身を包んできゃいきゃい喋りながら歩いてゆく。
なんとなく、ゆっくり、ゆっくりと校舎を歩く。
時折視線を各教室の方へ向けて見ると、友人どうしで机をくっつけあってなにやらお喋りをしている人たちとか、いかにも『私たち付き合ってます』とでもいうような距離感の男女が、小さなスマホの画面をふたりでみて、くすくす笑いあったりしている。そうかと思えば、一人静かに参考書に向き合う人の背中も見える。
「……なんか、」
つまらない。
どうしてだろう。私はこの頃、自分がとてもつまらなくてくだらない人間に思えて仕方がない。そんなの、今にはじまったことじゃないのに。
物語の世界では、私のような年代の少女が主人公の話では、たいていなにか、事件が起こる。
あるいは、主人公はなにかしらの悩みや問題を抱えていて、それを誰かと共有したり、わかりあったりして。
でも私には、なにもない。事件は起こらないし、運動が得意なわけでもなければ、際立って勉強ができるわけでもない。将来の目標とかも、今はまだよくわかんないし、これと言って大きな悩みがあるってわけでもない。
ひとつだけ、私が、物語の主人公になり得るのだとしたらら――それだって、なんて地味な物語だろう? って呆れちゃうけれど、でも、ひとつだけ可能性があるのだとしたら。
私には、好きな人がいる。
……まあ、その好きな人だって、クラスのかわいい女の子と良いかんじらしいけど。
「あれ、ひまちゃんじゃん」
階段の踊り場のところで、声をかけられた。ハッとして顔を上げると、まさにちょうど今、上の階から降りてきている最中の桃井さんがいた。西日に照らされて、ふわふわの髪が金色に光って見える。
「あ……桃井、さん。今帰り?」
「うん、そうそう。ちょっと先生の手伝いしてたら、遅くなっちゃった」
「そっか。偉いね」
「ぜ~んぜん。むしろ、ちゃっかりお願いしてきた。『お手伝いしたんだから、成績上げてくださいよ』って。ふっふっふ……まあ、それとこれとは別! って言われたけど」
「あはは」
きっと、というか絶対、『成績上げてください』なんていうのは、冗談なのだろう。相手に気を遣わせないように、ちょっとおどけたかんじで、そういうことが言えるのだ、桃井さんは。そういうことのひとつだってきっと、私にはできない。そして、そういうことができるかできないかというのは、人生において大きなポイントになってくる。……ような、気がする。
「ひまちゃんは?」
たん、たん、とん、と階段を下りてきて、私と同じ目線になった桃井さんの目を見る。くるんと上がったまつげ。びー玉みたいな瞳。小さな口に、ツンとしたお鼻。……ああ、いいなあ。それに比べて私は。
「あ……ええと、私はね、音楽室にいたの。たぬちゃんとだべってた」
「え」
なにそれ、ってかんじの顔をされて、なんだか気恥ずかしくて。言い訳するみたいに、言葉を連ねてしまう。
「た、たぬちゃんってなんか、話しやすくない? だから、たま~に喋りにいくんだ。二週間に一回くらい? ……ま、部活一生懸命やってる子とか、アルバイトしてる子に比べたら、すごい無意味な放課後ってかんじだけど」
あ、この言い方、たぬちゃんに失礼だったな。無意味、なんて。……私はすぐこういうことを言ってしまう。ちょっと強い言葉を無意識で使っちゃって、でも使った傍からハッとなって、「あぁ~……っ」って自分が嫌になる。
「あ、えーと、無意味ってほどでもないか。でもつまりその……」
「……いいなあ」
「はっ?」
「あ、いや、た、田沼先生とお喋り。いいなあ、って思って」
「は、はあ」
「……どんなこと話すの?」
前髪のつけ根のあたりを指先でくいくいと撫でながら、桃井さんが言う。何かを探るみたいに。同時に、何も探られないよう、注意を払うみたいに。
「どんなことって、べつに……最近読んだ本の話、とか」
「ふうん……田沼先生って、本好きなの?」
「ぜんぜん。あの人、音楽以外マジで興味ないっぽい」
「ふふ。そっか。……田沼先生らしい」
その時の桃井さんが、ふ、と浮かべた笑顔が、あんまりにも可愛くて。大きな瞳はちょっと緩んで、白い頬がうすピンクに染まって。
「桃井さんって、田沼先生のこと好きなの?」
ほとんど条件反射で、そう訊いてしまった。
すると桃井さんは、ほんの一瞬だけぴしりと表情を固めた後、まるでなにかのモードをかちっと切り替えたみたいに「やだな~! そんなわけないじゃん」と、わざとらしいくらい明るい声で言った。
「田沼先生はね、私の、推しなの」
「推し」
なんだか、ずいぶん最近使った言葉だ。
「そうそう。だって、超かわいくない?」
「……う~ん?」
「えぇ~っ。わかんないかなあ!」
ふふ、と桃井さんは笑う。それから、スマホの画面をちらっと見て、「あ、いけない」と思い出したように言った。
「今日、家族で夕飯食べに行く約束してるの。行かなきゃ」
「あ、う、うん……」
「また明日ね!」
言うなり、大急ぎでその場を駆け出す桃井さん。
私は、彼女の耳が根元まで真っ赤に染まっているのをぼんやり見ながら、「また明日」と軽く手を振った。
階段を上る。踊り場を西日がきらきら照らして、きれい。ぼんやりしながら教室をめざしているうちに、私は自分の足取りが、スキップしちゃいそうなくらい軽くなっている、ということに気が付いた。
たん、たん、たんっ。
「あ、向日葵。おそ~い」
教室の扉をがらがら開くと、部屋全体オレンジ色に染まった室内で、よっちゃんが私を待っていた。使用済のディズニーの入園チケットが見えるクリアケースをつけたスマホを片手に、窓際の席に座っている。
「あれ、よっちゃん。委員会は?」
「今日ははやく終わったの。そうしたら、教室に向日葵の鞄残ってるから、まだいるんだ~って思って。一緒に帰ろうかなって、待ってた」
「そうなんだ。……ふふ」
「なに、なに。嬉しそう」
「……よっちゃん、私、失恋してなかった」
「え?」
嬉しくて、思わずにやけてしまう。ちょうどその時グラウンドから、サッカー部たちの野太い「ありがとうございましたーっ」という声が響いてきた。
「桃井さんね、好きな人いるっぽい。それも、つばめくんじゃない人」
「え、そうなの?」
「うん」
――あ、これって言っちゃっていいやつかな、って考えが、ほんの一瞬、またたきするくらいの間だけ、頭の隅に過って。
でも、口はもう話し出しちゃっていたから、私はそのまま言葉を続けた。
「どうやら、音楽の田沼先生のことが好きっぽいんだよね」
「えぇ~っ!? そうなの!? なにそれ、なんで!?」
「今、すれ違いざまにした会話で、ちょっと、ね。……いや、これはかなり信ぴょう性高いよ。だって、」
だって。
好きって気持ちを、“推し”って言葉に押し込めて、ちょっと茶化して話しちゃう気持ちは、私にもわかるから。すごく、すごくわかるから。
「……と、とにかく、そういうわけだから。いや~、しかし、田沼先生かあ」
「なんか、漫画みたいだねえ。先生と生徒の恋」
「あはは、確かに! ……てか、ギャルって年上好きになりがちだよね」
――あ、これ、ちょっと言いすぎかな。そもそも、桃井さんはギャルってほどギャルじゃないし。でも、よっちゃんしかいないし、まあ、いっか。
「あ~、わかる! 中学の時も、クラスメートの派手な子たちはみんな、教育実習できてた大学生とか、新任の二十代の先生とかにガチ恋してた。そんで、叶わない恋って泣いてんの」
「みんな、夢みすぎっていうか、身の丈に合った恋愛をすればいいのにねえ」
「うんうん。」
「……桃井さんもさ、やっぱ、名前がちょっと漫画チックだから、夢見がちになっちゃうのかな。自分が、物語の主人公みたいに思えちゃった、り――」
視界の隅に、黒い影が見えた気がして、ふ、と視線をやったその先に。
「ご、ごめん俺、忘れ物、」
「……え、あ、」
――心臓を、氷の手でぎゅっと掴まれたような感覚になった。
そこにいたのは、つばめくんだった。おろおろと、困ったような顔でこちらを見ている。言葉の通り彼は忘れ物――マフラーをとりにきたようで、椅子の背もたれにかけっぱなしにしていたそれをパッととると、「じ、じゃあ」とこちらに背を向けた。
ばくんばくんって、痛いくらいに胸が鳴る。
……今の、聞かれた? そうだとしたら、どこから? あれ? 私って、今の会話でつばめくんの名前出したっけ? 出してたらやばくない? 私の気持ち、ばれた? いや、気持ちがどうこう以前に、傍から訊いたら今のは完全に桃井さんの悪口だ。こんな、放課後の誰もいない教室で人のこと悪くいうなんて思われたら、私――
「あ、あのさ」
――意を決したように振り返ったつばめくんの目が、あんまりに必死で。私は、自分が今から断罪されるのだと思った。
でも違った。
「も、桃井さんね、お父さんが、変わったんだって。小学生の時!」
「……え、は、」
「きゅ、旧姓は、春宮だったらしいよ。春宮桃子さん。い、いい名前だよね。春生まれらしい、し。そ、それが、再婚で、桃井桃子になって、その……ほ、本人も、『変な名前だよね』って、ちょっと気にしてた」
「……あ」
カッ、と顔が熱くなる。びりびりって、舌がしびれる。
つばめくんは、私の顔が真っ赤になったのに気が付くと、これ以上はもう言わなくても良いと判断したのか、「だ、だから……そ、それだけ。邪魔してごめんね」と言い残し、その場を去って行った。
わあわあと、窓の外から騒がしい声が聞こえてくる。部活動を終えた運動部たちが、帰路につく賑やかな声だ。
「ひ……向日葵。ご、ごめんね。私も、ちょ~っと調子乗りすぎたっていうか、」
「…………」
「……だいじょぶ?」
「……せ、」
絞り出した声は、情けなく震えていた。
「え?」
「どうせ――どうせ私は、脇役にしか、なれない」
「え、え、え、」
「どうせ……どうせ! う、うぅ……うわぁああああんっ!」
「ええぇえっ!?」
おろおろと、よっちゃんが困ったようにこちらに寄ってきて、「よ、よしよし。大丈夫、大丈夫」と私の背を撫でる。でも、胸に鋭く刺さった棘みたいなものは抜けない。痛くて痛くて、たまらない。
さいあく。さいあく。さいあく。
なにが最悪って、私――つばめくんに、桃井さんの悪口を訊かれたのをショックに思っているんじゃない。そうじゃなくて、いや、そうでもあるんだけど、なによりも、『いやなやつだ』と思われたことに、ショックを受けている。
それって、なんて自己中なんだろう?
嫌になる。……ほんとに、嫌に、なる。
「わたし、わたしも――桃井さんみたいに、可愛かったら、よかった」
「……は?」
「性格もよくて、かわいくて。スポーツも、勉強もできて。そうしたら、私だって、」
「…………」
「……放課後の教室で、かわいい女子の悪口言ってるところきかれて、それを男子に咎められる、なんてさ。そんなの……そんなのさあ。わ、脇役すぎるもん。小説の世界だったら、名前も与えられず、『クラスメートの女子』としか表記されないし、ま、まんがの世界だったら、目から上を描かれないモブ」
「…………」
「わたしも――わたし、だって、ほんとは、しゅ、主人公に、」
嗚咽が止まらない。ひぐひぐと、みっともなく、情けなく、泣くことしかできない。泣き顔すらかわいくなれない。鼻水はずるずる出るし、涙はぽろぽろ流れ落ちはせず、ばしょべしょと顔にひっつくし。
消えてなくなりたい。全部、全部、なかったことにしたい。私の存在ごと、全部。
「――ふ、」
なんて考えていると、ふいに、俯いていたよっちゃんが小さく声を漏らした。
え、と思って顔を上げる。するとよっちゃんは、「ふ、ふ、ふ……ふふ、ふふふっ、ふふふふ、あははははっ!」と。徐々に徐々に音量を上げていって、最後にはお腹を抱えて大笑いをしだした。
驚いた。
だって、笑われるようなことを言ったつもりは、微塵もなかったから。呆気にとられてきょとんとしてしまう私をよそに、よっちゃんは「ご、ごめんごめっ、ふ、ふふ……だってなんか、なんか……か、可愛くて!」と言った。
「は……な、なに? 今の話のどこに、可愛い要素があったの?」
「ぶふふふっ」
「ちょっと!」
あまりの突拍子もなさに、涙が引っ込んだ。なんだか急に恥ずかしくなってきて、でも恥ずかしがっているのを知られる方が恥ずかしいって気がして、私は怒った顔を努めて作りながら「わ、笑わないでよっ」とよっちゃんの背中をばしばし叩いた。
「はーっ。笑った笑った」
「マジでなんなの!? ひ、ひとがこんなに、」
「だってさあ~、ふふ、ふふふ……落ち込み方が、いかにも、向日葵らしくて」
「……はあ?」
「主人公になれない、とか。脇役とか、小説の世界だったらとか、まんがの世界だったらとか……ふ、ふつう、そんなふうに考える?」
「……う。しょ、しょうがないでしょっ。こういう性格なの!」
「うん、そうだねえ。そういう性格の向日葵だから私、友達になったんだもん」
ああおかしい、と目に涙をにじませながら、よっちゃんが言う。
すとん、って音がした。
なにかが、自分の中に落ちてくるみたいな、そんな音だった。
「ぶっちゃけ、向日葵がいかにもイケイケな女子だったら私、声かけてなかったよ。ミア―キャットみたいにきょどきょど辺りを観察して、卑屈そうに『これだからリア充は! ふんっ』みたいな目で他の子たちを眺める向日葵だったから、私、声かけたの。だって、いかにも面白そうだったから。実際面白かったし」
「お、面白いとは失礼な!」
「えぇ~、怒んないでよお。私、向日葵の想像力豊かなとこ、けっこ~好きだよ」
よっちゃんの言葉はまっさらだった。嘘偽りないってことがじゅうぶん伝わるくらい、まっさらだった。だからだろうか。私はなんだか、胸がじんとなって、鼻の頭がツンとなって、またしてもちょっと、泣きそうになってしまった。
「……よっちゃん」
「んー?」
「……ありがと」
ごし、と目元を拭いながら、情けなくしぼんだ声で、そう呟く。
するとよっちゃんはきょとんと一瞬瞳を丸めさせた後、「どーいたしまして!」と、よっちゃんにしては照れくさそうに頬を染めながら言った。
*
「――桃井さん」
次の日。
移動教室の隙を伺って、私は桃井さんのことを後ろから呼び止めた。「ちょっといいかな」と言うと、桃井さんは一緒にいた平井さんという女の子に「先にいってて」と軽く手を振って、「どうしたの?」と私に向き直った。
「あ、あのね。その……昨日の、ことなんだけどね」
「昨日……ああ」
桃井さんが、ちょっと緊張したように背筋を伸ばす。そういうことに、私はぎくっとなる。
桃井さんだって、怖いんだ。自分の気持ちが言い当てられそうになったら。誰かに踏み込まれそうになったら。こんな風に、目を逸らしたり、するんだ。……なんだ、そっか、そうなんだ。
「その……桃井さんも、よかったらこれから、た、たまに、たぬちゃんのとこ、行かない?」
「……へっ?」
「ほ、ほら、たぬちゃんのこと、推しって言ってたでしょ? だ、だから、お喋りできたら、う、嬉しいかなって。……私にも、推し、いるから。その……気持ち、わかるっていうか」
最後の方は、ぼそぼそと情けない話し方になってしまった。
罪滅ぼしのつもりじゃ、ないけれど。昨日のことを踏まえて、私なりに、今の自分にできる誠意一杯を考えた結果が、こうだった。桃井さんを、放課後の音楽室に一緒に連れてゆく。
「二週間に一回くらいだから、そんなに頻繁にじゃないし、先生も忙しいから、いつも長くたって三十分くらいしか話してないけど。ど、どうかな」
「…………」
「……あ、あの、桃井さん?」
「……の、」
小さな小さな声が聞こえてきて、思わず、
「……え?」
と訊き返す。すると。
「ひ……ひまちゃんって、天使なのっ!? !?」
「は? ……わぎゃっ!」
「ありがとありがとありがとっ! 絶対絶対、ぜ~~~ったい、行く! 行きたい! お願いします!」
「わ、わかった、わかったから!」
ぎゅうっ、と強い力で抱きしめられて、私はわたわたとしてしまった。その拍子に、ふわっと良い匂いが鼻孔を満たして、思わずどぎまぎしてしまう。いけない。こ、これじゃ私、なんだか変態みたいだ。
「ね、じゃあ次はいつ? いつ行くの?」
「え~と……あんまり遠くてもあれだよね。じゃ、来週の火曜とかは? 吹部の練習ないから、たぶん、音楽室に行けば和えると思う」
「来週の火曜ね、オッケー! は~……ふふ、ふふ。ありがとう、ひまちゃん」
「ううん。……そ、それじゃ、」
「あ、待って。……その、この機会に、もう一個、いい?」
「え?」
「その……桃ちゃんって、呼んでほしいな、とか」
照れくさそうに人差し指どうしをもじもじと合わせながら、桃井さんは言った。思ってもみなかったことを言われたので、私は思わずぽかんと口を開いてしまう。
「私たちってほら、向日葵と桃で、お花仲間でしょ?」
頭の中で、いつかの記憶が蘇る。
――私たち二人で、朝と夜だねえ。
そっか。……きっかけなんて、どこにでもあったんだ。
「だ、だから、実はかなり親近感かんじてたっていうか。……ま、桃井さんのままでも、『桃』って入ってるからいいんだけどさ。へへ、へ。ほんと、変な名前だよね!」
「桃ちゃん」
自分の名前を茶化して、冗談みたいに話を終わらせようとする桃井さん――桃ちゃんの言葉を遮ってそう呼ぶと、今度は彼女が驚いた顔をした。なんだか急に照れくさくなって、ふい、と視線を反らす。
「そ、それじゃ、来週の火曜、よろしくね。……桃ちゃん」
「うん……うんっ!」
顔が熱い。耳まで赤く染まっていることが、よくわかる。
ガラじゃないのがよくわかって、恥ずかしくてその場を大急ぎで離れようとすると、「あれ?」と背後から声をかけられた。
「二人とも、もうすぐ授業はじまるよ。どうしたの?」
「あ、つばめくん。今ね、ひまちゃんとマブになったの。いいっしょ」
「え?」
ぎゅう、と桃ちゃんが私の腕を抱きしめる。すると、つばめくんの瞳が、じ、とこちらを向く。昨日、あんなことがあったから、ちょっと――いや、かなり、どきっとしてしまう。あさましい奴って思われたら? 本当に反省してるのかって疑うような目を向けられたら? 一瞬で不安が胸を満たして、どくんどくんって、心臓が鳴った。
けれど、私のそんな心配をよそに、つばめくんは私の目を真っすぐに見て、まるで道端に咲いているお花に目を向けるみたいに、つまりとても純粋にほほ笑んで、こういった。
「そっか。いいなあ、桃井さん。俺も、朝陽さんとマブになりたいな」
「ひ、え、は、」
「だってさ、ひまちゃん。手始めに今日、三人でスタバとかいっちゃう?」
「えっ!?」
「俺、スタバって行ったことない」
「は、それほんと!?」
「わ、わたしも」
「えぇっ!? じゃーなおさら、行くしかない! よし、そんじゃ放課後、掃除終わったら教室の前集合ね!」
元気よく、桃井さんが言う。あまりの急展開に、目をぐるぐるって回すしかできない。
ここが物語の世界だったら。私が主人公だったら。こういう時、なんていうのが正解なのかな。ええと、ええと――だめだ、わからない。
「――よ、よっちゃんも誘っていいっ!?」
わからないけど、でも、とりあえず。
……脇役Aにしては、上出来でしょう!
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