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グラシス・ジェ・リモッシア
あっけらかんと話す男にリリヤはいぶかしんだ。よく見ればフードで顔を覆うが、その裾から見える服の生地は上等なものだし、顔立ちも随分整っている。日差しを受けたせいか、わずかに見える赤毛は血のように鮮やかだった。
暴漢の類いではなさそうだ――そうリリヤが判断していると、男は右手を差し出してきた。
「……?」
「起き上がらないの、お姫様」
得体のしれない男の申し出を受ける理由はない。その板に付いた所作からして貴族だろうがリリヤは知らない顔だ。公爵令嬢のリリヤが知らないという事は、重要な家門ではないということを意味しているし、誰であってもこの残り六日間の休息を邪魔されたくなかった。
「結構よ。もう少しここで寝転んでいたいの」
「ふうん。じゃあ俺も」
言うなり男もリリヤの真横に寝転がった。それには流石のリリヤも身体を起こす。いくら木陰で人目につかないとはいえ、未婚の男女がこんな風に隣に寝るのは憚られる。
「ちょっと貴方……」
「ほら、起きた」
男は寝転んだまま、起き上がってしまったリリヤにウインクをした。
恐らくその辺の貴族令嬢なら、その端正な顔もあって顔を赤らめるかもしれない。だがリリヤは蛇蝎を見るかのように顔をしかめた。
「そうやって他人を思い通りに動かそうとする人は、嫌いだわ」
男はおや、という顔でリリヤを見上げた。心底驚いているようで、それはこの男がこんな振る舞いをしても誰からも咎められることがなかった経験を示している。
その顔立ち同様、何人もの令嬢を泣かせてきたのかもしれない。
リリヤにとって、顔の良い男というのはヴァハルの先例もある。もはやそのそつのない貴族らしい駆け引きすら憎々しく思える。
「どこの貴族か存じ上げないけれど、なんにせよ無礼だわ」
心地よい時間も台無しにされた気分が相まった。うんざりした態度を隠しもせず、リリヤはスカートの砂埃を払った。そのまま挨拶もせずに踵を返そうとしたところで、腕を強く掴まれる。
「貴方ね――」
「すまなかった。気に障ることをしてしまった」
まさか思いがけず真摯に謝罪されてしまった。
リリヤは少しだけ息を呑んで、それからフウと息を吐いた。
「いいわ。許すわ。だから離してちょうだい」
「あ……」
解けた手元をふいと払って、リリヤはそのまま歩き出した。そしてなぜか男もその横を歩く。隣に立たれて気がついたが、随分背の高い男だ。女性にしては身長があるリリヤよりも頭一つ大きい。
男からは、フワリと嗅いだことのない匂いがした。
「ねえ、どこに行くの」
「どこでもいいでしょう」
「名前は?」
スタスタと歩くリリヤの行き先は特に決まっていない。そして出会ったばかりのどこの誰とも知らないよ人間に、名前を名乗るつもりはなかった。
だけど。
「そうね。当てられたら教えてあげるわ。六日以内に私の名前を当ててみて」
今まで98回の巻き戻りの中で、初めて出会った新しい人間に興味もあった。同じ出来事の繰り返しの中で、初めての明るい刺激かもしれない。
とはいえこの男とどうにかなろうという気持ちは微塵もない。恋愛など、もはやリリヤは一生分繰り返しているのだ。
どうせこの男も今回の巻き戻りでお別れなのだ。ならば少しくらい遊びの要素を取り入れてもいいだろう。
男はリリヤのふざけた提案に目をパチクリとさせた。だが悪い感情は持っていないようだ。思ったことが顔に出る、本当に感情が豊かな人間だと思った。
それから男は目を細めて笑った。
「なるほど、いいね。俺にそんな事を言う令嬢は初めてだよ。俺が怖くないの?」
「あら、貴方みたいな人なら怖くないわ。躾のなってない野良犬の方がよっぽど恐ろしいもの」
思わずそんな軽口を叩くも、男はニコニコと楽しそうだ。それから自然な動作でリリヤの手をすくい上げると、その手の甲に唇を寄せる。
「俺の名前はグラシス・ジェ・リモッシア。きっと君を探し出してみせるよ」
そう微笑む彼の後ろに、いつからいたのか複数の騎士の姿があった。屈強な騎士たちは男の周囲に跪く。
「殿下、探しましたよ」
「あーあ、見つかっちゃった。まあいいか。いい出会いがあったし、ね」
手をひらひらとさせ、男は騎士たちを引き連れて去っていった。
今度は残されたリリヤがポカンとする番だ。
「グラシス・ジェ・リモッシア……殿下……? まさか」
男が告げたのは大陸一の強国、リモッシア皇国。その皇位継承者の名前だった。
(リモッシア皇国の皇子が来ていたなんて、知らなかったわ。それにまさかこんなところで出会うなんて)
呆気にとられるリリヤの髪の毛を、穏やかな風が揺らした。
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