ロイ

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ロイ

 99回目の巻き戻りが始まり、早くも三日目の朝が来た。  大きな窓からたっぷりとした光が注ぎ込む。穏やかで実にすがすがしい朝をリリヤは噛み締める。すべてが新鮮に感じられる心地の良い朝だった。  シェフの用意した朝食をたっぷりととり、庭の散歩をし心地の良い空気を胸いっぱいに吸った。  それから飴色に輝く机に向かい、リリヤは領地から王都へと戻っているはずの両親に手紙を書いていた。  リリヤの婚約破棄について、両親が98回の巻き戻り中になにも言わなかったわけではない。ちょうどこの時期、リリヤの父と母は領地へ行っていたため不在だったのだ。  おそらくあの事件から七日目の夜か、リリヤの存在しない八日目にでも戻ってきたのかもしれない。巻き戻りを経験している間、リリヤは一度も両親の顔を見ることがなかった。  ヴァハルに捨てられた惨めな娘を見られずに済んだ、以前のリリヤならそう思っていたが今は違う。 「お父様もお母様も、私を恥ずかしいなんて思わないはずだわ」  インクを浸した羽ペンを使って、便箋の最後に署名をすると封筒へ入れる。  ワックスを溶かして数滴垂らし、その上から封蝋をした。 「お父様とお母様に大急ぎでこれを届けてちょうだい。どんな手段を使ってもいいから、大至急帰ってきてほしいと伝えて」  残り四日の行程ならば、急げば三日ほどで帰ってこられる。父親はリリヤを特に大切にしているため、手紙の内容を読めばひょっとしたら単身で馬で駆けて来てくれるかもしれない。  手紙を受け取り、一礼したメイドが私室を後にする。リリヤはふうと息を吐き出した。  98回の巻き戻りの間、両親を思い出さないわけではなかった。一人で涙し苦しんだあの日々の中で、そばにいてほしいと思ったときもあった。だがそれは、リリヤのちっぽけな自尊心が許せなかったのだ。今思えば、浮気した男からの一方的な婚約破棄なのだから、 両親が怒るのであれあヴァハルに対してだろうとわかるのに。  婚約者に愛されずとも、両親に愛されていた自覚はあった。だがヴァハルに邪険にされ続け、婚約破棄という最悪の巻き戻りを繰り返しているうちに、どんどん自分の自信が削ぎ落とされていったのかもしれない。  すべてを吹っ切った今、リリヤは無性に両親に会いたかった。 「会いに行ってもいいのだけど、まだやることがあるから」  手入れした羽ペンを引き出しにしまい、リリヤは机の上に置かれた小瓶を光にかざした。  いつも通りであれば、まもなく友人であるロイ・ハーバル公爵令息が嵐のようにこの屋敷に飛び込んで来て、リリヤの部屋の扉を叩く頃だ。  五つ年上のロイはリリヤの友人であり、大切な幼なじみだった。弟ばかりに囲まれたロイはリリヤを妹のようにかわいがってくれていた。ヴァハルがいなければきっと、今頃はロイと結婚していたかもしれない。  物思いに耽っていると、ドンドンドンと強く扉を叩く音がした。 「あら、早いわね」  置き時計を横目で見ると、今までよりも僅かに早い。  ゆっくりと扉を開けると、そこには眉を釣り上げたロイがいた。 「リリヤ! 聞いたぞ、なんなんだアイツは! ヴァハル・ドユーズは!」  オールバックのプラチナブロンドと目元を覆う眼鏡は彼のトレードマークのようなものだった。繰り返しの日々の中で、いつもロイはリリヤを心配して駆けつけてきてくれた。それなのにリリヤは彼の姿をきちんと見たことはなかった。リリヤは巻き戻りの殆どの時間を部屋に閉じこもって、誰とも会わずに生きてきたからだ。 「呼んでもないのに二人揃って妻のお茶会に押しかけたと思ったら、リリヤを捨ててあのバカと結婚するだと!? リリヤはあれを承諾したのか!? その上リリヤを愚鈍だの地味な女だの馬鹿にして許せん――」  怒りのままに話を聞きに来てくれたロイは、一昨年結婚している。家族だけを大事にしていてもいいだろうに、こうやってリリヤをまだ彼の家族と同じように大切にしてくれているのだ。駆けつけてくれた理由は苦々しいものではあったが、ロイのその気持ちがリリヤは嬉しかった。  だから久しぶりに見る大切な幼なじみの姿に胸がいっぱいになるのも、思わず抱きついてしまうのもしかたがないだろう。 「……リリヤ?」 「ありがとう、ロイ。大好きよ」  まるで子供の頃のように抱きつくリリヤに、ロイは毒気を抜かれたような顔をしていた。それから少しだけ悩んで、リリヤの背中を抱きしめた。それがなんだかおかしくなって、リリヤはフッと笑ってしまった。  そんな二人の間に、別の声が落ちる。 「ねえ、俺の前でいちゃつかないでくれる?」  思わずリリヤが顔を上げると、昨日出会ったばかりの男――グラシス・ジェ・リモッシアがいた。大陸一の強国、リモッシア皇国の皇位継承者がどうしてこの屋敷にいるのか。  昨日とは違い、フードは被っていなかった。赤い短髪を揺らし、薄い唇は相変わらず笑みの形が作られている。だが今日はっきりと見えた銀色の瞳は、笑っているように見えるがそうではなかった。むしろ苛立ちがそこに感じられ、リリヤは一瞬、身体が強ばった。 「グラシス、皇気を滲ませるのはやめろ。リリヤが怯えている」 「ありゃ、ごめんごめん」  リリヤの身体をスッと離し、ロイは眼鏡をクイと上げた。 「ろ、ロイお兄様……?」  思わず子供の頃の呼び名が溢れてしまった。どうしてロイがグラシスを連れてきているのか、親しげに話ができるのか。 「へえ、なんだロイ。君はリリヤと兄弟だったのか? 兄弟だからあんなに熱烈に抱き合えると?」 「白々しい演技はやめろグラシス。まったく……紹介するよリリヤ。お忍びで昨日から我家に滞在している、グラシス・ジェ・リモッシア殿下だ。リモッシア皇国の第一皇位継承者であり、妻の従兄弟にあたる。向こうに行った時に気に入られたみたいでな、こうやって可哀想な僕は遊ばれてるんだよ」  ポンポンと会話の応酬ができる程度には、本当に親しいらしい。皇族とは思えないくだけた態度もそうだったが、例えこの国では高位貴族であるとはいえ一介の貴族相手だというのに。 「おいおい、リリヤの前で俺の評価を下げることはやめてくれよ? な、リリヤ?」  ウインクを向けるグラシスに違和感を覚え、そしてはたと気がついた。 「あ……」  リリヤは自分の放った言葉を思いだした。 『六日以内に私の名前を当ててみて』  グラシスはロイの肩にもたれ掛かりながら、にっこりと実に愉しそうに笑った。 「二度目まして、リリヤ・ログル公爵令嬢」  二度と会うことはないだろうと思っていた男と、まさか次の日にこんな形で再会するとは思いもしなかった。
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