2.緊急事態宣言と解除

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2.緊急事態宣言と解除

 ここから2020年に戻る。日本で新型コロナの問題がクローズアップされた年だ。  その頃、私は居酒屋を経営していた。その問題が世界的に広がっていく中、日本でも社会的には大きな混乱を迎えていた。特に飲食業にとっては受難の時期で、ニュースでは暗い話ばかりだった。  感染防止を念頭に4月7日、7都府県に初めての緊急事態宣言が発出された。それでも感染拡大は収まらず宣言の対象地域が拡大した。  その関係で社会活動は著しく制限され、私たち飲食業界は大変な打撃を受けた。テレビのインタビューに答える同業者の声は私たちの気持ちそのものだ。というより、もっと言いたいと思っている。そういうことで悶々とする日が続いていた。  でも、私たちも生きていかなければならない。家族も従業員もいる。何とか危機を乗り切ってみんなを守っていかなければ、という思いが強くなっていた。  だからそういう時、少しでも売り上げを上げようとランチタイムもスタートした。他店も似たようなことをやっていたが、夜が駄目なら昼に活路を開こうというのはこの業界の共通のアイデアだった。  味については自信があったが、これまでやっていなかった時間帯での営業については手探りだった。メニュー一つとってもみんなでミーティングをし、決めていった。  そういうことは気持ちの一体感に通じるし、頑張ろうという意識にも通じる。  そういう日が続いていた時、私たちの関心は何時コロナ騒動が落ち着き、これまでの日常が戻ってくるのだろうか、緊急事態宣言が解除されるのだろうか、といったことだけだった。      ◇  だが5月4日、私は耳を疑った。テレビの報道で緊急事態宣言についてのニュースを聞いたのだ。本来なら6日に解除されるはずだった緊急事態宣言が月末まで延長されるという。未知のウイルスに対してしっかり対応するためとは理解しているつもりだが、食べていくための仕事も大切だ。このままではコロナではなく、社会に殺されるのでは、という思いも出てきた。  この日の朝、私と美津子はリビングでいつものようにワイドショーを見ていた。数日前から宣言についての報道をやっていたが、その時点では検討中ということで、明確な決定ではない。だから、解除されることも含めて期待していたのだが、ここ数日の数字はGW期間中のものであり、どうしても低い傾向がある。それでも3日の数字は145名だ。初めてのことであり、この数字をどう判断するかは専門家ではない私には分からない。  最近、夜の営業が短くなっているため、家にいる時間が増えている。でも、ランチタイムの準備があるため、家を出る時間は早い。ただ、テレワークが増えているため、せっかく準備していても来店は少ない。少しでも売り上げを上げようと思ってスタートしたのだが、結果的に手間だけが増え、採算がとれない日もある。 そのため、1号店も2号店も私と美津子、そしてチーフだけでランチを回し、夜の部にアルバイトを1人増やすといった状態が続いている。せっかく雇用を守るためにランチ企画を考え、スタートしたばかりなのに、といった思いだけが私たちの胸に去来する。  そういうことも関係するのだろうか、この朝のひとときは2人でお茶、あるいはコーヒーを飲みながら、何となくといった感じの時間を過ごしている。解除の時を待ち、その後のことを期待しながら気持ちを持続してきたつもりだ。  その中での宣言延長の話は私たちの心に重くのしかかった。2人とも飲み物を力なくテーブルに置き、お互いに目を合わせた。 「最近のニュースで見ていた数字、なかなか減っていないから仕方ないのかな」  私は張りのない声で美津子に言った。  美津子も力なく頷いている。  これは私たちの店だけでなく、他も同じだから仕方ない、という思いはあるのだが、現実を考えると気持ちは重くなる。 「結局、4月はどうだった?」 「分かっていると思うけれど、家賃や材料費、人件費を払ったら私たちの給料はないわ。経費を払えるくらいにはなったけど、これが続けばやっていけない。早くコロナが終息し、いつもの日常が戻ることを祈るしかないわね。ある程度落ち着いたら、またみんなと話すことも必要かもしれないかな」  具体的な数字は聞かなかったが、美津子の口調から厳しさは伝わってきた。  もっとも、国や自治体にしても、感染防止に協力したところに対しては補償が出るということになっている。私たちもそれを効果的に活用できればとは思っているが、実際にどれくらい、そしていつ支払われるのかは不明だ。おそらくたくさんの申請があると思われるが、時間を要することは分かっている。額面として協力金という名分けで東京の場合は50万円、2店舗以上の場合は100万円になっている。額面については最高でということになっているので、私たちの場合がどれくらいになるのかは未定だ。4月22日から受付になっているため、早々に申請したいと思っているが書類が多く、会社でお世話になっている税理士の先生に相談しながら対応しているが、遅々として進まないのが現状である。  同じような思いでこの期間を過ごしている人が多いと思うが、仕事には継続性が必要であり、1回の協力金だけで乗り切れるかどうかは分からない。幸いこれまでの貯えからもう少しは頑張れるが、その資金を使ってしまえば3号店のオープンに支障が出る。悩ましいところだが、今はお店をきちんと続けていくことが大切であり、この気持ちだけが今の私たちの支えになっている。      ◇  私たちはいつもの時間に家を出た。朝のことはまだ心に残ったままだ。だから、今の表情を客観的に見たら暗いはずだ。自分でそういう様子を感じるくらいだから、それなりの状態になっていると思うが、そういう意識で見ているせいだろうか、歩いている人も顔も暗い感じに見える。  いろいろな環境で、それぞれの考えの上で生活をされているのだろうが、他の人も私の顔を見て同じようなことを考えているかもしれない。そう思うと知らない人であっても変な親近感が湧いてくる。  途中、近くの同業者と顔を合わせた。居酒屋チェーンの店長をやっている人だが、外に出てチラシ配りをやっている時に何度か顔を合わせ、挨拶くらいはする中になっている。 「須藤さん、おはようございます」  私の方から先に声をかけた。当然、須藤のほうからも同じように挨拶が返ってきた。その声を聴くとあまり元気を感じない。私がそうだから余計にそう聞こえるのかもしれないが、それは仕方ないかと思い、ちょっと立ち話をという雰囲気になった。 「今朝のニュース、見ました?」  須藤のほうから話を振ってきた。やはり宣言延長が気になっていた様子だ。 「はい、見ました。私たちではどうしようもできないことなので、従うしかないけれど、これからが心配です」  私はその時に思っていたことをそのまま話した。 「そうですね・・・。同じようだと思いますけど、お宅のお店、いかがですか?」  須藤が尋ねてきた。私は自分の店の様子を話し始めたが、須藤は頷いている。その上で口を開いたが状況は同じで、私のところと同様、売り上げはかなり落ちているという。もちろん、具体的な数字は教えてくれないが、こういうことはどの店も共通しているはずなので、私もその点は聞くつもりはない。 「それで、お宅では何か売り上げアップの工夫などはされていますか? ウチは本部からの指示でやっていますので、何かやろうと思っても単独ではできません。雨宮さんのお店の場合、オーナーでもありますから、思ったことがあればすぐに対応できるから良いですね」  隣の柿は赤い、という言葉あるが、自分のところよりも他が良く見えるのだろう。だが、もしそういう方法があればこちらが聞きたいくらいだ。売り上げアップのためにスタートしたランチタイム企画はあるが、まだ期間が短いし、これから認知され、少しずつ広がってくるかと思っていたところに緊急事態宣言が出て、しかも今朝はその延長の話まで耳にした。それで気持ちが落ち込んでいるわけだが、同業者ということから少しだけその気持ちを須藤に話した。  須藤も同感、という感じで聞いていたが、そこで妙案が出てくるわけではない。ここでは互いに愚痴っぽい話だけとなったが、他店も同じような状況であることを自分の耳でも確認できた分、少し心が軽くなった。自分たちだけではないんだ、という思いが湧いてきたのだ。  こういう話をしたためか、表情も少し明るくなったような感じがした。それは須藤も同じような感じだったが、傷のなめ合いでも少しは効果があるものなのかな、という思いをし、そのまま別れた。時計を見れば、数分程度の時間だったが、気持ちの転換にはなったような気がした。  私の店は須藤と話したところから100メートルくらいのところなのですぐに着いたが、すでに矢島がいた。 「おはよう、矢島君」  意外と明るい声で挨拶ができた。 「店長、思ったより元気な感じですね。今朝のニュースで落ち込んでいらっしゃるのではと心配していました。でも、お顔を見て安心しました」  須藤との話が良かったのではと思った瞬間だったが、朝の挨拶が明るくできたことで今日一日、頑張れそうな気がしていた。  挨拶を済ませた後、私は今朝のニュースのことを矢島と話すことにした。もちろん、ランチタイムの仕込みがあるので、作業をしながらになる。 「さっき、近所の全国チェーンの店長をやっている人と立ち話をしてきたよ。どこも大変だという生の声を自分の耳で聞くと、ちょっと気持ちも変わるよね。どこも大変な思いをしているというのなら、俺の場合、だから頑張ろうという気になった。さっき矢島君が言ったように、朝の時点では気持ちが少し凹んでいた。でもここで同じように落ち込んでいたら、そこから這い上がれない。みんな今、底にいる。同じように蠢いているだけでは抜け出せないと思う。ただ、今何ができるかといってもアイデアはないが、まず気持ちだけは腐らせないように思った。矢島君は人の顔色を眺める余裕があるようだから、それなりの思いがあるのだろうけど、君の将来の夢と合わせ、強い気持ちで何とか乗り切ろう」  抽象論で、しかも精神論だけではあったが、今後のことも合わせ、解除後にどうするか、ということも話せればと、ということで今日の営業が終わった後、少し残ってもらってミーティングの時間を設けることになった。  その時、矢島のほうから2号店の店長とチーフの中村も呼んだらどうか、という話が出た。以前、ランチタイム企画の時にも同じような感じで進めたので、そのほうがみんなの気持ちが一つになるのでは、ということだった。  今の時期、営業時間の短縮が要請されているので、いつもよりさらに1時間早め、午後7時閉店ということで1号店に集まってもらうようにした。  ただ、私たちは1号店なので時間は大丈夫だが、2号店から来るとなると、少し時間が遅くなる。だから、実際には午後7時半以降からのスタートになるわけだが、問題はない。  そう決まったら私はすぐに2号店に電話をした。電話に出たのは美津子だった。予定外の電話だったことに少し驚いた感じだったが、話を聞くとすぐに納得した。2号店もランチタイムの準備中だったので、短い電話ではあったが、話し込むようなことではなく連絡だけだったので、仕事への支障はなかった。 「中村君、今、1号店から電話があったけれど、今日の夜、何か用はある?」  受話器を置いた後、美津子が中村に尋ねた。 「ありませんが、何か?」 「デートの誘いじゃないわよ。今日、1時間早仕舞いし、1号店で今後のことについてミーティングをしようということになったの。それで確認したんだけど、いい?」  美津子はちょっと笑いながら尋ねた。中村はそのセリフに少し照れたような表情をしたが、内容は今の時期必要なことだし、二つ返事で了承した。      ◇  午後8時に近い頃、2号店の美津子と中村が1号店にやってきた。ほぼ予定通りだ。  現在、本来忙しくなるはずの時間は営業をやっていないので、アルバイトスタッフのシフトは調整してある。本当はそういうことはしたくないが、そもそも来店する客が少ないので、今までのようなスタッフにはなっていない。  以前、みんなで話し合った時には、何とか雇用を守るということを考えていたが、現実に営業時間が短縮され、来店者数も激減している今、営業を継続するためにはやむを得ない。  とても心が痛むことだし、私の気持ちと現実の乖離に悩む日々が続いている。  それでも宣言が解除されればこれまでの日常が取り戻せるのでは、という期待があった分、今回の宣言延長は心に重くのしかかっていた。  前回の意識のままであればアルバイトのスタッフも含めたミーティングもしただろうが、現実に人数が少ないし、この日のミーティングは急に決めたことなので、あえて主たるメンバーだけで行なうことになった。  集まったメンバーは責任者だけなので、それなりの意識を持っているであろうことはこれまでのミーティングでも分かっている。それだけに今回、再び集まってもらい、宣言延長に対応して、その後の営業について意思を確認し、できれば何らかの対策のアイデアでもあれば、ということを期待していた。 「お疲れ様。今日は急に集まってもらい、すまない。でも、みんなも知っている通り、今日、宣言の延長というニュースが耳に入った。今月末までということなので、3週間以上伸びることになる。みんなの貴重なアイデアがやっとスタートし、ランチ企画も良い感じで少しずつ評判になっていくかな、と期待していた時だったけど、リモートワークが増え、ランチで訪れるお客様も少なくなっている。せっかく売り上げアップのためにと思っていたけれど、実際問題として現状維持がやっとだ。これはお客様の来店数や売り上げもみんな理解しているだろうから、想像できると思う。経営的なことについては、アルバイトスタッフには重すぎるテーマになるだろうということもあり、今回は遠慮してもらったけれど、その分、密度の濃いミーティングになればと思っている。ということで、まず、今回の延長の件とこれからについて、何か意見があれば言ってほしい。すぐに対応できることもあるかもしれないけれど、難しいこともあるだろう。おそらくそのほうが多いと思うが、まずに忌憚なく考えを出してもらい、みんなで共有したいと思う」  少し長い前フリになったが、私はみんなの顔を見ながら、現在の思いを自分なりに伝えたつもりだ。矢島とは昼前と夜の部の前、少し話すことができたので、多少は互いの心の内を理解している。でも、2号店のメンバーの様子は分からない。そういう意味では美津子や中村の意見を聞きたかった。ただそれは2号店のメンバーも同じはずだ。私の話は最初にしたが矢島の考えは2号店のメンバーは知らない。そういうことが頭によぎったので、私は矢島に視線を向けた。  矢島は私の意をすぐに理解したようで、立ち上がって話し始めた。全員、テーブルに着き、これまでのように自分の飲み物とちょっとした食べ物は用意してある。だからこそ、座った状態ではなく、きちんと立って話したかったのだろう。 「今朝、店長から夜のミーティングの話を聞きました。その前に宣言延長の話を聞いていましたので、仕事をしながら夜のミーティングで話せるようなことを考えていました。ランチのアイデアは俺から出させていただき、採用してもらいました。でも、さっき店長からお話があったように、期待していた昼の客数の伸びがリモートワークのおかげで伸びていません。でも、手間がかかるのは同じです。正直、このままの状態が続けば手間がかかる分、どんなものかと思いますが、いずれ宣言は解除されるでしょうから、短絡的な考えは無しにして、解除後のために何か工夫できればと考えていました」  今日の今日といった感じだったので、前回のランチのアイデアのような感じではなかったが、昼から何か考えていたのは分かった。具体的なアイデアはこれから出てくるかもしれないが、私は他の人の話も聞きたかった。  そう思っていると、中村が立ち上がった。 「俺も2号店で今日のミーティングの話を伺った時から、ちょっと考えていたことがあります。確かに今、矢島さんがおっしゃった通り、ランチも夜もお客様があまりお見えにならず、どうすれば売り上げを上げられるか、ということを考えていました。ただ、お越しになるお客様の数字はどうしようもありません。そうなると客単価をいかに上げられるか、ということを考えなくてはならないと思います。夜は時間短縮を求められていますので、お酒にしてもおつまみにしてもなかなか数字を上げることは難しいのではないかと考えています。でも、・・・」  中村は何か言おうとしたが、途中で言葉が詰まった。 「どうしたの?」  美津子が心配して声をかけた。中村は2号店のチーフなので美津子が心配するのは当然だが、途切れた言葉の先に何があるのか全員興味があった。  中村はテーブルに置いてあったウーロン茶で喉を潤し、再び話し始めた。 「すみません。考えていたことを話そうとした時、うまく話の筋がまとまらなくて言葉が詰まってしまいました。でも今、一息ついて話せそうですので聞いてください」  申し訳なさそうに話す中村だが、プレゼンをやっているわけではない。仲間内でのミーティングなので気を遣う必要はないのだが、前回のミーティングでランチ企画の話が矢島から出たことをどこか気にしていたのかもしれない。だから今度は自分が少しでも店のためにということを考えるあまり、言葉が詰まったのではと私は勝手に解釈していた。 「さっきの話の続きですが、2つのアイデアがあります。以前、矢島さんがランチ企画を出し、そのままうまくいくかなと思っていましたが状況が変化しましたので、そこに加えて少しでも売り上げアップに貢献できればと考えました。具体的には通常のランチメニューに複数の小鉢を付ける、というものです。定食屋さんでもやっているようなことですが、メインのメニューにもう1品、というわけです。そのメニューについては居酒屋ですからそこから適切な品と価格設定します。お客様の好みでいろいろな組み合わせができますので、自分だけのランチになるわけです。特に今のお客様の好みには多様性があるようですから、あえてこの点はお客様に選んでいただき、それが通常の価格に上乗せされることになります。少しだけかもしれませんが、チリも積もれば、ということです」  一息ついたからだろうか、中村の表情には余裕があった。それは聞いている私たちの表情が良いところに目を付けた、といった状態になっているからかもしれないが、今日考えたような感じでなかった。そこで次に気になるのがもう一つのアイデアだった。 「それで中村君、もう一つは?」  私よりも先に美津子が質問した。 「はい、今度は夜の部の話ですが、組み合わせ割引のアイデアです。原価計算した上で2品、あるいは3品の組み合わせメニューを作って選択していただくことで、1品だけのオーダーよりも数字が上がりやすくなるのでは、と思いました。もちろん、これまで通り単品でのご注文も結構なのですが、組み合わせで割引価格を設定する、というものです。その具体的な組み合わせ例は考えていませんが、結果的に数字を上げるには、やはりオーダーの品数を増やすことだと思いますので、こういったアイデアはどうかと考えていました」  言いたいことを言った、という満足感が表情に表れている。前回のこともあるので、良い意味でのライバル意識が芽生えた結果なのかと思える一幕であった。  私と美津子はお互い顔を見合わせていた。突然のミーティングなのに、きちんと売り上げアップのためのアイデアを考えていた中村に驚いていたのだ。  それは矢島も同様で、つい中村に話しかけた。 「中村君、いいアイデアだね。俺は昼前、店長と今日のミーティングのことを聞いていたけれど、具体的なアイデアまでは考えていなかった。さっき話したことは精神論的なことだったけど、どうすれば良いのかまでは言えなかった」 「俺も良いと思う。来店されるお客様の数には限りがあるし、営業時間も同様だ。きちんと経営していくには売り上げの意識が必要だけど、それが値上げといったことではお客様は離れていく。満足感を持っていただきながら売り上げもアップさせる、というのは良いアイデアだと思う。美津子はどう思う」  私は中村のアイデアを評価し、美津子の考えを聞いた。  もちろん同じであり、このアイデアは即採用になった。  となれば、具体的な内容について考えていかなければならない。ただ、ランチの小鉢についても夜の部の組み合わせについても、すでにメニュー化してあるものから選択することになるので、比較的容易だ。 「でも、女性向けのランチの場合、選べる小鉢について居酒屋メニューだけで良いかしら? せっかく女性用ということでメインの料理を考えているのだから、場合によっては何か別に考えても良さそうね。評判が良ければ、それが夜の部のメニューの一つになるかもしれないので、このこともきちんと考えましょうよ」  美津子が言った。中村のアイデアを活かし、矢島のランチ企画も活かした上での話になり、2人が考えたことを大切にした工夫の例になった。  突然のミーティングではあったが、現況をどう打開していくかという思いは一緒だったようだ。そして、複数の人が集まることでアイデアが相乗的に影響し合い、良いクオリティに昇華していく。  夜の部の組み合わせメニューについては、どういうグループ分けにするのかということが話のテーマになり、やはり原価率の関係から、表示額が近接しているところに組み合わせることをなった。  ただ、その組み合わせは店側の事情だし、客の好みを前提した場合は必ずしも効果的ではない、という意見も出てきた。ではどうするかということだが、明日、ここ3ヶ月の伝票を確認し、どのようなオーダーの分布になっているかを確認した上で、改めて考えることにした。  ランチについては女性用の小鉢ということで、メインのメニューとの関係性を考え、これも日替わりではどうかという話が出た。複数のメニューがあり、その中からいくつかセレクトするとすれば良いのでは、ということになり、具体的にはアルバイトの女性スタッフにも意見を求め、早急にメニュー化しようということになった。  早くできるようであれば宣言解除前からスタートしても良いし、最悪、解除までにできればということになった。  こういうことは話だけでなく、皮膚感覚としても掴みたいところだ。  ミーティングが進む中でいくつか具体的なプランが出た。新しいメニューとしてサイドメニューを作っていくのは時間を要するし、そもそもそのニーズがあるかどうかは分からない。でも、何かやっていかなければ今以上のことは望めないというところから、とりあえず夜の部で提供しているメニューからいくつかピックアップしてサイドメニューの候補を見つけたらどうか、という話になった。  そういうことならすぐに実践できるし、原価率も把握している。だから後は組み合わせの問題だけだ。具体的に250円まで、350円まで、500円までの価格帯の中から2つ以上のメニューを合わせてはどうかということになった。具体的な組み合わせについては客が選ぶということでカスタマイズしている意識になり、メニューの個性化が図れる。好きなおかずでランチが楽しめるということで喜ばれるのではいうことになった。  新しいランチのためのサイドメニューについてはその様子を見て考えれば良いし、実利とマーケティングが同時に行なえるメリットがある。  その上でこういうことは早いほうが良いとなり、早速明日から行なうことを考えたが、まだ心に引っかかることがある。  やるとなると、そのための準備をしなければならない。今日はそこまで時間を取ることができないため、とりあえず準備の準備という意識でいることにした。  そんなことを話していると、また別の話が出てきた。  具体的にはドリンクのことだ。この話は矢島から出てきた。 「店長、今話していて思ったんですが、俺たちの商売は居酒屋ですよね。料理メニューも大切ですが、原価率として収益につながるのはドリンク類です。とすれば、料理にプラスしてオーダーしていただく場合、ランチタイムサービスとして、例えば1杯100円くらいにしてはどうかと思うんです。もちろんアルコール類ではなくソフトドリンクに限りますが、今、飲み物としてはお冷だけじゃないですか。そこにはもう少し選択の幅を広げ、夜の部よりも安い価格で提供できれば、お得感もあるんじゃないでしょうか? ドリンクサーバーを導入してフリードリンクという方法もあるでしょうが、導入に際してのコストがかかるかもしれませんので、そこは店長たちで考えていただきたいと思っています。でも今、できることでそういったサービスをスタートして様子を見ても良いかもと思っています。もちろん、全体を見渡し、経営として成り立つかどうかは検討していただければと思っています」  また矢島からの積極的な意見が聞けた。これでは誰が経営者か分からない、といった感じになったが、私はこういう雰囲気が欲しかったので、この意見についてもすぐに賛意を示した。それは美津子も同様で、私たちは目を合わせて返事と共に頷いていた。  この雰囲気に中村も飲まれていたが、その眼には良い意味のライバル心が見られ、今後のミーティングではその結果が期待された。  ただ、この日はそこまでは話が及ばす、ここまでで終了し、全員帰宅の途についた。      ◇  5月15日、東京や大阪などを除く39県で緊急事態宣言が解除される方針が示された。残る8都道府県については21日の感染状況を見て検討するということで、これまで経験したことが無かった全国的な行動制限に明るい兆しが見えた。  そのニュースは美津子と2人で聞いたが、お互い、何かホッとしたような表情になっている。 「あなた、良い笑顔よ」  思わず美津子が私に向かっていった。その美津子もこれまでの緊張がほどけたような感じになっており、私は心の中で思わず「お前もだよ」とつぶやいていた。  そして私の脳裏には10日前にみんなで話したことが浮かんできた。緊急事態宣言のために昼間の人の流れも悪くなっており、会社勤めの人たちもリモートワークの人が多いためか、ランチタイムについても動きが悪い。だから、せっかくみんなが良いアイデアを出してくれてもサイドメニューの企画以外は実行できないでいた。せっかく新しい企画をスタートするのだから、もう少し世の中が落ち着き、いつもの流れに近くなってからが良いアイデアも生きると考えていたのだ。  もちろん、その方針は全員に伝えてあるし、同意も得ている。だから、実際にスタートするとなると、先日の話はほぼそのまま実行できるまで準備はしてある。  もっとも、既存のメニューの活用だからランチ企画導入に比べると容易だ。だからこそ様子を見ながら、ということにしているわけだが、他県で解除され、東京も含め、残りの地域で感染者が少なくなればやっと日常が取り戻せる。すぐにこれまでのような感じになるとは思っていないが、だからこそ、その時に備え、まずは心構えをしっかり持つことが大切だ。このことは商売を始める時から意識していることであり、今回のような特殊な状況からの脱却を意識する時にもそれが活かされていると客観的に自身を見つめている自分がいる。  自分のことを2人称で見ているような感じだか、だからこそ頑張れているのかもしれない。  そして実際に他県で解除されてくると、いつ東京がそうなるかということが気になってくる。感染状況を見た上でということになっているので、これまで以上に毎日の感染者数が気になるだろうが、それを日常を取り戻すカウントダウンと考えれば良い。私の勝手な思いではあるが、物事を多面的に捉えることで、一般的にはマイナスのイメージになることでもプラスに転じることもある。  こういうところはこれまでも商売で意識しているので、この様な考え方を今回もうまく活用しようと自然に思っていた。ここでそれが活用できるとは思っていなかったが、そう考えるとニュースを見るのが楽しみになる。こういうところは私の頭の中のことだから、美津子にも理解してもらえないかもしれない。  でも、それで自分の心が落ち込まずに済むなら、そして表情も明るくなれば他の人にも伝搬するものがあるだろう。閉塞感が漂っていた空気が少しでも良い方向に流れていくのであれば、私は大いに実践したい。  今日、店に行った時、私の表情で矢島やスタッフの雰囲気が変わり、その上で今日のニュースの話ができれば雰囲気も変わってくるだろう。その上で先日話したことが具体的なスタートできる状況になったら、いろいろなことが少しずつ好転してくるであろうことを期待している自分がそこにいた。      ◇  私と矢島はほぼ同時に店に着いた。 「おはようございます」  矢島が先に挨拶した。私も返したが、その時の表情がこれまでよりも明るいということを矢島は感じていた。 「店長、今朝は何か明るいですね。何か良いことでもありましたか?」 「今朝のニュース、見た?」  私のその言葉で何か気付いたような感じの表情になった。矢島が気付いたことが分かった私は、すかさず話を重ねた。 「そう、多分頭に浮かんだと思うけれど、緊急事態宣言の解除のことだよ。東京はまだ先になるけれど、一部でも解除になり、感染者数が落ち着いてくればやがていつもの日常が戻ってくる。そうなると、売り上げのほうも戻ってくるだろうし、これまでのマイナス分も取り戻せるようになるはずだ。この前みんなで話したことがそこでスタートできる。みんなで話し合ったこと、俺は大変評価しているし、期待している。だから今は、それに向けていろいろ詰めておきたいんだ。あれから具体的な導入について何か考えた?」  突然ではあったが、矢島に訊ねてみた。 「すみません、組み合わせについてはいろいろ考えていたんですが、他のことについては新しいアイデアはありません」  ちょっと申し訳なさそうな表情だったが、先日の話から特別な進展がなかったので仕方ない。 ということで、私の方から一つのアイデアを提案した。 「ランチ企画導入の時は事前の告知はあったものの、いきなり昼間にスタートした。夜とは営業時間が異なるので違和感はなかっただろうし、お客様にも抵抗なく受け入れていただいたように思っている。でも、今度は違う。それまでやっていたことに新しい企画が加わることになる。そして実際、お支払いいただく金額がアップすることになる。ただ、それでも満足に繋がればというところで理解していただければと思っている。そこで考えたんだけど、新企画スタートから1週間、無料で複数のサイドメニューから好きなものを一つ選んでいただく、というのはどうだろう。それによってメインのメニューにプラス1品、しかも好きなものをチョイスできる、ということでランチの質を上げる、という感じになる。よくある小鉢付きという場合、こちらで選ぶことになるし、毎回決まったものになる可能性があるし、そういう店も知っている。でも、それでは飽きが来ると思うし、せっかくメインの料理はお客様の好みで選んでいただいているのに、サイドメニューでその雰囲気を壊して良いのか、といったことを考えたんだ。食事にそれぞれ好みがあるし、味を意識しているこの店にとっては、好きなものを召し上がっていただく、というコンセプトをサイドメニューの場合にも広げる、ということではどうだろうと思っている」  私は先日のミーティングから考えていたことを矢島に問うてみた。この企画は無料というところがポイントの一つになるが、こういうことは原価率とも関係することであり、たとえチーフといってもなかなか踏み込めない領域の一つになる。だからこそオーナーである私からの提案だったわけだが、導入企画としてはサイドメニュー付のイメージ定着に繋がると思われるので、矢島も何の迷いもなく賛意を示した。  ただ、これは今初めて話したことだし、2号店でも同意を得、一緒にやれるようにしなければならない。事前に美津子や中村にも話しておいたほうが良かったかもしれないが、いずれにしても話は前後することになる。 しかし、少なくとも1号店では全く問題はないことが分かったので、夜、美津子にも話した。      ◇  解除が残っていた8都道府県の内、大阪、京都、兵庫の3府県については5月21日に実施された。その上でこの状態なら残る5都道県についても解除可能という見解が示され、25日に解除の運びとなった。  待ちに待った解除宣言だが、そのニュースを耳にした私と美津子は39県が解除された時よりも喜びが大きい。  私たちが住み、仕事をしている地域の話なので、その喜びは比較にならない。テレビを見ていた私たちの表情は10日前とは全く異なる。美津子はこれまでの大変な思いが堰を切ったかのように溢れだしたようで、その眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。 「やっと解除されるのね・・・」  腹から絞り出すような声だったが、決して暗い感じではない。喜びが大きい時は大声になるイメージがあったが、本当に大変な思いの時は必ずしもそうではないことを見た感じだった。表情や声から感じられる安堵感は大きいようで、しばし放心状態のようにも感じていた。  おそらく私も似たような状態だったかもしれないが、自分のことは客観的に見ることはできない。でも、身近で苦楽を共にしている私にとって美津子の気持ちはそのままストレートに感じているつもりだし、一緒に仕事をやり、店の経営に知恵を絞っていることから、これでやっとこれまでの苦労から脱却できる、という期待が胸に去来していた。  美津子が発した言葉からどれだけ時間が経ったか分からないが、時計を見ると思ったほど経過していない。絶対的な時間の経過と、主観的な時間の流れの差を感じたところだが、それだけ解除の話は私たちの心に大きなインパクトだったのだ。  コロナの問題で緊急事態宣言が発出された時もそうだったが、解除の時にも同じように心に影響を与えたわけだ。  でも、その内容は全く正反対で、宣言発出の時は絶望に近いものがあり、解除の話は希望に溢れた。どちらの場合も反応的には同じようなことだったが、内的には異なる、ということを今回初めて経験した。  解除の日が明確になったことで、先日矢島と話した企画の準備をしなければならない。その件についてはすでに美津子や中村に伝えてあるが、もちろん2人とも賛成し、具体的なメニューについてもアイデアが出ている。試験的にいくつか提示し、反応を見てみようと思っているが、解除されたからといってすぐに元通りになるわけではないことは理解している。だから、試験的と言っても1週間程度では分からないところが多いと思うが、告知の意味もあるので、実際のメニュー構成や以前話し合った組み合わせについてはやりながら考えるしかない。  しかし、そういうことを意識できる舞台ができたことは大きな進歩だ。その上でどういう物語が展開できるかは私たちにかかっている。そういう意識で解除後の仕事でマイナス分をきちんと補填していこうと改めて心に誓った。
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