ポメラ・リー・アンダーソン呼ばれてないのにブロマンス小説に緊急参戦

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・仕事にやる気がない天使と悪魔が出会い、互いのノルマ達成のため手を組むことに?  ポメラ・リー・アンダーソンは掛け値なしの美女である。それは彼女の華麗なる男遍歴から明らかだ。実際、彼女の姿を見れば誰もが息を呑む。だが、今夜の彼女はできる限り目立たないようにしていた。汚れた大気から呼吸器を守るフィルター・マスクと目をカバーするゴーグルで顔は見えない。長く美しい黒髪を編んでまとめオレンジ色と真紅のターバンを巻いて隠す。体の線が見えないよう飾り気のない灰色の上っ張りと厚手のズボンを着て濃い青のマントで体を覆う。それだけの防備が効果を示し彼女が広場に現れても誰も気に留めない。彼女が正体を気付かれたら一大事だった。世界各地で色々な悪事に手を染めているので、警察に逮捕されたら死刑あるいは無期懲役が確定であり、恨みを抱く無法者に見つかってしまったら問答無用に殺される身の上なのだ。  大小様々な大きさのサーモンピンクと紫色の四角い石が複雑に組み合わされた広場を渡ったポメラ・リー・アンダーソンは向かいにある円形の建物に入った。そこは千年の昔、暴君ムポルメリラ・ゼルプリウルスが建設した牢獄と闘技場を改装した賭場だった。建設者の名前を冠し今もなおムポルメリラ・ゼルプリウルス博打場と呼ばれているが、往時を懐かしんで命名されたわけではない。好き放題やって民心を失った挙句に革命を起こされ処刑された愚か者の名が向こう見ずなギャンブラーの職場に相応しいというので、百年以上前に婦人団体が市当局へ圧力をかけて命名させたのだ。  地上五階建てで地下三階まであるとされるムポルメリラ・ゼルプリウルス博打場の内部は迷宮のように複雑だ。その中で竹馬競技、電気鰻競走、伝書鳩レースその他のギャンブルがつつがなく行われている。ポメラ・リー・アンダーソンは混雑する人込みをすり抜けながらサイコロ賭博の悲喜劇が繰り広げられている一室を覗いた。そして撞球室に立ち寄り、壁際のバーへ足を向ける。バーテンダーにレモンを大目に絞った黒白カボチャの蒸留酒の水割を頼む。カウンターに出されたグラスにストローが付いていないと文句を言うと、バーテンダーが紙のストローを出してきたのでプラスチック製に交換しろと言う。それはない、もうなくなったとの答えに舌打ちをしつつ、マスクをずらして酒を飲む。レモン汁が足りないと苦情を言いかけたが、不穏な気配を察したバーテンダーが別の客の方へ向かったので空振りに終わった。ストローをかみ砕き、床に吐き出す。酒をグラスから直飲みする。一気に飲み干した。グラスをカウンターに置き、再びマスクをして撞球室を出る。廊下で足を止め、辺りの様子を窺う。それからサイコロ賭博の部屋に入る。  白と黒のサイコロが二つ、緑色の台の上を転がった。台の縁にぶつかって、跳ね返る。黒い方のサイコロは、すぐに止まった。白い点が上を向く。六の目が出た。白い方のサイコロは台の中程まで転がってきて、そこで止まった。上に向いて止まったサイコロの目を台を囲むギャンブラーたちが凝視する。一の目が出た。それを見て喜ぶ者、嘆く者、二つに分かれる。  勝負に敗れ、よろよろと台を離れる二人組の男にポメラ・リー・アンダーソンは近づいた。背後から声を掛け、呼び止める。 「あんたたち、天使と悪魔だね」  急に話しかけられた二人組が顔を引きつらせて振り返った。 「ち、違う」 「そうさ、俺たちは天使でも悪魔でもないよ」  フィルター・マスクの中でポメラ・リー・アンダーソンはニヤッと笑った。 「しらばっくれるのは止しとくれよ。あんたたちのこと、こっちはちゃんとわかってんだからさ」  二人組の男は顔を見合わせた。それから怯えた表情でポメラ・リー・アンダーソンを見た。 「あんた、誰なんだ?」 「どうして俺たちのことを知っているんだ?」  天使と悪魔の二人組を見つめるゴーグルの中の瞳が妖しく煌いた。 「詳しい話は落ち着いた場所で飲みながら。隣のプールバーはダメ。ビリヤードの音がうるさいし、ストローがあれだから」  ムポルメリラ・ゼルプリウルス博打場の地下四階にあるVIP専用フロアに入って初めてポメラ・リー・アンダーソンはフィルター・マスクを外した。その顔を見て天使と悪魔は白目を剥いた。 「あんた、まさか……」 「ポメラ・リー・アンダーソンなのか……」  ポメラ・リー・アンダーソンはフィルター・マスクのために付いた両頬の線を指でなぞり、グスリと笑った。 「自己紹介の手間が省けて良かったわ。おなか空いてんでしょ? ここの食事は美味しいわ。奢ってあげるから、好きなものを頼んで」  天使と悪魔の二人組は唾を飲み込んだ。それから再び顔を見合わせる。確かに彼らは空腹だった。しかし悪名高きポメラ・リー・アンダーソンの奢りというのが怖い。食事を奢る代償として魂でも奪われたら、それはもうたまったものではない。  ちょ、ちょま、ねえ、ちょっと待ってよ! どうして天使と悪魔が二人組になってんの? どうしてギャンブルやって負けてんの? それから天使と悪魔って腹が減る生き物なの? 一体全体、何なのさ、この話! という質問や意見があることが予想される。  答えは、この後すぐ!  VIP専用フロア専任の給仕に案内されポメラ・リー・アンダーソンと天使と悪魔の三人はフロアの奥へ向かった。通された個室は、それほど広くはないが、調度品は贅を尽くしたものばかりだった。天井から垂れ下がるシャンデリアは宝石のように輝き室内を照らした。ぴかぴかに磨かれた大理石のテーブルはシャンデリアの明かりを反射して眩い。その表面に古代の海に生息していた絶滅した動植物の化石が浮かび上がる。その光沢あるテーブルに着いた三人は、高級なシャンパンで乾杯した。  その音頭を取ったポメラ・リー・アンダーソンは、緊張の色を隠しきれない天使と悪魔の二人組に優しく微笑みかけた。 「そんなに心配しないでよ。取って食おうってんじゃないんだから」  給仕たちが料理を運んできた。テーブルの上に置かれた仔牛肉のワイン煮とミディアムのステーキそれにシーザーサラダを天使と悪魔の二人組は物凄い速さで食べ、喉に詰まりそうになると飲み物のビールで胃に落とし込んだ。そんな二人を微笑ましく眺めながら、ポメラ・リー・アンダーソンはブランデー・グラスの酒を飲んでいた。 「お代わりは要るかい?」 「お願いします」 「こっちもお願いします」  いつのまにかポメラ・リー・アンダーソンへの口のきき方が敬語になっていることを天使と悪魔の二人組が気付いたのは、お代わりを平らげデザートのチーズ・ケーキとカスタード・クリームを食べ終わった後だ。彼女は二人のグラスにブランデーを注ぎながらビジネスの話を始めた。 「あたしの指示通りに動いてくれたら、毎日美味しい食事とお酒にありつけるんだけど、あんたたち、どうする?」  顔を見合わせるまでもなかった。こうなることは、ポメラ・リー・アンダーソンに声を掛けられた時から薄々、分かっていた。 「どういう仕事なんです?」 「受けるかどうかは、話を聞いてからでないと、お答えできません」  フフっと笑ってポメラ・リー・アンダーソンは言った。 「あんたたち、仕事の選り好みができるようなご身分なの? 違うでしょ」  痛いところを突かれ、天使と悪魔の二人組は俯いた。ポメラ・リー・アンダーソンの言う通りだったのだ。  天使と悪魔は水と油のように相容れない存在だ。それがコンビを組んでいるのには訳がある。両者が属する天国と地獄における効率化・合理化の動きがコンビ結成のきっかけだった。  天国に属する天使は地上の人々に幸運を与えるのが仕事で、地獄の住人である悪魔は人々に不幸や災難をもたらすのが役割だ。それぞれに課せられたものは別だが、どちらも迅速な結果が求められるようになった。その理由というのは地上の人間がせっかちになったためだった。現代の人間どもはすぐに幸せになりたがる。幸せを配る天使は大忙しだ。望んでいた通りの幸せを得られないと――大満足の結果が得られることは非常にまれだというのに――自分は不幸だと嘆き悲しむものだから、不幸を配達する悪魔もてんてこ舞いの忙しさとなる。天国と地獄、どちらの世界も人手不足で働く人員は常に足りない。今いる者たちで業務をこなさねばならないが、こうなると担当する天使と悪魔の能力によって仕事量に差が出るようになってくる。のんびりしていた時代と比べ、有能な働き者とやる気のない無能で結果に違いがあるのに、同じサラリーなのは納得できない! という下から声が出るし、上の方でも怠け者に同じ給金を支払うのが馬鹿々々しくなる。もっと現実に即した給与体系を! という流れで割を食ったのが、この天使と悪魔だった。  仕事にやる気がない天使と悪魔はお互いの趣味であるギャンブルをするために、このムポルメリラ・ゼルプリウルス博打場を訪れた際に知り合った。普通の人間には見えない頭の天使の輪と悪魔の特徴である頭の角を見て、お互いの正体に気付いたのだ。  商売敵である天使と悪魔は、基本的に仲が悪い。場合によっては相手を見つけ次第すぐさま戦闘開始となるが、このとき二人は博打で勝っていたので喧嘩どころではなかった。二人とも大勝だったので勝負の後、上機嫌で酒を酌み交わすところまで行った。そして、お互いの本業が非常に不味い状態であると愚痴り合った。 「幸福を配った量を毎日報告しないといけないんだけど、それが面倒で」 「こっちは不幸を配って回ってんだけど、報告書を書いて毎日提出しないといけない」 「うちも! あれマジで面倒!」 「疲れて事務所に戻って、それから書くのが本当に嫌!」 「配布量が基準に達していないと、皆が見ている前でつるし上げの説教されんのが辛くて」 「サボっていると言われんのよね。結果を出さないと」 「昔は良かったよ。不便な時代の方が幸せだった」 「本当だよ。技術の進歩は不幸を撒き散らしているよ」  そんなしょうもない愚痴を延々と話しているうちに、良いアイデアが浮かんできた。互いのノルマ達成のため手を組むことを、どちらともなく言い出したのだ。  天国は配布された幸福を、地獄は配布された不幸を計測している。その量に応じて歩合制で給与が支払われるので、幸福を配る天使も不幸を配る悪魔も必死だ。どちらも受け取る人間の心が受領証の代わりとなる感情――幸福感と絶望感――を発信し、それを天国と地獄が受信して、それによって配達員の仕事量が決まる。  二人は、これを悪用することを思い付いた。同じ人間に幸福と不幸を交互に送り付けることでお互いが配らねばならない量を消費し、ノルマを達成しようとしたのである。これなら色々な場所に配達して回る手間が省ける、という考えだった。  最初のうちは、それで良かった。だが、やがてバレた。本来であれば配られるはずの幸福あるいは不幸を受け取れない人間が続出したためだ。その担当者は誰か? となれば、怠慢行為が発覚するのは目に見えている。  天国と地獄でそれぞれ、不祥事をやらかした天使と悪魔の査問と懲罰決定の委員会が開かれた。両者には仲良く無期限の謹慎処分命令が下された。収入ゼロとなった彼らは、二人を結びつけたムポルメリラ・ゼルプリウルス博打場に出向き、運命を一変させる大勝負を挑んだが――こういう状況に陥って勝つ者はまれだということを忘れていたようだ――案の定、負けた。  そして日々の飲食費にも事欠く状況となり、尾羽打ち枯らした有様となったときに、ポメラ・リー・アンダーソンと巡り会ったのだった。  琥珀色の液体が入ったブランデー・グラスを小さく揺らしながらポメラ・リー・アンダーソンは言った。 「あたしとしては、あんたたち二人に是非ともやってもらいたい仕事なんだけど。お願いしても駄目だったら、潔く諦めるわ。さあ、決めてちょうだいな。引き受けると言ってくれたら、どんな仕事なのかお話しするから」  ブランデー・グラスを傾け琥珀色の酒を啜るポメラ・リー・アンダーソンを無言で見つめていた天使と悪魔の二人組は、またも顔を見合わせた。 ・署内で煙たがられるベテラン刑事の新しい相棒は、殉職したかつての相棒の息子で――。  街で一番の高級住宅地で優雅に暮らしている専業主婦ミレイユ・リリー・オーバーレーソンの五歳になる息子デービッドは父親のジョンソンに生き写しだ。似ているのは顔形だけじゃない。性格や態度の悪さもそっくりだ。今日も家で働く使用人たちに悪戯をして困らせている。  その使用人の内の数名がひそかに設置した十数台の隠しカメラに映る画像を通して邸内を監視していたギュブロット・ルトゥールネ刑事は、見慣れぬ若い男の二人組が客間に現れたので、その若者たちに注意を集中させた。二人の青年が麻薬王であるジョンソン・オーバーレーソンの仕事仲間である可能性は否定できない。監視カメラをコントロールするコンピューターにマイクで指示を出す。 「容疑者リストの画像と照合しろ。そこに載っていなければ、次の命令を出す」  コンピューターは作成済みの容疑者リストに保管されている容疑者の外見と一致するものは発見できなかったと報告した。 「警察本部のメインコンピューターに保存されている全犯罪者のデータと照合しろ」  その権限はギュブロット・ルトゥールネ刑事に与えられていないと監視カメラをコントロールするコンピューターが画面に警告文を表示する。  閲覧履歴を自動的に消去する暗号コードを指令する秘密の文章を入力してから警察署長のパスワードを打ち込む。この警察署の署長なら全国からの情報を集積した警察本部のメインコンピューターにアクセスすることを許されているので、それを悪用しているのだ。  保存されている犯罪者全部のデータをチェックしたが符合する人物は見つからず、ギュブロット・ルトゥールネは小さく舌打ちした。そのとき机の電話が鳴った。受話器を取る。 「もしもし」  警察署長の秘書からの電話だった。署長がお呼びですからすぐに来て下さい、とのことだ。  その警察署長のパスワードで勝手に機密情報にアクセスしていたギュブロット・ルトゥールネは内心ドキッとした。いや、いくら何でも発覚するのが早すぎる。と考え直す。監視カメラをコントロールするコンピューターに、麻薬王の邸宅に現れた若い男二人のファイルを作成するように命じて、彼はオフィスを後にした。  署長室の手前に秘書のアイーシャ・キルフェボンのデスクがある。そのデスクの前で立ち止まり、ギュブロット・ルトゥールネは彼女と世間話をした。署内で煙たがられるベテラン刑事の彼にとって、分け隔てなく接してくれる人間は貴重だった。  アイーシャ・キルフェボンは殉職した古株の警官の娘だった。ここに勤めるようになって、日は浅い。だが、その間に父親の不幸に遭ったせいか、もうかなり前からいるような雰囲気を漂わせている。瞳の色は光の具合でブルーと茶色っぽく変化するから、ちょっと変な感じはするけれど、慣れたら気にならない。ブルネットの髪は肩より少し長い程度だ。顔だけ見ていると、子供っぽく思える。しかし体つきはどうしてなかなかのグラマーだ。すらっとした足なんか、見事なものだとギュブロット・ルトゥールネは感心している。自分には、ちょっと若すぎるのが残念なところだ。  受話器に向かってギュブロット・ルトゥールネが来たことを告げ、その受話器を置き、それから死んだ父より少しだけ若いベテラン刑事に「署長が入るようにおっしゃっています」と言ってから、アイーシャ・キルフェボンは小声で付け加えた。 「今日は署長のご機嫌があんまり良くないから、ご注意を」  アイーシャ・キルフェボンに軽く頭を下げてからギュブロット・ルトゥールネは署長室をノックした。中から返事があったので中に入る。  ギュブロット・ルトゥールネが勤務する警察署の署長は、この署で一番の古株だった。叩き上げという点では、このベテラン刑事と似たような経歴だ。しかし片方が署長で片方がヒラの刑事であるというのは揺るぎない事実である。両者の何が違うのか? その一つが、警察上層部との関係性が良好であるという点だろう。彼は言った。 「警察本部長から私的な連絡があった。まだ公式な通達ではないのだがね、我々の署に特殊技能を持つ特別捜査官を配置する案が出ていて、それで私に意見を尋ねたいと申されて」 「我が署に特殊技能を持つ特別捜査官が配置されるのですか! 結構なことですな。捜査のために非常に有効な連中ですから」  特殊技能を持つ特別捜査官とは、簡単に言うと超能力を持つ警察官のことだ。遺留品の残留思念を感じ取る、容疑者の心を読むなど、様々な能力を持つ。特別捜査官と呼ばれるのは、正式な警官ではない場合も含まれるからだ。その才能を生かすため、臨時で雇われる捜査官である例が少なくないのだった。 「それで、それと私に何の関係があるのでしょう?」  ギュブロット・ルトゥールネは警察署長に、そう質問した。 「それがね、その特別捜査官が、君の相棒になりたいと希望していて、それで、君の意思を確認しておきたいと話があって」 「はあ?」  面食らったというのが正直なところだった。ギュブロット・ルトゥールネは長く相棒を持たず一人で行動している。基本はコンビで活動するのだが、署内で煙たがられるベテラン刑事の彼と一緒に動こうとする者は誰もいない。彼自身、相棒は不要だと思っている。捜査に必要なのは人間の相棒よりコンピューターに搭載された高性能な人工知能という気もしていた。 「いえ、自分には相棒なんて要りません」 「そう言うと思った。だがね、この内示は、断れないわけだよ」  その特別捜査官というのは第一種国家上級公務員試験を首席合格した超エリートで、将来的には警察の中枢だけでなく政治の世界への進出も考えられる逸材とのことだった。警察上層部としては、この英才を手元に置いておきたい。しかし、その当人が、警察本部ではなく支部での勤務を希望していた。 「それが、うちの署で、しかも君の新しい相棒になりたいと希望しているのだ。それを私が、断れるか? 断れると思うか?」 「無理でしょうな」  そう答えてからギュブロット・ルトゥールネは言った。 「ですが、私なら断れますよ。相棒なんか要らない。そもそも、新米の警官を付けられたって迷惑だ。教育係は私に似合わない、どこか別のところへ行け! とね」  警察署長は不機嫌な顔で言った。 「お前の相棒になったら大変だということは伝えた。それでも構わないと向こうは言っているそうだ。何を考えているのか……と思ったら、本部長が教えてくれたよ」 「何をです?」 「その特別捜査官の父親は、うちで働いていた男だった」 「そんな奴は大勢いますよ。父親は誰なんです?」  自分の娘を孕ませた男の名を聞いているみたいだな、とギュブロット・ルトゥールネは思った。警察署長は、ある男の名前を告げた。 「覚えているだろう? その男の名を」  忘れるわけがない、とギュブロット・ルトゥールネは思う。  その名は殉職したかつての相棒のものだった。 ・現在売り出し中のイケメン探偵。その正体は、助手である青年に仕える式神で!?  でっぷりと太った男は金色の口ひげを神経質そうな手つきで何度か撫でてから、マホガニーのテーブルに広げた地図を指差した。 「この地図は一昔前の海賊が作成したものだ。今とは地勢が変わっている。だが、これ以外に、あの辺りの地図は見つからない」  現在売り出し中のイケメン探偵は小さく頷き、その地図を見つめた。その隣に座っていた助手の青年が立ち上がり、一緒に眺める。  地図に描かれているのは、街の郊外にある広大な沼沢地だった。荒れた海に近いエリアで開発が進んでおらず住む人はまれである。  なるほど、麻薬の精製工場にはぴったりの場所だ、と探偵助手の青年は思った。  麻薬王のジョンソン・オーバーレーソンは薄くなった金色の髪を指で抑えてから、その指で地図上の一点を示して言った。 「施設の場所は記されていないが、この辺りだと思う」  イケメン探偵は麻薬王が指差した場所を見て言った。 「奇怪な現象が起きたのは、この周辺なのですね」  麻薬王は頷いた。イケメン探偵がさらに尋ねる。 「地図上では何もありませんが、この周囲に何かありますか?」 「泥と草と水と木があるだけだ」  怪しい光、異臭、謎めいた音――その中には不気味な声もある――が続き、麻薬の精製工場に勤める者たちが不安に陥っているので、調査して欲しい。それが麻薬王のジョンソン・オーバーレーソンからの依頼だった。彼は言う。 「最初に聞いた時、敵対する麻薬組織の仕業かと思った。だが、奴らは、そんなまどろっこしいことはしない。銃撃するか爆弾を放り込むか、そんなところだ。だが、これは力技で攻めてくる相手じゃない」  イケメン探偵は椅子に座った。探偵助手の青年は、まだ立ったまま地図を眺めていた。彼は麻薬王に訊ねた。 「警察とか、他の司法当局の捜査の可能性はありませんか?」  麻薬王ジョンソン・オーバーレーソンは首を横に振った。 「念のために監視カメラを仕掛けた。人がいたら感知して撮影する。だが、何も引っ掛からない。敵対する麻薬組織でも警察の人間でもないよ」  探偵助手の青年も、何も分からないといった風情で首を振り、腰を下ろした。その隣に座るイケメン探偵が訊ねる。 「工場に勤める皆さんは、この近くに住んでいるのですか?」 「ああ、宿舎を用意している。そこにいっぱい住まわせていたんだ。だが、今は人が少なくなった。皆すっかり怖がって、辞める人間が多くて困っている」  それで麻薬の工場が稼働できなくなるのなら、それに越したことはない、と探偵助手の青年は思った。しかし、口に出しはしない。 「どうだろう? 調査を引き受けてもらって構わないかね?」  麻薬王ジョンソン・オーバーレーソンの質問にイケメン探偵は頷いて答えた。 「お引き受けしましょう」  それを聞いて麻薬王ジョンソン・オーバーレーソンの顔がほころんだ。 「それでは、報酬は先ほどの通りで」  麻薬王は用意していた小切手をテーブルに置いた。探偵助手の青年が出された小切手を受け取る。  イケメン探偵と助手の青年が帰り際に、麻薬王ジョンソン・オーバーレーソンは言った。 「この件は、くれぐれも内密に」  言われるまでもない、と探偵助手の青年は思った。  麻薬王ジョンソン・オーバーレーソンの豪華な邸宅の玄関前に駐車した車にイケメン探偵と助手の青年が乗り込もうとすると、小さな男の子がどこからともなく現れ、話しかけてきた。 「お兄ちゃんたち、パパのお客さんだよね? もう帰るの?」  助手席のドアを開けるところだったイケメン探偵は男の子に答えた。 「そうだよ。それじゃ、さようなら」  運転席に向かうところだった助手の青年が言う。 「車を出すところなので、近くに寄らないでね」  その注意を聞いているのかいないのか、男の子は車の回りをぴょんぴょん飛び跳ねながら言った。 「立派な車だねえ! でも、パパもいっぱい立派な車を持っているんだよ! 凄く速いスポーツカーもあるよ!」  ガレージの中は高級車でいっぱいなのだろう、と探偵助手の青年は思った。悪い奴ほど金持ちになる。それは困ったことだが、今はその息子が邪魔で車を出せないことの方が問題だ。  まもなく屋敷の中から若い女が現れた。彼女は小さな男の子に言った。 「デービッド、どこへ行ってたの。おうちに入りなさい」  デービッドと呼ばれた男の子は若い女に悪態をついた。 「やだ、べろべろば~!」  そのまま駆け出そうとするのを探偵助手の青年が襟首を抑えて捕まえる。 「さ、良い子だから大人しくしてね」  そして、じたばたする男の子を若い女に手渡す。 「車を発進させる間、手を離さないで下さい。巻き込み事故が怖いですから」  相手の女は男の子を両手で抱きかかえている間に、探偵助手の青年は車を発進させた。 「あの子が依頼主の五歳になる息子だね」  探偵助手の青年がそう言うと、イケメン探偵が同意の印に片手を軽く挙げた。 「そうだね。そして、家から出てきたのが母親のミレイユ・リリー・オーバーレーソンだ」  それからイケメン探偵は付け加えた。 「でも、実の息子ではないようだ。本当の母親は別にいるらしい」 「義理の息子ってことか」  麻薬王ジョンソン・オーバーレーソンの屋敷を出て、まもなくすると分かれ道に出た。片方は街の中心部へ、もう一方は郊外へ通じている。郊外への道を行くと、問題の沼沢地へ出る。  探偵助手の青年がハンドルを沼沢地への方向に切ると、イケメン探偵はそれを制した。 「街へ戻ろう」  探偵助手の青年はハンドルを逆に回しながら訊ねる。 「現地調査の前に何かやることがあるのかい?」 「いや、現地調査は式神たちにやらせる」  イケメン探偵の返答を聞いて、探偵助手の青年は思った。自分も式神のくせに、と。  二人は探偵事務所兼住居に到着した。現在売り出し中のイケメン探偵は事務所に戻ると早速、式神の起動を始めた。異次元にいる仲間を召喚する儀式は五分も掛からずに終わった。人間がやるより迅速である。  その間、探偵助手はサンドイッチを作っていた。イケメン探偵が執り行っていた儀式が終わっても、こちらの軽食作りは終わっていなかった。手際が悪いのだ。  昔なら、式神にやらせていたのに……と探偵助手の青年は腹の中で嘆いた。  この式神というのがイケメン探偵である。その正体が、助手である青年に仕える式神なのであった。 「できたよ」  ようやく完成したサンドイッチを応接用のテーブルに出す。  青年に仕えている立場のイケメン探偵は、主人が作ったサンドイッチを頬張った。目を輝かせて彼は言った。 「美味しい。腕が上がったな」 「そりゃどうも」  褒められて少しだけ嬉しくなる。ただし、顔には出さない。  その心をイケメン探偵は読み取った。 「褒められた時は素直に喜んだ方がお互いにとって幸せだぞ」 「次からそうするよ」  食べ終わるとイケメン探偵は、テーブルの上に水晶玉を置いた。先程、彼が現次元に召喚した式神たちが捉えた映像が、クリスタルの中に映るのである。 「見えてきたぞ」  イケメン探偵の言う通り、水晶玉の内部に映像が現れた。そこに見えたのは、問題が発生している沼沢地だった。深い沼と湿地が続いている。麻薬王ジョンソン・オーバーレーソンが所有する秘密の麻薬精製工場――当局には別人の名義で、農薬工場の名称で登録している――に通じる一本道を除けば人が入り込むルートはない。沼地や湿地帯を歩くのは自殺行為だった。底なし沼が点在しており、そこに落ちたら這い上がれないのである。  沼地と湿地帯以外にも陸地はあるにはある。ただし、そこには不気味にねじ曲がった樹木が密生している。足元には根が絡み合っていた。奇怪な菌類が泥だらけの湿原に怪しい姿をさらしており、それを踏みつけて進むと恐ろしい病に感染しそうでもあった。 「こんなところに工場を作ろうなんて、よく考えたものだ」  探偵助手の青年は感想を述べた。イケメン探偵は言った。 「こんなところだからこそ、だよ。人は絶対に入って来ないからね」  ほぼ人跡未踏の土地だが、文明の痕跡もある。苔むした石の堆積物や崩れかけた石垣が、それだ。何者か不明だが、ここに集落があったのだろう。  そんな推測をした探偵助手の青年にイケメン探偵は言った。 「それが人とは限らないけれどね」  やがて麻薬精製工場らしき建物と、粗末な小屋が見えてきた。それを見て、探偵助手の青年が言った。 「麻薬王が言っていた宿舎って、あれかな」 「怪奇現象がなくても逃げ出す人が多そうだな」  怪奇現象を起こしている存在が何なのか不明だが、正体が式神の奴に言われたくないだろう、と探偵助手の青年は思った。  麻薬精製工場と宿舎の周囲を式神は調べて回った。足跡などの人がいた痕跡は見つからない。 「中を調べよう」  イケメン探偵の指示に従い、式神は建物の内部に入って見回った。麻薬精製工場の中には化学プラントのような立派な設備があった。宿舎の中には汚いベッドが並んでいるだけだった。 「これは逃げるよね」  探偵助手の青年の呟きにイケメン探偵は同意した。 「犯罪者とか誰かから恨まれている奴とか借金取りに追われて逃亡中の人間とかを集めているのかもしれない」  そんな連中が不安と疲労を全身に滲ませて作業に従事していた。異次元の生物である式神は人間の眼には見えないが、その気配を察している労働者が少なからずいて、式神がいる辺りを凝視し、恐怖に体をすくませていた。 「これで辞める人間が増えるな」  原因を作っている式神の一種であるイケメン探偵は他人事のように呟いた。その式神の主人なのに、探偵稼業では助手の扱いである青年が、もう一度この付近を回って調べることを主張した。 「もう少し念入りに見て回ろう」 「いや、こんなもんでいいんじゃないかな」  そう言うイケメン探偵に対し、助手の青年は自説を繰り返し述べた。 「ちゃんと見て回れば、何か発見があるかもしれない」 「ちゃんと見たよ」 「嘘だ、途中でボケっとしていた。少し寝てたろ」  このイケメン探偵は、たまに集中力が切れるときがある。今回はサンドイッチを食べて満腹になり、眠くなっていたのだった。それを指摘されたものだから、多少は決まり悪そうな表情で言った。 「それじゃ、もう一回だけ。念のために感度を上げてみる。これで駄目なら、この調査は終了ってことで」  探偵助手の青年は顎を撫でた。 「こんなんで、麻薬王は満足するかな。報酬を返せとか言わないよな」  それはイケメン探偵にも分からない。 「まあ、それは見てのお楽しみってことで……ふうむ、そうか、確かに霊的な存在がいたようだ」  感覚器官の感度を上げた式神は、周囲に残留するスピリチュアルな何者かの残留思念を捉えた。イケメン探偵の眠気は完全に吹き飛んだようだ。目をキラキラと輝かせて、彼は言った。 「これは……珍しいな。天使と悪魔が一組になって行動している」 「天使と悪魔? そんな天敵同士が、こんなところでコンビを組んで、何をやっているんだろう?」  探偵助手の青年は両腕を組んで首をひねった。どう考えても意味が分からない。  その頃、天使と悪魔のコンビはムポルメリラ・ゼルプリウルス博打場の中にいた。今日は竹馬競技で遊んでいる。この競技は竹馬に乗った騎手に金を賭けるギャンブルだ。幾つかの種目がある。短距離走、長距離走、障害物レースといった競走系の種目と、バトル系に大きく種目が分かれているのだ。本日はバトル系の種目の日だった。一対一で戦う個人戦、集団で戦う団体戦、複数の競技者が同時に戦い一人の勝者を決めるバトルロイヤルなどがあり、天使と悪魔は競技開始から各種目に賭け続けたのだが、とうとう一つも勝てずにオケラとなった。  ムポルメリラ・ゼルプリウルス博打場の隅にあるベンチに腰掛け、天使と悪魔は肩を落とした。 「貰った金、なくなったね」 「全部すっちまったなあ」  彼らが言っている貰った金というのはポメラ・リー・アンダーソンから仕事の報酬として前払いで受け取った金のことだ。その仕事というのが、麻薬王ジョンソン・オーバーレーソンが沼沢地の中に造った麻薬精製工場の周囲で怪奇現象を引き起こし、その工場の従業員たちを怯えさせて、そこから一人残らず退去させることだった。  怪しい光、異臭、謎めいた音、不気味な声を出して麻薬精製工場の従業員を怯えさせることに、天使と悪魔は成功した。しかし全員を退去させるには至っていない。もっと怯えさせ、全員を沼沢地から追い払わないといけないのだ。  そうしないと、前払いされた報酬をポメラ・リー・アンダーソンに返さなければならなくなるかもしれない。金を返せと言われても、今さっき消えた。 「どうする?」 「面倒だけど、また行って驚かすしかないかなあ」  やがて二人は、悪知恵を働かせた。 「このまま逃げたらどうだろう?」 「見つからなきゃいいんだからな」 「どこかに隠れて、ほとぼりを冷まそう」 「そうだな。ポメラ・リー・アンダーソンでも、見つけられないところに」 「あたしがどうしたってのさ?」  目の前にフィルター・マスクを装着したポメラ・リー・アンダーソンが現れたので、天使と悪魔はびっくり仰天した。 「あんたたちさ、博打をやるのは別に構わないんだけどね」  ゴーグルの中のポメラ・リー・アンダーソンの眼がギラリと光った。 「あたしが頼んだ仕事、どうなってんのよ?」  天使と悪魔のコンビはしどろもどろな口調で答えた。 「あの、あの、今、やってます」 「じゅ、順調にやってますです、はい」 「従業員を一人残らず退去させなさいって、あたし言ったわよね」 「それはもう」 「確かに、そうおっしゃってました」 「じゃ、早くやって」 「合点」 「承知」  天使と悪魔の二人組はベンチから立ち上がった。急いで立ち去ろうとするが、ポメラ・リー・アンダーソンに呼び止められる。 「二人とも、お待ち」  急停止して振り返った天使と悪魔にポメラ・リー・アンダーソンは言った。 「ちょっと気になることがあるから、伝えておくわ」  直立不動の天使と悪魔にポメラ・リー・アンダーソンが説明する。 「色々と探りを入れている奴らがいるから、そいつらに気取られないよう、細心の注意を払ってちょうだい」 「そりゃもう、絶対に大丈夫っす」 「了解っす! ご安心を!」  その頃、警察署の会議室では、署内で煙たがられるベテラン刑事ギュブロット・ルトゥールネと、彼の新しい相棒の顔合わせが行われる……予定だったが、その相棒が現れない。待ちぼうけを食らったのは彼だけでなく警察署長もだった。警察署長の方は、どうしても出なければならないオンライン会議があり、早々に自分の執務室へ引き上げたのだが、彼はそうする用がない。しばらく待ったが現れないので、ブチ切れて会議室を出る。一人、廊下を歩きつつ、小言を言う。 「転任初日に遅刻とは、どういう人間だ。最近の若い奴らは礼儀を知らないが、その中でも最低最悪の人間だ。それは間違いない」  その他にもブツブツ文句を言っているギュブロット・ルトゥールネの耳に、明るく弾んだ女の笑い声が聞こえてきた。聞き覚えがある。警察署長の秘書アイーシャ・キルフェボンの笑い声だった。彼女の声が聞こえてきたのは、廊下の前方にある給湯室からだ。  廊下の壁の陰でギュブロット・ルトゥールネは立ち止まり、給湯室の中の様子を窺った。アイーシャ・キルフェボンの楽しそうな声が聞こえてくる。 「ティンパレイさんって、本当に面白い方ですね」 「よく言われます」 「私、こんな面白い人だなんて、思っていませんでした」 「変わり者のだけですよ」 「そんな、そんなことありません! 変わり者なんて、そんなこと、私……あの、もしも気を悪くなさったのなら、謝ります。本当にごめんなさい」 「いえいえ、こちらこそ、変なことを言ってしまって、申し訳ございませんでした」  アイーシャ・キルフェボンは心底から悔やんでいるような、悲し気な声で言った。 「第一種国家上級公務員試験を首席合格した超エリートの特別捜査官に、私ったら本当に失礼なことを言ってしまって……本当に、心からお詫び申し上げますわ」 「そんな、そんなことありませんって! こちらこそ、本当に申し訳ないです。あなたのお仕事の邪魔をしてしまって……あ、こんな時間になってる!」  そう言う男の声が聞こえると同時に、ギュブロット・ルトゥールネは給湯室へ入った。 「お邪魔かな?」  急に現れたギュブロット・ルトゥールネに、アイーシャ・キルフェボンは可哀想なくらい小さくなった。 「ごめんなさい。あの、私」 「すみません。悪いのは僕です。アイーシャさんのお仕事の邪魔をしてしまったのです。突然お話しして、ご迷惑だったと思います。会議室の場所が分からなくなって、アイーシャさんに場所をお尋ねして、それで」 「それで、お話ししているうちに、時間が経って」  そう説明するアイーシャ・キルフェボンの肩をポンと叩く。 「仕事に戻れ」  怯えた表情で立ち去りかけたアイーシャ・キルフェボンだったが、後ろの様子が気になるようで振り返った。そんな彼女を元気づけるように、第一種国家上級公務員試験を首席合格した超エリートの特別捜査官は爽やかな笑顔を浮かべて見せた。それからギュブロット・ルトゥールネに敬礼する。 「申し遅れました。本日をもって着任致しましたヒミロゴー・ティンパレイです。ギュブロット・ルトゥールネさんですね。どうぞよろしくお願い致します」  そう言ってヒミロゴー・ティンパレイは右手を差し出した。ギュブロット・ルトゥールネは握手しなかった。 「遅刻の理由を訊こうか」  ヒミロゴー・ティンパレイは引っ込めた右手をジャケットの内ポケットに入れた。 「調べ物をしておりました。これです」  内ポケットから取り出した数枚の紙をヒミロゴー・ティンパレイは差し出した。ギュブロット・ルトゥールネは見向きもしなかった。 「人に見せる前に説明しろ」 「これは失礼しました」  ヒミロゴー・ティンパレイは紙を指で示しながら説明した。 「これは、この街の郊外にある大湿地帯にある土地と建物に関する書類のコピーです。中央登記所と公文書保管局に所蔵されていた書類を複写しました」  ギュブロット・ルトゥールネはチラリと書類を見た。 「それで?」 「これらの土地と建物の所有者は、実業家のジョンソン・オーバーレーソン。麻薬王と囁かれている人物です」  ジョンソン・オーバーレーソンは、ギュブロット・ルトゥールネ刑事が捜査を担当している容疑者だった。  ギュブロット・ルトゥールネ刑事は、新任のヒミロゴー・ティンパレイ刑事に言った。 「その書類を見せろ」  差し出された書類を受け取ったギュブロット・ルトゥールネは、それにざっと目を通してから言った。 「名義は違うぞ」 「その名義はダミーです。実際の所有者はジョンソン・オーバーレーソンでした」  ギュブロット・ルトゥールネは、書類を最初から丹念に読み直した。 「農薬の製造工場とあるが」 「実際は麻薬の製造工場でしょう」  ヒミロゴー・ティンパレイは断言した。ギュブロット・ルトゥールネも同意見だったが、同意するのは避けた。そんなベテラン刑事に新入り刑事は新しい紙を見せた。 「現地の地図です。軍の偵察衛星が撮影した写真から作成しました。」  ギュブロット・ルトゥールネはヒミロゴー・ティンパレイお手製の地図を手に取って眺めた。この街に住むようになって長いが、街の郊外に広がる大湿地帯に足を踏み入れたことがない。この地方に蔓延する性質の良くない風土病は、この大湿地帯に由来するとの噂があり、行く気になれないのだ。  しかし捜査のためとあれば別だ。 「ところで、この地図、正確なのか? あそこにも道路らしきものはあるが、とんでもない悪路だぞ。それに、あそこは底なし沼だらけだから、道を間違って湿地に落ちたら這い上がれないかもしれないぞ」  不安そうな顔でそう言うギュブロット・ルトゥールネに対し、ヒミロゴー・ティンパレイは二台の車で行くことを提案した。 「先頭の一台が落ちたら、二台目に引っ張り上げてもらいましょう。もちろん、僕が先に行きます。この地図を作ったのは、僕ですから」  一瞬、そうしようかとギュブロット・ルトゥールネは思った。それから腹の底で自分の臆病さを呪い、彼は言った。 「一緒に行こう。話をしておかなきゃならないことがいっぱいあることだし……運転は、お前に任せるよ」  ギュブロット・ルトゥールネとヒミロゴー・ティンパレイが同じ覆面パトカーに乗って警察署を出発した頃、現在売り出し中のイケメン探偵、実は助手である青年に仕える式神と、その式神の主人である探偵助手の青年は、天敵同士であるはずの天使と悪魔がバディとなって行動している理由について推論を話し合っていた。しかし、何がどうしてコンビで活動しているのか、その原因が分からない。 「漫才をするから……ではないよなあ」  そう呟いた探偵助手に、その使い魔であるイケメン探偵の式神がツッコむ。 「そんなわけないやろ! いいかげんにしな~さい!」  そう言ってから恥ずかしくなったようで、イケメン探偵の式神は顔を赤らめた。 「むう、キャラに合わないことをしたら、良い考えが浮かんだ」 「なんじゃそれは?」 「どうして天使と悪魔が一緒に行動しているのか、天使と悪魔に尋ねたらいいんだよ」 「どうやって?」 「実際に、天国と地獄へ行って、天使と悪魔に事情を聴いてみるのが一番手っ取り早いだろうね」 「天国と地獄へ、どうやって行くんだよ?」  怪訝な顔をする探偵助手の青年に、イケメン探偵の式神は言った。 「これは、ご主人様のお力が必要です」 「どうして急に敬語になるんだよ! なんか怪しいぞ!」 「いえ、別に怪しいことではありませんので。天国と地獄へ行くには、私の力だけでは足りません。ご主人様の優れた霊力が必要なのです」  自らの使い魔であるイケメン探偵の式神の言葉を聞き、探偵助手の青年は「う~ん」と唸り考え込んだ。確かに、天国と地獄に行くためには、イケメン探偵の式神の持っている霊能力だけでは不足かもしれない。そのためには、その主人である探偵助手の青年の持つ霊能力が必要だろう。しかし、自分も力を出さねばならないというのは正直、面倒だった。面倒臭いことは大嫌いなのだ。そもそも、自分の使い魔である式神をイケメン探偵にして、自分はその助手になるというアイデアも、面倒なことを避けたい彼の発案だった。探偵の助手として、謎解きの場面で「まさか!」とか「信じられない!」とか「そうだったんだ!」とか言っていれば他に何もしなくていいから楽できる、というだけで探偵事務所をオープンさせたのである。そんな人間が、天国と地獄へ行くためにスピリチュアルなパワーを振り絞る気になれるかというと、なれない。 「面倒臭いんですけど」  協力を渋る主人をイケメン探偵が説得する。 「天国と地獄へ行って、天使と悪魔とコネクションを持つことは、探偵稼業を成功に導くために重要だと思います」 「そうやろか?」 「もちろんです。天使と悪魔が共同作業を行っているとしたら、これは異常事態ですから、もしかすると天国と悪魔の首脳から、それに関する調査の依頼が来るかもしれません」  探偵助手の青年はごくりと唾を飲んだ。 「天国と悪魔の首脳って、その業界の大物ってことか? それって、何だか凄くね?」 「そんな探偵は、いないでしょうね」  神妙な顔で頷くイケメン探偵の式神に、一瞬、心が揺れ動いた探偵助手の青年だったが、やはり、それだけでは物足りないと見えて、動こうとしない。 「それなら、こういうのはどうでしょう? 天国と悪魔の首脳から力を借りて、地上にご主人様の王国を建国する……というのは」  恐ろしいことを言う、と探偵助手の青年は驚き呆れた。だが、式神には良心も悪徳もない。ただ、主人の良いように動く。それだけが、この別次元から来た人ならざる存在の本性なのである。 「待て待て、王国なんて面倒なものは要らない。普通に贅沢ができればいいよ」 「それでしたら、例の麻薬王の麻薬製造工場とやらを乗っ取ってしまうというのはいかがです?」 「ふむ?」 「あの工場で精製される麻薬は世に災厄をもたらす邪悪な物質です。そんなものはなくならないといけません。その代わりに、麻薬ではない善なる薬剤を創り上げましょう。それを売りさばき、儲けるのです」 「善なる薬剤」 「はい、それでしたら、あの工場で働いている従業員も、善なる心で仕事ができるでしょうから、今より満ち足りた毎日を送れると思います」  それよりは給料を上げるとか、あるいはボロボロの小屋を立派な宿舎に建て直して住まわせる方が、従業員の福利厚生につながりそうだが、イケメン探偵の式神も探偵助手である青年も、そんなことを少しも思い付かなかった。 「工場の管理、お前がやってくれる?」 「私も忙しいですから別の式神を召喚してやらせるのが吉だと思います」  話は決まった。  その頃、ポメラ・リー・アンダーソンにどやされてムポルメリラ・ゼルプリウルス博打場を飛び出した天使と悪魔が、方針を決めかねて悩んでいた。麻薬王ジョンソン・オーバーレーソンが密かに所有している麻薬精製工場へ行って、そこで働く従業員を驚かす。そのつもりでムポルメリラ・ゼルプリウルス博打場を出たまでは良かったが、ポメラ・リー・アンダーソンの命令に従っていることが、だんだん怖くなってきたのである。 「あの女の言いつけに従って動いていることが、俺たちのボスに知られたら、俺たちどうなるかな」 「天国と地獄、どちらにも戻れなくなる恐れがあるよな」  天使と悪魔の二人は、肩をすくませて溜め息を吐いた。  それほどまでに天使と悪魔を怯えさせるポメラ・リー・アンダーソンとは一体、何者か?  その正体は、この天使と悪魔のどちらも知らない。天国と地獄にいる天使と悪魔のすべてが、ポメラ・リー・アンダーソンの正体を知らないのではあるまいか? 彼女は、この宇宙が創造された直後もしくは宇宙創世以前から存在していた、と考えられる古い<何か>である。多くの学者は彼女の正体を突きとめようとしたが結局、今に至るまで謎は解明されていない。宇宙の癌だとか、ありとあらゆる快楽の根源だとか、もっともらしい説明はされているけれど、何も分かっていないのだ。何だか知らないけれど、途轍もなく邪悪な<何か>それがポメラ・リー・アンダーソンという物体なのである。  そんなのとかかわりを持ったことが天国と地獄の支配者たちに知られてしまったら、自分たちはどうなるのか?  天使と悪魔の、どちらともなく言った。 「ポメラ・リー・アンダーソンのことを、ボスに話してみようや」 「そうだな、今までのことを正直に話して、許してもらった方がいいんじゃないかな?」  要するに、この天使と悪魔は、ポメラ・リー・アンダーソンが怖くなり、彼女から請け負った仕事を投げ出して、それぞれの故郷である天国と地獄へ逃げ帰ろうとしているのだった。  そんな相談をしている最中に、天使と悪魔の二人組は、この裏切りをポメラ・リー・アンダーソンが知ったとしたらどうするか、ということに思い至った。信じられないほど残虐な報復が自分たちを待ち受けているのかもしれない……そう考えると、彼らの決意は、また鈍るのであった。  その一方で、決意が鈍ることはなかったと語る者がいる。ヒミロゴー・ティンパレイ刑事だ。ステアリングを固く握りしめて、彼は言った。 「僕の決意は固かったです。首都警察本部長や警察庁長官から、ずいぶん慰留されましたけどね。地方へ行くのは普通の警察キャリア官僚だ、君は違うと言われて。でも、僕の生まれた、この街で、どうしても勤務したかったんです」  助手席に座るベテラン刑事のギュブロット・ルトゥールネが叫ぶ。 「なんだって! よく聞こえないぞ!」  ヒミロゴー・ティンパレイ刑事は隣の中年男に言った。 「ですから、僕は、どれだけ説得されても、決心が揺るがなかったんです。警察庁長官や首都警察の本部長から、何度も説得されたんですけどね」  そのとき、二人が乗る覆面パトカーが大きくバウンドした。助手席のギュブロット・ルトゥールネは頭を車の天井にぶつけた。 「痛い!」 「大丈夫ですか!」  心配そうに尋ねるヒミロゴー・ティンパレイにギュブロット・ルトゥールネが怒鳴る。 「スピードを緩めろ! 道が悪いんだから飛ばすな!」  ヒミロゴー・ティンパレイの運転は荒かった。悪路を猛スピードで突っ走るものだから、同乗するギュブロット・ルトゥールネは生きた心地がしない。 「でも、僕、速いペースの方が安全運転なんですよ。これでも警察官ですから、速度違反は駄目だと分かっているんですけどね」  道が悪いので車はガタガタと激しく揺れている。自分たちがいるのは、その車内であることを分かっていない様子で、ヒミロゴー・ティンパレイは穏やかな口調で話している。それとは正反対なのがギュブロット・ルトゥールネだ。怒鳴りっぱなしである。今もだ。前方の危険に気付き、叫ぶ。 「おい、段差があるぞ! 速度を落とせ!」  ヒミロゴー・ティンパレイはブレーキを踏んだが、それはギュブロット・ルトゥールネが期待していたほどではなかった。段差を乗り越えたとき、車が再び大きくバウンドした。  今度は天井を手で押さえ、ギュブロット・ルトゥールネは自分の頭を守った。ヒミロゴー・ティンパレイはアクセルを踏んだ。未舗装の悪路をぶっ飛ばしつつ、彼は言った。 「さっきの話ですけど、僕がこの街を勤務地にしたかったのは、理由があるんですよ。生まれ故郷だからというだけではないんです」  車が加速したおかげで、さらに車内がガタガタとうるさくなった。ヒミロゴー・ティンパレイが何を言っているのか聞き取れず、ギュブロット・ルトゥールネはまたも怒鳴って尋ねる。 「なに言ってんだよ? よく聞こえんぞ!」 「ですから、僕が、この街を訪れたのは、理由があるんです!」 「それさっき聞いたぞ!」 「まだ言ってません!」 「理由がどうたらこうたらって話だろ?」 「そうです! ですから、僕が、この街での勤務を希望したのは、この街が僕の生まれ故郷だからってだけじゃなくて、父さんが殉職した場所だからなんです」 「はああ? うるさくて聞こえないって! 何だってんだよ!」 「僕の父さんは、この街で死んだ。警察官だった父さんは、ここで殉職した。そんなこの街で、僕は警察官としての人生をスタートさせたい。そう思ったんです」  ギュブロット・ルトゥールネは自分の息子のような年齢の相棒に言った。 「おい、そろそろ二万字を越えるから、もう止めよう」
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