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「なんか、初めて来た気がせんな」
洸の住むアパートの部屋に足を踏み入れた理乃は、そんな感想を漏らした。
「毎日、画面越しに見てたからね」
洸が頷いて言う。
実際、理乃が洸の部屋に来るのは初めてだった。
けれど、イギリスからのビデオ通話で毎日のように見ていた空間だけに、初めて来た気がしなかったのだ。
「荷物、ここに置くね」
洸が、理乃のボストンバッグをリビングの床に降ろして、そう声をかける。
昨日帰国した理乃は、実家で1日過ごして、翌日の今日、レストランで洸とディナーをとったあと、洸の家にやってきたのだった。
今晩はここに泊まるつもりだ。
「理乃ちゃんは、明日はゆっくりできるの?」
洸が、お茶を用意しながらそう問いかける。
「明日はおばあちゃんのとこに顔出してくる」
「ええ、大阪に?」
理乃の母方の祖母は、大阪で一人暮らしをしている。
理乃は長期休暇のたびに、祖母の家を訪ねていた。
「うん。でも夜には戻ってくるよ。洸くんは明日仕事やろ?」
「そうだけど、理乃ちゃん昨日帰国したばかりで疲れてるでしょ。今日は早く寝ようね」
昼間は涼香と遊びにいっていたという理乃を、洸は気遣ったのだった。
「洸くんはそれでええの?」
理乃にいたずらっぽく返されて、洸がガチャンと手元を狂わせる。
「い、いいに決まってるよ。僕も眠たいし」
そんな強がりを口にした。
「それに、これからはずっと……」
最後まで言えずに口ごもる洸に、理乃が後ろから抱きつく。
「私に会えなくて寂しかった?」
「さ、寂しかったよ」
「あはは、耳真っ赤。まだ私に緊張してるん?」
「だって、理乃ちゃんに会うの久しぶりなんだもん」
理乃は抱きつく腕をするりと解いた。
「ごめんね。ずるずると4年も」
渡英した当初は1年だけの予定だったのだけど、気づいたら4年経っていたのだった。
「いいよ。言ったでしょ、理乃ちゃんのやりたいことをしてって」
「うん。ありがと」
お茶を手に、リビングのソファーに2人並んで腰を下ろす。
「理乃ちゃんは、これからどうするの?」
洸は、意を決してそう尋ねた。
理乃に会ったら訊こうと思っていたのだけど、口にするのは少しだけ、勇気が必要だった。
理乃が心変わりしてイギリスに戻ると言い出す可能性も、ゼロではなかった。
「んー。まだ決めてへんねん」
理乃があっけらかんと答える。
「そっか」
理乃は、洸がこっそりとため息をついたのに気づいた。
「あ、知慧が変なことゆうてたけど、ニートになる気はないから安心して?ちゃんとバイトするし」
洸を安心させようと饒舌になる理乃を見て、洸は小さく首を横に振った。
「理乃ちゃんが選ぶ道なら、何でも応援するよ。ただ……」
ゴクリと喉仏を上下させて言葉を続ける。
「重たいって思われても僕は、次は絶対付いていくから」
理乃がイギリス滞在を延期した時も、洸はそうしたかった。
でも、将来のことを考えて、必死に思いとどまったのだった。
「不安にさせてごめんね」
理乃は洸の肩に寄りかかって謝る。
「しばらくは洸くんのそばにいるよ」
「……しばらくは?」
聞き咎める洸に、理乃は小さく笑う。
「洸くんが言ったんやで?」
「ん?」
「私が、どの大学に行くかで人生決まるんやって言ったら、ほんなら大学に入った後は何も決めんで生きていくんかって」
洸は知らない。
自分の言葉が、理乃の人生にどれだけ大きな影響を与えているかを。
「私な、これからもいっぱい考えるわ。やないと、生きててもおもんないやろ?」
理乃はそう言って、洸に笑いかけた。
そんな理乃が眩しくて。
「ほんとに、理乃ちゃんに置いてかれないようにしないとな……」
洸は独り言のようにそう呟いた。
そんな洸の肩に、理乃がさらにもたれかかる。
「私も不安やったよ。洸くんに愛想尽かされてまうんやないかって」
「そんなことあるわけないよ」
「分からんやんか」
洸は返しに困って、目をキョロキョロさせた。
「な。お互い様やねん」
理乃の言葉に、それでも納得しきれずに首を傾げる洸だった。
「それより、洸くんの話も聞かせてよ。システムトラブルが起きたゆうてたんは解決したん?」
理乃は強引に話題を変えて尋ねた。
洸は、大学でプログラミングを学んで、今は保護犬のマッチングプログラムの開発に関わっている。
「うん。ディベロッパーの大規模改修の影響でコードがーー」
自分の仕事について語りだした洸の声に、理乃はうっとりと耳を傾けた。
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