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「運命の恋を知ってしまったんだ」
室内から溢れる薄明かりで照らされるバルコニー。その下に広がる王宮の美しい庭園は、闇の中でもたくさんの花が輝いていた。頬を撫でる夜風も心地良く、そんな中で長年寄り添った婚約者と二人きり。
なんてロマンチックな状況なのだろう。
普通の令嬢であれば雰囲気にのまれるそんな場面だが、リリヤ・ログル公爵令嬢は冷めた目で目の前の婚約者を見つめていた。男はそれにたじろぐ。
顔立ちのはっきりした美人だと家族に評価されるリリヤだが、普段はメイクは薄くして目立たないよう柔和な笑みを浮かべていた。少しでも優しげに見えるように、婚約者に気に入られようとリリヤなりに努力した結果だった。
この国の男性平均値ほどに高い身長が少しでも低く見えるように顔をうつむけていたし、ヴァハルが嫌がるためヒールの靴なんか履かなかった。長いドレスの下で腰を屈めていたリリヤだったが、今はそれを全てやめている。床の大理石にハイヒールが当たって、カツンと音が鳴った。
赤く引いた口紅に、同色の華やかなドレス。流行のふんわりとしたパニエを用いたものではない。大陸一の強国であるリモッシア皇国で流行の兆しを見せているという、ゆったりとしているが身体のラインを拾うドレスだ。
無表情の長身迫力美女に見下ろされる形になっている彼女の婚約者――ヴァハル・ドユーズは知らず足が一歩後ろに下がる。
婚約者は幾度か逡巡し、それからおずおずと口を開いた。
「すまないリリヤ、君と結婚は……できない。なぜなら――」
身長こそリリヤと変わらない位だが、学園でヴァハルは令嬢たちに人気がある。伯爵家の嫡男で顔立ちも男らしく、誰にでも親切だ。そう――リリヤ以外には。
婚約者は申し訳なさそうに言葉を続ける。
「「 運命の恋を知ってしまったんだ 」」
言葉が重なる。ヴァハル本人と、婚約破棄を告げられたにも関わらず全く動揺を見せないリリヤのものだ。
驚くヴァハルを横目に、リリヤはフンと鼻で笑う。
「もう何度も聞いているわ。――隠れてないで出てきたらいいでしょうロザンヌ」
そう暗がりに呼びかけると、そこから桃色のドレスを身に纏った可憐な少女が現われた。その表情は訝しげだが、それはそうだろう。
「こんな茶番はもううんざり。運命の恋? どうぞどうぞ、自由にやってちょうだい」
婚約破棄の事も、バルコニーの陰にロザンヌが隠れている事も、リリヤは知っていたのだ。つまらないこと、と吐き捨てるように呟いた。
「リリヤ、言っておくけど貴女がそんな可愛げのない態度だからヴァハルも愛想を尽かすのよ? 自分よりも背が高い女ってだけで見劣りするのに、ヴァハルを立てることもしないじゃない」
ロザンヌはクリクリとした瞳をつり上げて、そんなリリヤに食ってかかる。
確かにリリヤは学園でも優秀な生徒で教師の覚えもめでたい。それに比べてヴァハルはあまり勉強に力を入れるタイプでもなく、それなりの成績を収めているに留めていた。
近い将来ヴァハルの家に嫁ぎ、公爵夫人として采配を振るうつもりだったため、社交も勉強も常に努力を続けてきたのだ。だがその結果が、これだ。
見た目だけ砂糖菓子のように可愛らしい、ポッと出てきただけの子爵令嬢にヴァハルを奪われた。
リリヤはこれ見よがしに、フウとため息を付いた。
「婚約破棄は了承したわ。それでは私はこれで。お二人ともお幸せに」
ドレスの裾を優雅に持ち、リリヤはくるりと踵を返す。
「な……っ! 待ちなさいよ!」
食ってかかろうとするロザンヌを振り返る事もない。
リリヤにとってこの茶番は、もう99回目となる。彼女を相手にする時間は、もうリリヤにはこれっぽっちも持っていなかった。
最初に婚約破棄をされたあの日から、リリヤは何度も同じ日を繰り返しているのだ。
◆ ◆ ◆
かつて、リリヤにとってヴァハルは全てだった。
子供達の集まるお茶会で彼に一目惚れしたリリヤは、父に頼んで結婚を申し込んだ。家柄こそ公爵家にやや劣るものの、ヴァハルは伯爵家の中では力のある方だったことが幸いした。
だから十歳になった頃、既に二人は婚約していたのだ。あの頃のヴァハルは優しく穏やかで、リリヤは本当に彼の事が好きだった。
その初恋を、ずっと温めてきた。花嫁衣装を身につける日を待ち望んでいたというのに、ヴァハルはそうではなかったのだ。成長に伴い少しずつそっけなくなる彼に、リリヤは距離を詰めようとさらに必死にあれこれ努力してきたつもりだった。
伯爵家で女主人として采配を振るえるよう、また彼の領地についても学ぶことでサポートできるようにした。彼の好みを調べて穏やかに振る舞ったし、背の高さを嫌がられたからいつでもヒールのない靴ばかりを履いていた。
ただただリリヤは、ヴァハルに好かれたかったのだ。遠くなっていく婚約者の心を繋ぎとめたい、そのために努力をしてきたつもりだった。
だがそれらはすべて裏目に出ていたのだ。
全てはヴァハルとの未来のためにとやってきた勉強も、自分の服装を彼の好みに合わせることも、全部、全て。
『君といると息が詰まる。自分が惨めに思える。ロザンヌは僕だけを見て、僕を凄いと褒めてくれるんだ。可愛いんだよ、愛してるんだ』
最初に婚約破棄を告げられたあの日は、リリヤにとって晴天の霹靂だった。
見た目も整っていて、婚約者であるヴァハルよりもやや背が高い事だけはコンプレックスであったが他人からの評価も悪くなく、むしろヴァハルという婚約者がいなければ公爵令嬢という身分もあって引く手あまただっただろう。
身を引きちぎられるほど辛く、そして悔しかった。長年ヴァハルだけを愛してきたリリヤが、つい最近知り合ったばかりのロザンヌに婚約者を奪われるなんて屈辱でしかなかった。
大粒の涙を流し、初めてヴァハルに追いすがった。だがそれを見たヴァハルは何故か満足そうにリリヤを見下ろすも、ロザンヌを愛おしげに抱きしめたのだった。
それから一週間ほど泣いて暮らしたある朝、リリヤは破壊しつくしたはずの自室が綺麗になっている事に気がついたのだ。初めは寝ている間に修繕したのかと思ったが、荒れていたリリヤに怯えていたメイドが以前のように接してきたことで『時間の巻き戻り』を自覚した。
そして時間が戻った当日に、舞踏会で再び婚約破棄を告げられたのだった。
二度目ともなると比較的落ち着けた。どうにか説得を試みたが、ロザンヌの勝ち誇ったような微笑みにカッとなってしまい、逃げるようにして会場を去るしかなかった。
そして再び婚約破棄宣言の丁度一週間後に、また時間が戻ったのだ。
幾度となく繰り返される婚約破棄は、それを告げられる当日の朝を起点にしていた。そしてそれから一週間だけ自由が与えられてまた戻る。
だからリリヤにとって、これはチャンスだと思った。
再びヴァハルの心を得るチャンスを、神様が与えてくれたのだと。
だが冷たく婚約破棄を告げるヴァハルには、リリヤの言葉は一つも届かなかった。情に訴えても、ロザンヌを糾弾しようとしても、ヴァハルの気持ちが戻ってくる事はなかったのだ。
もちろんリリヤもただ、ぼんやりと時間の巻き戻りを経験していた訳ではない。あの手この手を試してみた。ドレスや髪型を変えてみたり、バルコニーに行かないようにしてみたり、そもそも舞踏会を欠席しようともした。だがこれもまた神の采配なのか、どれだけリリヤが足掻いても必ず舞踏会に行くしかなかったし、どこにいようとも婚約破棄を突きつけられた。
幾度となくヴァハルに嫌われ、ロザンヌは申し訳なさそうな、それでいてどこか優越感を感じる笑みをよこしてきた。
そうしてそれを98回繰り返し、今回はとうとう99回目だった。
一度の巻き戻りで一週間が与えられるのだから、リリヤは既に時間にしておおよそ二年間分、同じ一週間を過ごしている。
もはや疲れたのだ。
どう足掻いてもヴァハルはリリヤを愛さない。
そしてとうとう愛想が尽きた。ヴァハルにとっては一度きりの宣言だろうが、リリヤはもう98回も聞いているのだ。どれだけ愛していようが、流石にそれも枯渇する。
そして話は冒頭へと戻る。
馬車で帰宅したリリヤにメイドたちが腰を曲げて出迎える。
「お疲れ様でしたお嬢様」
今までかけられたどのねぎらいの言葉よりも、それがリリヤの身体に染み渡る。長かった、ここまで吹っ切るのにどれだけこの茶番を繰り返してきたかわからない。
「ええ、ええ! 疲れたわ! 本当に!」
リリヤは自宅へ帰るとドレスを脱ぎ捨て、行儀悪くベッドへと飛び込んだ。
「ここからもう自由時間よ!」
そう、リリヤはもう疲れ切っていた。どうしたらヴァハルに愛して貰えるかを考え、惨めな気持ちを味わった過去の自分にうんざりしていた。
もう何も気にしない。どうせ巻き戻るのだから好きにさせて貰う。99回目になってようやく、そう決意した。
「見てなさい、もうなににも縛られないんだから……」
ふっきれた99回目のリリヤは、もうこのおかしな神のイタズラを楽しむ事にしたのだ。
翌朝。
リリヤは一人、街へと向かった。公爵令嬢が一人で出歩くなんてとんでもないと言われたせいで、メイドと護衛が少し離れた所で待機しているが実質一人だ。こんな風に一人で出歩くのは初めてで、何度も来た街だというのにまるで初めてのようにワクワクしてしまう。
そして昨日ドレスを買った店の扉を開く。
「いらっしゃいま……あら昨日のお嬢様」
出迎えてくれたのは小柄なマダムだ。貴族御用達のブティックの一つだが、こぢんまりとしていてリリヤは今まで使った事はなかった。
ただ昨日は舞踏会のため、ヴァハルの好みではない自分好みのドレスを急いでドレスの調達をする必要があり、屋敷へと呼びつけていたいつもの店では都合がつかなかったため急遽訪れた店だった。
「素敵なドレスをありがとう。おかげでいい舞踏会になったわ」
スラリとした長身のリリヤに、マダムが選んでくれた強国リモッシア皇国で流行しはじめたというドレスは大層映えた。滑らかな光沢が歩く度にスルスルと煌めいて、随分人々の目を惹いたのだ。
どちらかと言えば下位貴族が使っているだろうこの店で買い物ができたのは、リリヤにとって幸運だった。惜しげもなく金糸が織り込まれたドレスはきっとこの店の客層では買い手に困っていたのだろう。だがそのおかげで他の貴族とドレスが被らなくて済んだ。
それどころかまるでリリヤのために誂えたように似合い、今まで着ていたふんわりとした地味なドレスばかりを見てきたヴァハルの間抜け面を拝む事ができたのだ。
昨夜の元婚約者の表情を思い出して、リリヤはクツクツと笑った。
自分は随分性格が悪くなったように思えるが、おおよそ二年もこの狂った一週間を過ごしてきたのだからそれもいたしかたないだろう。むしろ本来の自分を取り戻したようで、リリヤは大変気分がよかった。
「だからあと何着か買いたいの。マダムの趣味がいいから」
「あら。光栄ですわ」
マダムが微笑むと目尻に皺が寄った。それから既製品のドレスをいくつか見繕ってもらい、一週間後に屋敷へ採寸に来るよう約束を取り付けた。
(来週私はもう、ここにいないけれど)
巻き戻ったあとの世界がどうなるのかは分からないけれど。しても意味のない約束だとは思いつつも、もし叶うならマダムの良い顧客になりたいと思ったのだ。
それからリリヤは庶民の店が建ち並ぶ方へと足を向けた。護衛やメイドがなにか言いたそうだったが荷物だけ預けて見ない振りをした。
今までのリリヤなら令嬢らしからぬ振る舞いはしなかっただろう。公爵令嬢として、そしてヴァハルの婚約者として恥ずかしくないように、必要以上に自分を律していた気がする。
だがそれらももう、昨日で終わったのだ。
(もうなにをしても、どうせ時間はまた巻き戻るんだもの!)
またやってくるあの婚約破棄の茶番まで、リリヤはせいぜい楽しもうと決めたのだ。
露天商を覗き込み、ひび割れたガラスの腕輪を買ってみた。見たことのない串焼きというものを買い、その刺激的な味に目を白黒させた。街を歩く人々はどうみても貴族と分かるリリヤを何度も振り返って見ていたが、その後ろから続く護衛の姿を見て何も言うことはしなかった。
歩き疲れたリリヤは近くの木陰に腰を下ろす。
小鳥の囀りや風で擦れる葉ずれの音が心地良かった。
こうやって穏やかな気分で過ごすのは本当に久しぶりのように思えた。98回分、ずっと泣き疲れて悲観したまま生きてきた。99回目、おおよそ体感としては二年ぶりに、リリヤはようやく生きていることを実感していたのだ。
目を閉じ、草むらに大の字に寝転がった。はしたない事は分かっているが、今だけは許してほしい。風や太陽、遠くではしゃぐ子供達の声までが、リリヤにようやく生の喜びを教えてくれている。
瞼に影が落ちた。誰かが自分の側に立っている気配がある。メイドか護衛か、いい加減にしろと小言を言いにきたのかもしれない。ため息をつきながら目を開けると、そこには一人の男性がしゃがみ込んでリリヤを見ていた。
「……」
「……」
パチリと視線が合う。男は人好きのする笑顔をリリヤに向けた。
「あれ、生きてる? 貴族令嬢だよね? 死んでるのかと思った」
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