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空に朱色が混じり始めた頃、私たちは名残惜しい気持ちとともに立ち上がった。
「結局、芸能事務所はどうするの?」
私の家に向けて歩き出しながらそう尋ねると、洸は何かを思い出したように小さく声をあげた。
「一本電話してもいい?」
私にそう断って、スマホを耳に当てる。
「せっかく機会を頂きましたが、見送らせてください」
私の隣で、そんな感じのことを喋っている。
相手が引き止めてくるのを、洸が断っている様子が伝わってくる。
洸は、最後まで主張を押し通して、数分ほどの通話を終えた。
「今のは芸能事務所の人?」
私の問いに、洸が頷く。
「この1週間はお試し期間だったんだ。辞めるなら今日中に意思表示しなきゃいけなくて」
「ええ、危な」
「あはは」
洸は屈託なく笑った。
「でも、良かったの?お母さんたちに相談しなくて」
「うん。自分の人生は自分で決めるよ」
心配する私に洸はそう言って、にっこりした。
「良かった。洸くんがちゃんとやりたいこと主張できて」
私の言葉に、洸が「ん?」と訊きかえしてくる。
「洸くんのお父さんが心配してたんだ。洸くんが自分というものを主張しないって」
それを聞いて、洸は息だけで笑った。
「父さん、理乃ちゃんにそんなこと喋ったの?」
その顔はくすぐったそうだ。
でも、嫌そうではなかった。
「私にも、ちゃんと言ってね。洸くんがしたいこと、私にできることだったら、叶えてあげたい」
私がそう言ったら、洸はますますくすぐったそうにした。
「一緒にいてくれるだけで、じゅうぶんですよ」
なぜか丁寧語でそう返してくる。
その時、手と手が触れた。
手を繋ごうとした私に、洸は緊張した声で続けた。
「でも、その、い、嫌じゃなかったら……、」
ためらうような間の後で。
「腕を、組んでほしいかもしれないです」
何だ、そんなことか。
もっとすごい要求が来るんか思て身構えたやんか。
「あ、でも、知り合いに会うかもしれないからやっぱ無し。理乃ちゃんが嫌な目にーー」
ぐだぐだと撤回してこようとする。
ほんまにアホやなぁ。
その腕に抱きつくと、洸はビクッとした。
自分で言ったくせに。
「公園でキスしといて、何ゆうてんねん。だいたい、こんな隣町からうちまでいじめに来る人なんかおらんわ」
ここから私の家までは、5キロくらい離れている。
しかしこれ、ドキドキするな。
ほんまに私、前にもこんなことしたんやろか。
「だ、黙ってないで何か言ってや」
洸が何も言わないから、ますます恥ずかしくなる。
腕を組んでほしいと言ったのは洸なのに。
「胸がいっぱいで泣きそうです」
返ってきた答えに、思わず笑った。
「何でやねん」
後ろから照らす夕陽に、街がオレンジ色に輝いている。
前に伸びる影を踏みながら、私たちはゆっくりと歩いた。
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