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前世の記憶
第2話
アンには、前世の記憶がある。
「帰りに食事でもどうかな」
若くて華やかな顔立ちの医師である近藤は、看護師が選ぶ結婚したい男No1。
「すみません。今日も残業なんです」
この病院に勤めて1ケ月が過ぎた頃、香は近藤に誘われて何度か食事をしたことがある。
けれど今では医師の近藤よりも遅くまで働いている為、その誘いを断るしかなかった。
近藤は香が断る為に、残業を言い訳にしていると思っているだろうか?
あと1回食事のチャンスがあれば、気持ちを伝えるんだけどなと香はうなだれている。
「はあ、今日も残業、明日も残業、明後日もずっと残業」
勤めている病院の近くにある寮のワンルームに戻り、新坂香はベッドに倒れ込む。
看護師1年目の香は、休日も取れず慣れない仕事にストレスが溜まっていた。
「202号室の点滴終わったの?」
教育係りとして教わってきた看護師の山田さんから確認が入る。
「あっ、まだです」
201号室までは済んだのだが、ナースコールで呼び出されて210号室から戻ったばかり。
「まだって、どう言うこと?リネンの交換を忘れるのとは別の話しよ」
点滴は患者の病状に合わせて、中味も量も時間も異なる。
「すみません」
「謝るなら、患者さんに謝って点滴させてもらいなさい」
患者に取って看護師は天使とよく言うが、ワンフロワーに1人は意地悪な看護師がいる。
それが山田小百合だった。
その山田に、何が原因だったのか目をつけられてからは、シフトの希望が通らなくなった。
他の看護師が少なくとも週に1回は休みが取れているのに、香はここ半年一度も休めていない。
夜勤も週に1回ずつと決められているのに、香にだけ週に2~3回の夜勤が割り振られてくる。
そして山田からの重箱をつつくような指摘と嫌味に、香は毎日退職することばかり考えていた。
ある日、小児病棟のナースステーションで、雑務をこなしていた時に他の看護師たちの話しが聞こえてきた。
「お局の山田さん、ずっとアタックしていた近藤先生と上手くいったらしいわよ」
「え~、山田さんて年上でしょ?全然相手にされていなかったのに」
「それが酔ってる近藤先生をホテルに連れ込んで、既成事実を作ったんだって」
「ひゃ~、さすが心臓に毛がはえてると言われるだけあるね」
近藤さんが、山田さんと?
香が何度も誘いを断っていたから、近藤は香に興味が無くなってしまったのだろうか?
他の看護師の昼休憩が終わった頃、ナースステーションから献体を運ぶ仕事が舞い込む。
献体を運び終わりそのまま昼休憩に入る為、院内を移動していた所で医師の近藤と出くわした。
「┅┅」
「新坂さん、これから昼休憩?少しいいかな」
「はい」
香は近藤の話しが聞ければと思っていたので、付いていくことにした。
そこは病院の地下の喫茶店で、値段が高く味もイマイチで人気がなく人もまばらだ。
カウンターで先に注文を済ませて、自分で飲み物を受け取って席に運ぶシステム。
「何、飲む?」
「ミルクティーで」
「アイスコーヒーとミルクティー。先に奥の席に座ってて」
彼がカウンターで飲み物を待っている間に、奥の席に座って待つ。
「お待たせ。こんなのしかなかったけど」
近藤はカウンターに並んでいたパンを2個づつ買って、お盆に乗せてきた。
「いただきます」
医師として優秀で稼いでいる彼は、食事を誘ってくれた時も必ず奢ってくれる。
「早速だけど、君が俺の誘いを嫌がって残業を入れているって聞いたんだ」
「え?近藤さんの誘いを嫌う?そんなことある訳ないじゃないですか」
勘違いされていないか心配していたことが、現実になってしまったと悲しくなってしまう。
でも近藤には既に看護師の山田がいるのだから、意味のない話しに思える。
「本当に?」
「はい。残業どころか、休みも取らせてもらえないんです」
「┅┅」
「近藤さん?」
いきなり黙り込んだ近藤に、小児病棟内の話しをしたらいけなかったのかと心配になる。
「もしかしてシフトを作っているのって、小児病棟の山田さんなのか?」
「そうです。なかなかシフトの希望を通してもらえなくて、山田さんに嫌われてるのかなって」
誰にも言えなかった愚痴を近藤に話してしまいたかった。
「そんな┅┅」
いつも明るくて、しっかりしたイメージの近藤が、頭を抱えてテーブルに顔を伏せてしまった。
「俺は君が病院で働き始めた頃から、ずっと、今でも好きだったんだ」
近藤のいきなりの告白に、香は驚いたが、山田との話しは嘘だったのかと安心した。
「あの私もです。もう一度、食事に誘ってもらえたら私から」
「ごめん」
「え?」
「1ケ月前位かな。君が俺の誘いを嫌がっているって聞いて、やけ酒を飲んだんだ」
これは何の話しだろう?
どう考えても嫌な予感しかしないと、香は耳を塞ぎたくなった。
「もしかして、私が近藤さんの誘いを嫌がっていると言ったのは」
「山田だ。その話しを聞いた後に、やけ酒を付き合ってくれたのも」
ああ、その後にホテルに行ったのか。
「この話しに何か意味があるんですか?」
自分の意志に反して頬に涙が溢れていたが、流すままにしておく。
「山田さんと付き合うことになった報告ですか?それとも別れて私と付き合ってくれるんですか?」
香はボロボロと流れる涙を止められない。
「妊娠したって言われたんだ。今日は君に嫌われていたって確認したくて誘ったんだけど」
近藤は香の顔を見ることも出来ずに、自分の足元ばかり見ている。
ああ、山田さん、あなたの勝ちです。
「ふふふ。何で山田さんに嫌われているのか、やっと分かりました」
小柄な体がフラッと立ち上り、店を出ていく。
近藤はやっと両想いだと分かった途端に、香を追い掛ける資格を失ってしまった。
◇◆◇
大病院では、浅く広く沢山の患者を担当しなければならない。
それは同時に、担当した患者の死に目にも多く関わると言うこと。
「14時36分ご臨終です」
担当していた患者が、小児骨髄性白血病で亡くなった。
まだ5歳なのに親に心配をかけたくないと、滅多に痛みを口に出さない子だった。
骨髄性白血病の治療は、大人でも泣きたくなる程痛くて辛いという。
「ゲエ、ゲホ、胃も頭も痛い」
病院のトイレに駆け込み、香は胃の中を全て吐き出しながら、意識が遠退いていく。
休みの取れないシフト、毎日遅くまで残業をして慢性的な睡眠不足が重なり、うつ病になりかけてたかもしれない。
そして姪と同じ年と言うことで気にかけていた5歳の女の子が亡くなってしまった。
何より、香を好きだったと告白してくれた近藤を忘れられなかった。
汚い嘘と策略で、近藤を奪い近藤の子を妊娠した山田と、毎日顔を合わせて嫌がらせをされることで、ストレスがピークに達する。
「誰かっ!!トイレで看護師が倒れています」
その声を遠くで聞いたのが、前世での最後の記憶。
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