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喫茶店の客はどんどん入れ替わって、紅茶はすっかり冷たくなった。
壁にかかっている時計は、長針と短針が12の位置ですれ違ったあと、再び近づこうとしている。
いい加減帰ろうと思って、ハンドバッグを肩にかけて、中からお財布を取り出した時だった。
「あっ」
喫茶店の中で、思わず声をあげてしまった。
すぐ目の前を洸が通り過ぎたから。
私は気が動転していたのだろう。
何も考えずに、そのまま喫茶店を飛び出した。
横断歩道を渡ろうとしている洸は、白いTシャツに黒っぽいジャージズボンという格好で、手には買い物袋を提げている。
「洸くん」
そう呼びかけたけど、洸の耳には届かない。
「洸くん!」
喫茶店の前で、ありったけの声で叫んだ。
道ゆく人が、何事かという顔で私を見た。
「お嬢ちゃん、お会計は」
喫茶店から店員が出てきて、私に声をかけてくる。
そりゃあ無銭飲食を疑われても仕方がない。
私はハンドバッグを持ったまま店を飛び出したのだから。
けれど。
諦めきれずに再び洸の方に目を向ける。
ここを逃したら、二度と会えなくなりそうな気がして。
洸は、横断歩道を渡り切ったところで、こちらを向いて立っていた。
顔に驚きの表情が浮かんでいる。
横断歩道の信号が点滅しはじめた時、弾かれたようにこちらに駆け出してきた。
そして、あっという間に私の前までやってきた。
「すみません」
私の手を引いて、背後の店員に謝っている。
「僕はそこの住民の大原です。代金は必ず払いますので、少し待っていただけませんか」
見ただけで状況を理解したらしい。
ただ、謝っているにしては少し威圧的な口調だ。
「ったく。早くしてよ」
その店員は、私の肩から手をどかして、店内に戻っていった。
私はいつの間に肩を掴まれていたのだろう。
洸に気を取られていて、全然気づかなかった。
「おっさんが気安く触りやがって」
洸が私の肩をパッパッと払う。
……あれ?
この1週間で随分と言葉がお悪くなられて。
「平気?」
心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「へ、平気だよ。私が悪いんだし、掴まれてたの全然気づいてなかった」
それよりも、洸に触れられたところが、ジンジンと熱い。
「んとに危なっかしいな」
洸が呟く。
「お金が足りなかったの?いくら?」
私がお財布を手にしているのを見て、尻ポケットを探っている。
この人は、ほんまに。
「ちゃうわ、アホ」
何で分からないのだろう。
「洸くんを待ってたんや」
それ以外に、私がここにいる理由なんてないのに。
「ええ?」
洸は、わざとかというくらい驚いた。
というか、引いたのかもしれない。
いたたまれなくなってきた。
「ごめんね、こんなところまで押しかけて。でも、洸くんの連絡先知らないから、こうするしかーー」
お財布に目を落として、ボソボソと弁解していると、私のお腹が急にぐうと鳴った。
結構大きな音だった。
「……聞こえた?」
恥ずかしくて、目を上げて恐る恐る尋ねる。
洸は横を向いて、口を押さえていた。
それは、笑っているというよりもーー。
「聞こえた」
そう答えた洸は、耳まで赤くなっている。
「理乃ちゃん、お昼まだなの?良かったらどこかに食べに行く?」
私と目を合わせないまま、洸はそう提案してきた。
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