3.建て直し計画

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3.建て直し計画

 5月24日、緊急事態宣言解除前日だ。私は1号店にいた。午前9時だ。ランチタイムの準備があるにしても早すぎる時間だ。美津子も私と同じ時間に家を出たので、間もなく2号店に着くはずだ。  なぜこんな時間に着いたかというと、待ちに待った宣言解除の前日とあって居ても立ってもいられず、つい店に足が向いたのだ。この思いは美津子も同じであり、この日の朝の行動はどちらが言い出したということもなく、自然に行なわれた。  一人で仕込みなどをやっても良かったが、私は客席に腰を掛け、ぼんやりと店内を見渡していた。商売を始めて経験したことのない出来事の連続が続いていたが、それがやっといつもの日常に戻る、という安堵感に浸っていたのだ。店を開きたくても開けない、数字が取れないといったことが心に深い傷を与え、宣言延長で先が見えない状況に心身とも疲弊していた。幸い、私と美津子は癒しでバランスを取っていたが、他のスタッフのことを考えるとどこか申し訳ない気持ちもあった。年齢的なこと、あるいは経営者ではない、といったことを差し引いたとしても、心身にかかるストレスは私たちとどう違うのだろう、といった思いもある。  もちろん、この期間、私たちが通っている整体院を矢島にも紹介し、2号店の中村にも同様の対応をした。その際、施術費については会社で負担するつもりでいたが、さすがにアルバイトまでというのは無理があった。私はこの様な異なった対応をしたことには心が痛んでいた。仲間といった意識でいたことは本心だが、現実問題として売り上げが無いまま仕事以外のところに経費をかけるのは難しい。そういうことは矢島たちも理解していたため、せっかく紹介したにもかかわらず、2人は行っていない。  もしかすると他で対応していたりしていたかもしれないが、そういう様子は微塵にも見せなかった。だが店が再開し、数字も上がってきたら、お疲れさまということでみんなで温泉にでも行こうかといったことまで考えていた。  それも営業再開後、数字が戻ってきたからのことだが、そういった目的を持って仕事ができれば、明日からの頑張りの原動力になるかもしれない。  私の頭の中にはこれまでのことの反発からか、これからの明るい予定のことで一杯になっていた。だからだろうか、時折我に返った時、表情が緩んでいることを感じていた。  そんな時だった。矢島がいつもより早く出勤してきた。 「あれ、店長。どうしたんですか? いつもよりずいぶん早いじゃないですか」  店の鍵が開いていることに驚きながら、同時に私が客席に座っている様子を見てびっくりしていた。 「矢島君も早いね。何かあった?」  私も矢島のほうを向き、驚いた表情になった。  でも次の瞬間、その理由については2人ともすぐに理解した。 「宣言解除のことですよね?」  矢島が言った。私は笑顔で頷いた。矢島も私と同じ気持ちだったようで、どうしても店に足が向いたのだ。  時計を見れば9時15分だ。ランチタイムはスタートの頃の予定を変更し、11時30分からにしてあるので1時間以上余裕がある。  仕込みをするにしても時間があるので、それまでいろいろ話をすることにした。実際、明日からのことを考えなければならないし、そのための具体的な準備もある。ある意味、この状態は商売の巻き返しを図るミーティングの様相になった。本来なら、2号店のメンバーも一緒に話したがったが、このタイミングは偶然だったので、ここは2人で話すことにした。  とは言っても、基本的なことについてはすでに決まっているので、その確認といったことがメインになる。私と美津子で話していたことについても矢島に伝え、基本的にはこれまで出てきたアイデアをそのまま行なうことになった。  準備としてそのお知らせのための店内用の告知ビラを作ることになる。  少なくとも1週間はお試しということになるので、文字だけで良いだろうということになり、その場合、夜の部でもやっているような本日のおすすめ的な感じのもので良い。となると、作るのにも時間を要しない。ランチタイムの後に作れば間に合う。  1号店と2号店共通のものを作成しても良いが、それぞれの店の個性もある。ここはそれぞれでということにしたが、連絡だけはしておかなければならない。私は2号店に電話をし、矢島と話したことを美津子に伝えた。美津子も同様のことを考えていたようで、2つ返事でOKだった。  時計を見ると仕込みの時間になったので、今日のランチの準備に入った。メインのメニュー自体はすでに決まっているので、こういうところの流れはいつもと同じで、矢島と手分けして手際よく準備をした。  今、客足は少ないのでアルバイトはおらず、ランチタイムは私と矢島で回している。料理の準備と共に店内の清掃・消毒をやらないといけないが、いつものパターンで行えば良いだけなので、予定通りに進んでいる。  ただ、今日は先が見えたので、何となく動きが軽いように思える。矢島は軽い鼻歌交じりだ。さすがに私はそこまではやっていないが、もし1人なら、同じことをしていたかもしれない。気分的にはそこまで軽くなっている。  11時30分、ランチタイムのスタートだ。5分ほど過ぎた頃、夜の部の常連、相沢が来店した。ランチタイムに訪れるのは珍しい。私たちは相沢の顔を見て少し驚いていた。 「いらっしゃいませ。この時間にご来店なんて珍しいですね」  私は思わず相沢に声をかけた。 「今朝、宣言解除のニュースが報道されたでしょう。これで仕事のほうも少しずつ以前に戻ってくるんじゃないかと思ってね。ランチにも顔を出させてもらったよ。これから巻き返しだね」  相沢の言葉からは店のことを気にかけてくれている様子が伝わった。  私は胸が熱くなり、うっすらと目に涙が浮かんでいた。その時、この店を愛してくれているお客様がいらっしゃる、ということを改めて実感し、これまでのマイナス分を取り戻すため、一生懸命やっていくことを改めて心に誓った。  相沢のオーダーは日替わりだったが、明日から予定している小鉢を提供し、そのプランを話した。まだ他に来店している客がいないため、相沢から感想を聞きたいという思いもあった。  もちろん、無料サービスの期間は1週間だけで、その後、有料メニューにするということも告げた。もともとこの店の味を知っている相沢の場合、きちんと告知の期間を設け、その上でメニューのレギュラー化を図るということなら良いのでは、という賛意をもらった。このことは新企画の弾みとなり、私は矢島と目を合わせ、喜んだ。  次の日のランチタイム前、予定通り壁にこれからのランチ企画についての告知を貼り出した。  相沢はこの日もランチタイムに顔を出したが、時間は12時50分くらいだった。ランチも一段落した頃だったが、昨日話した手前、新企画の様子が気になったのだろう。この日は他の客もいたので、来店時に話をすることはできなかったが、相沢は店内を見渡し、テーブルの埋まり具合などを見ていた。  オーダーはこの日も日替わりだったが、小鉢については複数から選べるということで、昨日とは異なったものを注文した。夜のメニューでいつも相沢がオーダーする煮込みだが、よほど気に入っているようだ。ランチのプラス一品がいつも酒の肴にしているものになるとは思っていなかったが、そういうことなら昨日、煮込みを出せば良かったと思った。 「すみません、昨日は配慮が足りませんでした」  私は料理をテーブルに運んだ時、相沢に謝罪した。 「いやいや、かえって俺の方こそ昨日は気を遣ってもらい、すまなかったね」  逆に少し恐縮している様子だったが、他の客もいるのでこれくらいしか言えなかった。  相沢が食べ終わった時、ランチのために来店していた客は全員帰っていた。以前なら、この後からも少し来店があったのだが、宣言解除初日だからといってもすぐに元通りというわけにはいかないのだろう。私は食べ終わったタイミングを見計らい、水を注ぎに相沢のところに行った。その時、相沢が私に言った。 「昨日の今日だけど、ランチ、どうだった?」  店のことを心配して、相沢が尋ねた。あえて遅めに来店したのは様子を尋ねたいという思いがあったのだろうが、そういったちょっとした配慮が嬉しい。 「はい、今日解除ということですから、実際にお越しになったお客様は昨日までと同じでした。でも、新企画については評判が良く、それぞれの好みに合わせたチョイスをされていました。今は無料にて提供させていただいていますが、告知期間が終わり、有料になった時にどうなるか、というところですね」  私は今日の様子を伝え、1週間後の懸念についても話した。 「店長、自分の店の味に自信を持ちなさい。もちろん、お客様の財布の事情はあるけれど、ランチ用の小鉢については少し価格を下げるということだよね。他の店のランチの価格と比べ、その数字を上乗せしても高いとは思わないし、それで自分の好きなおかずを並べてランチを楽しむ、ということを希望するお客様もいる。お客様すべてに満足していただくということはできないので、自分が自信を持っているところについては無理のない範囲できちんと主張し、それを個性としていったほうが良いと思うよ。商売には差別化というところが必要だし、それによって夜の部とは異なったファンが増えるかもしれない。コロナの関係で読めないところあるけれど、自分が信じた方針は貫いたほうが良い。もちろん、無理と思ったら方針転換する勇気も必要だけどね。俺も夜だけでなくランチにも時々顔を出すから、また話ししてよ」  思わぬ相沢の提案に驚いたが、こういった方をランチでも増やしていけば良いのか、ということを改めて思った。相沢の今までの経験をうまく活かせれば、これまでマイナスだった分を取り戻せる、そういった思いが強くなっていた。      ◇  その夜、自宅でランチタイムのことを美津子に話した。  相沢の言葉に勇気づけられたこと、そして今後のアドバイスなど、私にとってはとても心に響いたので、そのことを共有したかったのだ。  2号店には相沢のような常連客はいなかったが、それでもよく来店する人はいるし、ランチタイムをスタートしてから昼に訪れる客も少しずつ増えている。  これまで美津子はそういう話をすることは無かったが、1号店での相沢の話を聞いて、実は、といった感じで話し始めた。 「ウチの場合、アドバイスしてくれるようなお客様はいないな。でも、よく来店される方がいるの。よく日替わりメニューを注文されて、新企画のサイドメニューにも喜んでいらっしゃるわ。たぶん、有料になっても変わらずオーダーしていただけると思うけれど、たまたま今日、レジでちょっと立ち話ができたの。やはり以前話していたように、居酒屋らしくないメニュー構成と味が気に入った、とおっしゃっていた。そういう意味では私たちの狙いが当たったと思う。きちんとみんなでミーティングをやり、一緒に考えたことを評価してくれるお客様がいらして嬉しかったわ。相沢さんの話がなかったらこの話はしなかったかもしれないけれど、この路線は間違いないのよ。まだまだ改善点や工夫するところはあるでしょうけど、近々またみんなで集まって話し合いましょう」  東京の場合、夜の営業については6月1日から午後10時まで可能になる。逆に言えば、それまではこれまで通りなので、ミーティングをするとなれば、それまでの間が望ましい。通常であれば12時までなので、それを考えれば時間的な余裕はあるが、緊急事態宣言期間中のストレスもあるだろうから、慰労も兼ね、9時くらいに主だったメンバーで集まり、今後のことも含めて話し合ったらどうだろう、ということになった。そして、慰労ということであればアルバイトスタッフにも声をかけようということになり、そこから再出発を図ろうと決めた。  そこで良いアイデアが出てくるかどうかは分からないが、閉塞感を感じていた期間のモヤモヤが少しでも晴れることを期待した。  全員への告知もあるので、2日後が良いのではとなったので、明日、それぞれの店から全員に連絡をすることになった。会場は前回通り1号店で、飲み放題、食べ放題ということにした。ミーティング企画については矢島も中村も知らないことなので、店に着いたらすぐに話すことにした。 「俺、明日、枠があれば奥田先生のところに行ってくるよ」  私は唐突に美津子に言った。心身をリフレッシュしたかったのだ。 「良いわね。じゃあ、私も明後日、行こうかしら。もちろん空きがあればだけど・・・」 「明日の朝電話するけど、聞いてみよう。もし空いていたら、明日はお前が行って来いよ。俺は明後日でも良いから」 「ありがとう。でもまず電話して、それから決めましょうよ。奥田先生の話が出たのは、疲れているからでしょう? 私はそれほどでもないから、明後日でも構わないわ」 「・・・そうか。じゃあ、そうさせてもらうか」      ◇  次の日、私は奥田の店に電話をした。本来は事前に電話して予約を取るのが礼儀なのだろうが、どうしても当日に電話をしてしまう。しかも以前、本来は開店前に応じてくれたことがあるため、それに甘えてしまう自分がいた。もちろん、こちらの勝手なので、無理な時には断られたこともあり、それでもなかなかこのパターンは直らない。  今回は私の分で予約し、明日は美津子の分ということで電話をかけだが、幸い何とかなるということだったのでその枠でお願いした。予約は本来の開店時間の1時間前になるが、奥田は開店前にやっていることがある。だから事情が許せばオープン前でも応じてくれるのだろうが、私の店の様子も理解してくれているのだろう。私も商売をやっている関係上、予定している時間が変更になることの問題点は理解しているが、奥田にはついわがままを聞いてもらっている。 電話をしている際、こういうところは癒しという仕事をしている人の気持ちなのか、と考えることもあるが、そういった思いやりのようなことを居酒屋にも取り入れられたらと思っている。  予約時間の5分前、奥田の店に着いた。  丁寧な挨拶はいつも通りで、無理にお願いした状態だったので私は恐縮しながら礼を言った。奥田はそんなことは意に介していな雰囲気で簡単な問診を始めた。今回、特別にどこか調子が悪いから来院した、というわけではない。緊急事態宣言後に頑張りたくて、その前に心身のメンテナンスを図りたかったので、その旨を奥田に告げた。奥田は「分かりました」と返事し、施術スペースに私を誘導した。  いつも通り触診からスタートしたが、所々で奥田の手が止まる。 「何かありましたか?」 「メンテナンスとおっしゃっていましたが、所々に張りを感じますね。ご自分ではお気付きではないかもしれませんが、身体は正直ですから、ちゃんと出ていますね。・・・ここはどうですか?」  奥田はそう言うと気になるという場所を少し押してみた。いつもなら何ともないところに軽い圧痛を感じ、それを告げると「やっぱり」という返事だった。  そういった確認の後、本格的な施術に入ったが、受けている時、私は奥田に話しかけた。 「先生、いよいよ緊急事態宣言が解除になりますが、整体のお仕事のほうはいかがでした?」 「そうですね。以前にも似たようなお話でお答えしたと思いますが、その状態は変わりませんでした。私たちは昔からきちんと衛生的なところに注意していますし、そのことでクライアントの方の足が遠のくことはありませんでした。もっとも、リラクゼーション的なつもりでお越しになっている方の場合は最近いらしていませんが、体調の改善を意識している方の場合は変わりません。私たちは医者ではありませんが、整体で好転するケースはありますし、そういうことを理解されてお越しになっている方の場合、通院のリズムは変わりません。雨宮さんの場合、今日は心身のメンテナンスとおっしゃっていますが、これまでも体調の問題でもお越しになっていたでしょう。整体術は感染症を対象とするものではありませんが、体調の問題は幅広いので、私たちの施術が役立つようなトラブルを抱えていらっしゃる方はきちんとお越しになっています。ただ、こういった手技療法の店の中には今回の宣言で影響が出たところもあるようで、何とか今回は踏ん張れても、またこんな状況になれば持たないかも、と言っているところもあるようです。やっぱり、この世界は技術力がものを言いますし、施術の姿勢ということも関係するのではないでしょうか?」  奥田は淡々と話しているが、言葉を変えれば私たちの仕事とも重なるようなことがあり、大いに参考になった。  奥田の施術で身体が軽くなった私は、その日一日、心も大変軽かった。矢島もその様子を口にしたが、それはこの日のスタッフも感じたようで、そこから明日のミーティングのことをみんなに告げた。  仕事が終わった時、この日休んでいるアルバイトスタッフにも連絡し、全員の予定を押さえた。  2号店についても、美津子が中村をはじめ、アルバイト全員と連絡を取り、ミーティングの予定を伝えていた。  そのことは夜、家に戻った時に美津子から聞いたが、私の体調のことも話した。奥田の施術によって心身が軽くなり、改めて癒しの大切さを実感した、ということを告げ、明日の予約を楽しみにしておくよう言った。もちろん、美津子もその経験はしっかり知っているはずだが、自分の調子が良くなると、つい一言多くなってしまう。  こういう時、ふと考えることがあるが、奥田たちの癒しはどうしているのだろうか、ということだ。職種は違っても同じ人間なので心身のストレスは同じようにあるだろう。そしてそういった対応はどんな仕事でも大切な基本中の基本になるので、そういったメンテナンスについてはちょっと気になった。 「美津子、俺たちは疲れた時、奥田先生にお世話になっているだろう。でも、先生たちは疲れた時にはどうしているんだろうね」  気になったので私は美津子に訊ねてみた。もちろん、美津子がそういうことを知っているはずはない。 「私に訊ねられても分からないけど、先生のところには何人かいらっしゃるから、お互いに施術されているんじゃないの」  もっともな回答だし、私も同様に思っている。  でも、私たちは身体のことだけでなく、心配事なども相談している。心身不可分ということは奥田からも聞いているがお店の中でそれぞれの立場があるし、いつも顔を合わせているので、なかなか心の中までは明かせないだろう。とすれば、肉体的なことであればともかく、精神的な癒しについてはどうしているのだろう、という素朴な疑問が湧いてきた。  ただ、これは施術を受ける立場で聞けることではないので、いくら親しくなってもお店で会話するようなことではない。おそらく、この点は私たちと同じように何かの解消法を持っているのだろうということで話が落ち着き、その日は休むことになった。      ◇  次の日の夜9時、1号店で予定通りミーティングのために全員集まった。この日の議題は既に伝えてある。私はそのことで有意義な内容になることを期待しているが、小鉢の提供時の合計価格の問題と原価率のことも考慮しなければならない。こういうところはアルバイトスタッフに考えることは難しいだろうが、必要に応じて私たちが意見を述べることで対応できる。中にはみんなの意見に反することになるかもしれないが、商売として行なう限り、この点は重要だ。基本はどうしたら売り上げをアップできるかということなので、その点を念頭に話を進めることを意識している。こういうところは矢島や中村は熟知しているはずなので、必要に応じてみんなの意見の方向性をリセットしてくれるものと理解している。  この日、以前同様、飲み物や食べ物は自由にしている。ミーティングが始まる前には、すでに準備万端といった感じだった。もちろん、互いの距離は十分とってあるし、その間には衝立も立っており、こういうところは普段の営業の環境と同じだ。そういう中で私からこの日の議題について、改めて説明した。 「みんな、今日はお疲れさまでした。これまでと同じだが、慰労会も兼ねているので今日はゆっくり食べながら意見を交わしたい。話しながら食事するというのは集中できないかもしれないが、そこはあまり気にしないで食べたい人はしばらくそちらに集中しても構わない。変に気を遣うのではなく、自然にやろう」  私は全員の顔を見ながら、なるべく精神的な負担をかけないように話したつもりだった。 「・・・それで今日の議題だけど、すでにランチタイムで試験的に1週間だけ無料ということでサイドメニューの提供をしているよね。まず、みんなから見たその状況を教えて欲しいんだけど・・・」  その問いにまず発言したのは2号店の柏木だった。アルバイトスタッフが最初の発言者というのは良い傾向だと思い、その言葉に耳を傾けた。その意識は全員同じようで、食事には一切手を付けず、柏木に注目した。 「なんだか見つめられて恥ずかしいな。最初の発言だし緊張するけど、私は今回の企画の手応えを感じています。まだ無料サービスということでやっていますが、数名のお客様から有料になった時の価格について質問がありました。私はきちんと答えられませんでしたが、その時の雰囲気からすると、悪い印象はありませんでした。いずれもレジでのお会計の時でしたから、食べられた後でのことであり、それなりに満足された結果と考えています。伝票にはオーダーされたサイドメニューについても記されていましたので、何を召し上がったのか分かりますが、男性・女性で違っていたように思います。さっきお話ししたように、私が会計したお客様の全員から質問があったわけではありませんので、有料になった場合のことを全員が意識されているかどうかは分かりません。でも、好みの傾向としては性別で異なるような感じはしました」  そういう話を聞いて、1号店の椎名も発言した。 「今、中村さんが言ったようなことは俺も感じました。だからといって、メインメニューのようにあえて男性用・女性用に分けず、そこも含めて自由に選択できるようにし、一定の価格帯の中に複数のメニューを設定する、というのが良いと思います」  ここで具体的なアイデアが出てきた。この案は私も同じようなことを考えていたので、その意味は理解しているつもりだ。そのことがスタッフの方から出てきたことは私がイメージしていた通りだ。だからここはあえて自分も考えていたといった無粋なことを言わず、そのアイデアを誉め、即採用ということにした。当然、意見を言った椎名の表情は明るく、その前フリのようになった柏木も同様だった。  こういった雰囲気の中、具体的な価格帯とそこに含まれるメニュー例を全員でアイデアを出してもらったが、この日はそこまでとして、具体的には原価率を改めて計算し、私と美津子でまとめることになった。あらかじめ考えていたテーマは事前に知らせていたために思った以上に早く終了したので、その後はお腹を満たすことになった。あまり遅くなっても、というところから11時ちょっとすぎくらいには終了したが、有意義なミーティングになった。      ◇  数日後の新企画スタート初日、私は今回のことが実際にはどれくらいの反響になるのだろうと思っていた。ランチタイム企画についても、スタート時には期待と不安を抱えながらだったが、今回もそれに近かった。この企画は少しでも売り上げアップにつながれば、と思ってスタートしたわけだが、それによって実質値上げと受け取られ、客足にマイナスに作用することを懸念していたのだ。  だから、スタート時の来店の状況の含め、オーダーの様子に注意を払っていた。  サイドメニューの場合、夜の部でも出しているものばかりなので、仕込みのところで少し多めに用意することで用は足りる。あとは客の好みとなるが、あらかじめメインのメニューにセットになっているものではなく、自分の好きなものをチョイスできる、というところにオーダーのしやすさがあると考えていた。  それが当たったのか分からないが、思った以上にサイドメニューをオーダーする人がいた。価格帯としては150円と200円台が多かったが、これなら合計しても1000円を超えない。そういうつもりで考えたわけだが、一定のラインを超えないという微妙な設定も良かったかもしれない。もちろん、選んだメニューによっては合計1000円を超えるような場合もあるが、いずれも夜の部の単品メニューよりは安く設定している。量的に調整していることもあるが、お得感を出すためにはそういった見えない部分でのコントロールも必要になる。そういった心理的なことが幸いしたのかこの日のピークタイムは6割以上がサイドメニューまで注文していた。  午後1時を15分くらい過ぎた時、相沢が来店した。これまでのことから、新企画が気になったのだろう。私が水を持ってテーブルに行った時、さっそくその話が出た。 「店長、どうだった? 新企画の手応えは」  相沢は心配と興味が入り混じったような不思議な表情だったが、目はまじめだった。 「ありがとうございます。まだランチタイムは終わっていませんが、ピークタイムの様子を見ていると6割以上のお客様がサイドメニューまでオーダーしていただきました。男性・女性で傾向が分かれたのはお試し期間中と同じでしたが、売り上げアップに貢献できるような結果になったと思います。まだお客様の絶対数はあまり変わっていませんが、こんな感じであれば、以前のような流れになることで必ずプラスに作用する、という期待を感じました。もっとも、実質的に今日がスタートなので今後は未定ですが、少なくとも良いスタートだったと思います。いつもご心配いただいて恐縮です」  私は相沢に深々とお辞儀をし、謝意を示した。 「いやいや、俺はこの店のファンなので、気になるのは当然だし、この味なら、という思いがある。だから、コロナの騒動が終われば、これまでの盛況が取り戻せると思うよ。ということで、今日は日替わりとサイドメニューは本日の魚の生姜煮にしようか」 「ありがとうございます。少々お待ちください」  私すぐに厨房にオーダーを通した。      ◇  コロナの感染状況は、5月後半は減少傾向だったが、6月に入り、わずかに増加傾向を示していた。東京都は感染者の増加について基準値を上回った場合、独自の東京アラートを発することにしていたが6月2日、発動した。  しかし6月11日、アラートを解除し、飲食店については閉店時間を午後10時から午前0時までに変更した。 「これでやっとこれまで通りの営業ができる」  私はこのことを心底喜んだ。それは私だけでなく美津子やスタッフ全員同じ思いだった。夜、自宅でテレビを見、次の日に店に行った時、私は矢島と共に喜びの言葉で盛り上がったことがその証になる。  この日、ランチタイムのピークが過ぎた頃、相沢が来店した。そして、席に着くなり私に言った。 「良かったね、店長。やっとこれまで通りのカタチになるね。早くこれまでの分を取り戻して盛り返してください。応援しているから・・・」  短い言葉だったが、相沢の気持ちが十分伝わり、心が熱くなっていた。他の客もいるので露骨にその感情を出すわけにはいかなかったが、私の気持ちは相沢も理解しているようで、笑みを浮かべながら軽く頷いている。私はさりげなくオーダーを受けたが、相沢はいつものように日替わりとサイドメニューを合わせて注文した。  午後2時。ランチタイム終了の時間だ。その時まだ2組の客が残っていたが、時間だからといって閉めるわけではない。食事が終わるまで待つようにしている。私たちの都合で退店してもらうことは無い。ただ、夜の部の仕込みや準備があるので、厨房ではその動きが始まった。客席からは見えないので、それが退店を促すような感じにはなっていない。  食べ終わるとその後片付けが始まり、店内には私と矢島、そしてアルバイトが1人という状態になった。最近はランチタイムが忙しくなっているので、スタッフも増えている。良い傾向になっているところに規制が緩和され、私たちの気持ちは高揚している。 「店長、今日からやっと今まで通りの閉店時間になりますので、仕込み、いつもよりしっかりやっておかなくちゃいけませんね」  矢島が言った。私もそれに頷いたが、閉店時間の規制緩和で直ちに客足が戻るかどうかは不明だ。これまでも10時までは営業していたが、そこから2時間の延長がどこまで売り上げアップに貢献するかは見えない。緊急事態宣言前には意識していなかったことだが、営業時間について考えさせられたのは、別の視点から見れば今後の経営にプラスになるかもしれない、といった良い方向で捉えたいという思いがある反面、感染について心配する人もいるだろうからどうなるか、という思いもある。私たちの仕事の場合、会社帰りの人たちのオアシスという性質がある分、仕事のリズムが平時に戻ることも大切な要因だ。リモートワークが定着すれば、これまでのような客足になるかどうか不明だ。新しい生活様式、という言葉で括ってしまえばそれまでだろうが、そうなると商売のやり方そのものを根本から考え直すことも要求される。  ならば今回のことを念頭に、仕事の範囲を拡大することも含め、それが可能かどうか、そしてその具体的なプランは、ということを考えることが大切になる。  今日から閉店時間はこれまで通りになるが、来店の様子を見ながら近々、また閉店時間を繰り上げ、ミーティングの時間を設け、具体的な対策を練る必要を考えた。矢島にもそのことを伝え、また夜、美津子にも話すことにした。プランを考える時間も必要だろうから、数日以内にということで腹案を練ってもらうことにした。      ◇  数日後、予定通りミーティングのために午後9時、1号店に全員集まった。私と美津子、そしてチーフの矢島と中村、アルバイトスタッフも出席したが、事前に今回のミーティングの趣旨と各自にプランを考えてもらうよう指示していたので、前回のようにこれから話される内容に大いに期待していた。 「やっと緊急事態宣言が解除され、またいつもの感じ戻ってきつつあるけれど、まだ完全に終息したわけではないので気は抜けない。だから、もっと店のパワーアップを図り、みんなの雇用を守りたいと思っている。そのためにはみんなの協力が必要だし、知恵もそうだ。だから今回のミーティングを企画したわけだけど、連絡してから時間もあったので何か良いアイデアがあればここで発表してほしい」  私は全員の顔を見ながら話した。こういう時、これまでであれば目や顔を伏せる人もいたかもしれないが、私も含めこれまで経験したことが無いことが起き、現実に大変な目にあっている。だからこそ、気持ちも変化し、自分を守るためということも含め、真剣な雰囲気が伺えた。  しかし、だからといってアルバイトから第一声が出ることは無い。それは予想していたことだが、その空気を察してか、矢島が発言の口火を切った。 「緊急事態宣言中のいろいろな動きを見ていたつもりですが、人出が減少しましたよね。でも、食べることは人間にとって必要なことだし、普段は自分で作っていても、たまにはその手間を省きたいとか、お店の味を楽しみたい、と思う人もいると思います。俺のアイデアを採用してもらい今、ランチタイムを毎日やっていますが、コンセプトがうまく当たり、宣言中も思った以上にお客様が見えました。1号店の常連の相沢さんからは味が良い、気に入っている、というお話もいただいていますが、同様の話は他のお客様からもレジのところで耳にしています」  この話をした時、1号店・2号店を問わず、全員が頷いていた。おそらく、現場に立っていて実感していたのだろう。 「俺はこういうことを経験し、ランチメニューをそのままお弁当ということで販売したらどうかと考えました。具体的に行なう場合、いろいろ考えなければならないところがあるし、みんなへの負担のこともある。だからここで今日のミーティングの具体的な議題例として話しさせてもらいました」  矢島はそう言うと、みんなの顔を見た上で着席した。  その時2号店の柏木が立ち上がり、矢島の意見について話し始めた。柏木はアルバイトとして働いているが、女性用のランチタイムメニューについても協力してもらっている。だからこそ思うところがあるのだろうが、こういう流れは私が期待していたものだ。スタッフの方から自発的に発案があり、それをサポートするような流れは全員がまとまるきっかけになる。もともとランチタイムについてもそのよう流れだったし、それが昼の営業のベースになっているため、今回のような流れはその再現のような感じになっている。 「今の矢島さんのアイデア、私は良いと思います」  柏木は続けて言った。 「私は接客時、お客様がテーブルでこのメニューが会社で頂けたらいいね、といった話を耳にしたことがあります。その時から考えていたことですが、今、矢島さんからお弁当企画の話が出たので、そのようなお客様のリクエストにお応えできるのではと思いました。実は私、お客様の話を耳にした時、お弁当を出しているお店の様子を見て回りました。例えば、軽くお昼を済ませる時の定番の一つの牛丼屋さんですが、お弁当もありますが、汁物は付きません。もし必要であれば別注になります。でも、ウチの場合、汁物にもこだわっているわけですし、スープやお味噌汁が美味しいというお客様もいらっしゃいます。ならば、そこまで含めてお弁当にできれば、他との差別化もできるのではと考えています」  現場で耳にしたことと、自分でやったリサーチの結果を踏まえた話には説得力があった。この話にも全員が頷いていたが、そこに中村が意見を言った。同じ2号店のスタッフ同士ということもあるが、どんな話をするか、全員の意識がその言葉に集中した。 「俺も原則的には賛成です。俺もそういう店で汁物を付けていないことは知っています。店内で食べれば無料で出るところもあれば、そこでも別料金、というところもあります。もともと店の中でも別料金のところでは違和感はないでしょうが、ウチのようにはじめからセットになっている場合、別注文になるというのは高くなったイメージがつくのではと思います。となれば、弁当の場合でもそのままセットにする、ということが望ましいと思いますが、容器代というコストがかかります。また、持ち帰りの時にこぼしたりする可能性もありますので、その点も考えなければなりません。持ち帰りのための袋や汁物の固定のためのものなどの原価率に関係してくると思いますので、この点は社長の判断になるのではと思っています」  この話から中村にも経営者の視点からの考え方が見受けられたわけだが、この傾向も良い。これまではこういう話は矢島のほうから出ることが多かったが、そう言ったことが中村にも影響を与え、考え方が違ってきたのだろう。こういう点は緊急事態宣言といった初めての体験が関係しているのだろうが、雨降って地固まる的な感じに受け取っている。 「確かにコスト的なことは俺たちが考えなければならないことだが、その出費で売り上げが伸びれば問題ない。今、柏木さんが話してくれたことや、俺が相沢さんなどから聞いていることを考えれば、なるべくお店で出している条件のままのほうが味のファンが増えてくるように思う。容器の仕入れについては業者との交渉になるが、そこはコスト削減のために俺たちが頑張る。だからみんなは今のようなアイデアをたくさん出してくれ」  私はコストのことなどで意見が出しにくくなることの方が気になった。その点は経営者として考えることだし、みんなには自由に発想・発言してほしかったのだ。もっとも、明らかにコスト高になると判断される場合はブレーキをかけるつもりでいたが、そのようなことはチーフである矢島や中村であれば理解していることだ。だから私が言う前に彼らから話が出るだろうが、こういう点は最近の言動からの信用だ。経営者的な発想ができるようになれば、3号店のことや彼らの独立なども現実化してくる。独立の場合、私としては痛手だが、チェーン店としてやってくれる場合、共同仕入れなどでコストを下げることもできるし、それは経営する立場では共に助かることだ。今はそこまで話をするだけの状況ではないが、将来のことを考えた場合の視点の一つになる。ある意味、今日のミーティングはそういうところにも関係する内容になっていった。 「弁当販売となると、そのオペレーションを考えなければなりません。ランチタイムの忙しさの集中はみんな経験しているはずだし、その中できちんとしたクオリティを守りつつ、時間のない来店しているお客様を待たせずにサービスできるかを考えなければならないのではないでしょうか?」  今度は1号店のアルバイト、椎名からの意見だった。  これまでのみんなの話を聞きながら、そのシーンを頭の中で描き、考えていたらしい。 「俺も弁当のアイデア自体は賛成だけど、実際にランチタイムの様子を経験している身として、解除後、来店されるお客様の数を増えた時、どうしてもそちらの方に手がかかってしまうことように思う。そうすると今度はお弁当を買いに来られたお客様を待たせることになるだろうし、結果的に両方にご迷惑をかけないか心配しています」  この意見はもっともだ。弁当を買いに来る客がどれくらいになるかは全く分からないが、良い噂が広がってくればそちらの数字も大きくなるだろう。しかし、それで手が足りなくなり、全体的なサービスの低下となれば、味のことと同じくらい評判に影響する。 「椎名君、ありがとう。今の意見は大切だよね。だからこれは経営者として判断しなければならないけれど、忙しくなって手が足りないとなれば、ランチタイムだけのパートの人を雇うことが必要になる。それはそのまま人件費として跳ね返ってくるが、要はそれが気にならないくらいの売り上げになれば良いだけだ。忙しさと売り上げの様子を見た上でこの点は対応することにしよう。それでまた仲間が増えることになるだろうが、そういう時は先輩としてよろしく頼む」  人手の問題はまさしく経営者の仕事なので、弁当企画が軌道に乗りそうだったらその時点で対応することをみんなの前で約束した。  ただ、その話は具体的に接客する立場からの話であり、弁当やランチメニューを作る厨房の話ではない。いくらホールのスタッフが増えても、料理を提供する側が手薄であれば問題だ。だが、厨房の人手の問題は、単に人を増やせば解決するものではない。確かにレシピもあり、盛り付けなどについてもマニュアルがあればある程度解決できるだろうが、そこにはそれなりの調理経験が必要だし、パートで雇うということでは難しい。夜の場合、客の滞在時間が長さや、飲み物の提供で料理の時間は稼げるが、時間勝負という要素が入るランチの場合、一人で厨房をこなすのは難しいという場合が懸念されるのだ。味を売る店としてはこの点は妥協できない。  となれば、ここは1号店・2号店を問わず、店長とチーフが一緒に厨房に入り、ホールは他のスタッフで回していく、ということにならざるを得ない。  この話は私の方からしたが、弁当企画がスタートしてからのシミュレーションも含め、大方はまとまってきた。  もっとも、こういった新しい企画はスタートしてからでないと分からないことが多い。これは企画の内容だけでなく、それ自体が地域に合っているかどうかということも関係するからだ。1号店も2号店も駅のそばにある分、人の流れがそれなりで、同業の飲食店だけでなく、オフィスもそれなりにあり、駅から離れれば住宅街も広がっている。このような立地ならば弁当の企画もそれなりの需要があるのではと思っているが、この時点ではその数字は読めない。  だが、せっかくの企画提案をこのままにしておくのはせっかくのミーティングの時間が無駄になるし、それが流れたりすれば、今後行なう同様の話し合いでの活性化は期待できない。  だからこそ、ここは経営者としての判断が重要になるが、まずは現時点でできる限り実践し、そこでの経験の上で先ほどの懸念項目について対処していくことにした。  私たちには弁当販売の経験はない。しかも今回は居酒屋のランチタイム企画の延長としての仕事になる。料理を作ることについては厨房もあるし、調理することもできるが、きちんと販売するスタッフも必要になる。お店の営業も一緒に行なうとなると、人手が別枠で必要になる。  でも今、新たな雇用は経営の圧迫になりかねない。  となると、1号店・2号店一緒にスタートすることは難しい。まずは1号店でスタートし、とりあえずは夜の部のスタッフと2号店からもヘルプをお願いし、試験的に行なうことになった。弁当の容器についてはある程度のロットで注文しなければならないし、食材のオーダーもこれまでよりも多めにしなければならないが、見込みが読めない分、難しい。  しかし、何もやらなければ数字は望めないし、今後の感染者の数字も気になる。また再度、緊急事態宣言が出れば経営はより苦しくなる。支援金の申請にしても初めてのことなので税理士の先生と相談しながらだが、おそらく相当数の申し込みがあるだろうから、いつ支給されるかも分からないと先生が言っていた。となると、手持ちの資金で何とか遣り繰りしつつやっていくことになるが、当然限界がある。だが、今は消極的になるのではなく、逆に積極的に攻めることにしている。これはみんなで行なったミーティングで決めたことだし、応援してくれる常連客もいるからだ。ファンの人たちがついているという心強さが私の気持ちを支えている。有難いことだ。  だからこそ、今回は事前に私なりにリサーチを行なった。ランチタイムの忙しい時はさすがに店を離れることはできないが、出かける時にはアルバイトを補充した上でさりげなく弁当屋さんを回り、客としてその店の人と世間話的なことをしつつ情報を集めた。1店2店では分からないので、1日に2~3軒回り、またコンビニなども見て回り、売れ筋のメニューや売れ方などを見た。  そこで得た感触だが、せっかくの料理なんだから、少しでも温かいものを提供したい、という思いがより強くなった。  もちろん、今はレンジで温めることもできるが、メニューによっては水っぽくなったり食感が変わることがある。でも、その場で作る弁当屋さんの場合、ご飯もおかずも温かいものをその場で詰めてくれる。もちろん、季節によっては食材が痛むことがあるので、そこは十分注意することが必要だが、食のプロとしてその点はいつも注意している。もちろん、渡してから一定の時間内で食べてもらうことが必要になるが、その点は渡す時に十分声がけして徹底することになるだろう。こういう点はメニュー構成にも反映させることが必要になり、場合によってはランチタイムで提供しているものをそのまま弁当にできない料理もあるだろう。  この点はランチタイムとは別の視点で新たなメニュー開発が必要になるかもしれないが、仕事として成功するためにはやれることはやる、という意識で行なわなければならない。  ただ、いつまでもリサーチをやっているわけにはいかない。実際に次の行動に移らなければただの絵に描いた餅だ。それではいつまで経っても数字に結びつかない。  だから私は時の流れの一つの区切りである1週間を目安にリサーチを終え、具体的な弁当企画の内容を美津子や矢島、中村と練ることにした。本当は全員でやりたかったが、スタートに際しては話が通る人数に抑え、本格的な企画の目鼻がつきそうな時点で改めて全員に声をかけ、意見を求めることにした。      ◇  一応のリサーチが終了した夜、1号店に私を含めた4人が集まった。弁当企画の具体的なことを決めるミーティングのためだ。基本的な路線についてはこれまで少しずつ話しているのでその確認と共に、最も大切なメニュー案がこの日の議題になる。  まずはリサーチの結果、私が実感したことについてみんなに話した。 「パターンとしては事前に調理し、そのために冷めた商品になっているのでレンジで温めるようにしているケースもあれば、オーダーを受けてから作り、ご飯もその時にということで、作り立てのイメージがある場合があった。もっとも、作り立てのケースでも実際に食べる時には持ち帰りの時間の関係で冷めてしまうので、店内で提供するような感じじゃなかった。ウチで弁当を販売するとなると、少しでも作り立てをイメージできるようなタイプのほうが良いと思うけれど、盛り付けも料理の一部と思っているので、どうしてもワンランク落ちるような感じになってしまう。また、実際のメニューについても揚げ物や炒め物というケースが多かったので、それでは他店との差別化は難しいと思う。俺がリサーチした時に感じたことだが、こういうことをベースに意見を出してもらえればと思う」  我ながら少し厳しめになったと思ったが、こういうことは甘いことでダメだと考えている。今後の商売に大きく関係することだからこそ、ハードルを上げ、その前提でアイデアを出してもらいたかったのだ。  今回のミーティングの場合も事前に知らせてあったので、この日の出席メンバーの場合、それなりの腹案を持っていると思っているので、この点を期待した。  私の話の後、少し間が空いたが、やはり最初に発言したのは矢島だった。 「実は俺もできる範囲で弁当関係のリサーチをやっていました。なかなか時間ができなかったので、今意識しているランチタイムの時間帯ではありませんが、それでも弁当のメニューの傾向は店長のお話の通りです。弁当というスタイルの性質上、仕方ないかもしれませんが、だからといって同じ内容であれば後発組が不利になるのは当然です。ならばやらない方が良いのではという発想も出てきます。でも、そういう意識でやらないということであれば、今後の成長は望めません。幸いウチの場合、味に関しては評判をいただいています。ですから、他店と同じメニューであっても、食べ比べもらえれば勝てると思うので、これまで以上にこの点を前面に出していけば、と考えています」  矢島の話が終わった時、すぐに中村が手を上げ、発言した。 「今の矢島さんのお話ですが、俺は理解できますが、お客様にとってはどこまで分かっていただけるかは不安です。というのは、やはり料理は食べるまでの時間も関係するし、持ち帰りの時に冷めたことで味も変わると思います。そこが店内で召し上がっていただく場合と違ってくると思いますので、味で勝負というだけでは競争力は弱いのでは、と思いますし、仮に味で差別化を図ろうとする場合もそれが浸透するまでには時間を要すると考えます。今回、ランチタイムに加えて弁当企画まで行なおうというのは、コロナで下がった売り上げをどうカバーするかということでしょう。味の良さが浸透するまで待つという時間的な余裕があるかどうか疑問です。だから、俺は見た目というか、他店と同じメニューはあっても、その他にランチタイムのサイドメニュー企画のように何か目玉になるものがあることが必要なのではと考えます」  今回は矢島よりも中村のほうがより積極的な意見だったように思えるが、まだ抽象的な内容なので私の頭の中ではイメージが湧いていなかった。  私はその疑問を解消するため、中村に質問した。その時の表情は待ってましたといった感じだったが、自分のアイデアをきちんと披露するための前フリのような感じで話したことがその回答から分かった。 「はい、多分そうおっしゃると思っていましたので、今回のミーティングの前に一つアイデアを練ってきました。おそらくランチタイムに来店し、店内で召し上がる方と弁当を買いに来られる方とは客層が違うと思います。ウチの場合、ランチタイムが当初の予想以上にうまくいっているのは矢島さんがこの企画の時におっしゃっていた女性のお客様を意識したことだと思います。同業者で同じようなコンセプトでやっているところはないし、その意外感と共に矢島さんがおっしゃるように味の問題、そして花をテーブルに飾るといった要因が複合的に重なっていると思います。でも、弁当の場合はそういうことは関係ないし、見た目や他で出していないコンセプトを分かっていただければ売れないのではと思いました。そこで弁当の並べ方なども工夫し、雑に並べたりするのではなく、料理のジャンル別に並べるのです。ちょっとしたことですが、お客様の好みを考えると、メインが和食なのか洋食なのか中華なのかといったことは大切だと思うんです。作る側としてもこういったコンセプトを前提にメニューを考えれば、それぞれのジャンルの中で日替わり的なメニューも考案しやすいでしょうし、統一感も取れると思います。例えば、エビを使ったメニューの場合、中華のジャンルではまずエビチリ、次の日はエビマヨ、さしてさらに次の日はエビチャーハン、といった感じでローテーションを考えることができるでしょうし、食材の効果的な使い方もできると思うんです。もちろん、最初に中華としてやったものを次は和食や洋食に使うということもできるでしょうし、こういったメニューを考えるのは飲食に携わる俺たちの楽しみでもあります。もちろん、中にはこれまでお店で出していなかったメニューも出てきたりして、味作りから始めなければならないケースも出てくるかもしれませんが、それもお店の実力アップのためにプラスになると思います。飲食店の基本である味やメニューの工夫はお弁当の場合でも活かせると思うし、見た目や幅広いメニュー構成にもなります。そうなると、ランチタイムにないメニューも登場するでしょうが、いつもはランチタイムというお客様が今日はお弁当で、というケースも出てくるかもしれません。これはお客様には選択の幅を広げることになるでしょうし、そういうところからウチの名前が浸透していき、将来の数字のアップも見込めるのではないでしょうか」  いつもはおとなしいイメージが強かった中村だが、今回は熱弁をふるった。ランチタイム企画では矢島の発案が取り上げられた、ということもあり、もしかするとそれが良い意味のライバル心を掻き立てたのかもしれない。その様子を見て、私よりも先に発言したのは矢島だった。 「中村君、今の話、素晴らしいよ。それに比べて俺の話は抽象的な内容で具体性に欠けていた。精神論だけではなかなかカタチが見えないし、数字も読みにくい。今日のアイデア、完敗だよ」  矢島は心から中村の意見を称えた。その様子は私たちか見てもほほえましかったし、今、コロナで大変な時期ではあるが、だからこそみんなで話す機会も増え、結束が固まったような感じがする。実際にこういう企画を実施し、狙い通りになるかどうかは分からないが、この様な熱い気持ちを持っている人がいるというのは心強い。私は美津子に軽く確認し、さっそく中村のアイデアを念頭に、具体的なモデルケースを話し合うことにした。      ◇  ミーティングから10日後、1号店で弁当企画がスタートした。ランチタイムと異なり、動きが読めないし、メニューについてもそれは同じだ。きちんと話していても、新企画は実際にやってみなければ分からない。今回もランチタイムの時と同様、事前に告知しており、その規模は前回通りだった。スタッフは2号店からも応援を頼んだ状態になったが、空振りに終わらないことを心の中で願っていた。  ターゲットはランチタイムと重なるので、同じように11時からにした。換気の意味も込め、入り口は開放してあり、軒先に少しテーブルを出すという状態だ。ただ、今回の弁当企画の場合、なるべく作り立てを提供するというコンセプトのため、作り置きしたものを並べることはしない。商品見本は各1品ずつ並べるが、実際の弁当は注文が入ってからとしている。  私には心配している点が一つある。それは客が重なった時、うまく対応できるか、ということだ。ランチタイムが短期決戦ということは体験しているが、弁当企画も同じターゲットというところから、この点が懸念されるのだ。  そういう心配をしながらオープンしたわけだが、弁当を求める客はランチタイムよりは早く動いた。12時を少し回ったところから急に忙しくなるランチタイムに比べ、弁当の場合、12時前から来店者が訪れ、作っている間に何人か並んだ。それがまた集客へとつながったのか、思った以上の流れになった。ランチタイムで訪れる人はその様子に驚くケースもあったが、両者が重なる時間は思ったよりも短く、結果的に何とかこなせる状態だった。  それでも慣れない動きになったので、変な緊張感を感じていた。でも、暇だったり、企画倒れになるようではメンタル面でのダメージが心配される。肉体的には忙しくても、営業をきちんと継続するための忙しさと考えれば苦にならない。そう思えるのも癒しがあるからかとも考えながら身体を動かしていた。  良い意味でなかなか気が抜けない昼の時間のピークが過ぎたが、この日も1時15分ごろ相沢が来店した。すでに席の大半は空いており、ゆっくり座ってもらうことができた。弁当ではなく、ランチタイムの客としての来店だが、私の予想通りだった。  ランチタイムスタートの時も気遣ってもらい、様子を確認に来店した相沢だが、今回も同様だった。 「どうだった? 弁当企画。気になったのでまたこの時間にお邪魔したよ」 「ありがとうございます。いつもお気遣いいただいて・・・。おかげさまで思ったよりも盛況でした。それが本物かどうかはしばらく様子を見なければいけませんが、感触としてはやって良かった、という状態でした」 「そう、良かったね。メニューをランダムに掲載するより、統一感を持たせた方が客目線として選びやすい。それぞれの好みの傾向があるからね。系統別に掲載することでダイレクトにお客様の心に響きやすいと思うよ。ランチタイム同様、日替わりとレギュラーメニューの設定も良いと思うけれど、そのレギュラーメニューも時々少しずつ変えることも良いだろうね。そして以前のメニューは復刻版としてまたやれば良い。定番として残す部分と、目新しさをうまくミックスして表示するといいと思うよ」  また新たなアイデアをいただいた、と私は感謝した。相沢はいつもの感じでオーダーし、いつも通り、「美味しかった」という言葉を残した。  レジに立った時、私はお礼の意味を込め、サイドメニューの分だけ値引きさせてもらった。すべてとなれば相沢の性格上、来店しにくくなるだろうと考えてのことだが、そのまま何もせずに帰すわけにはいかない、という思いからのことだった。一旦は断った相沢だが、私の表情を見て今回だけはということでその申し出を受けてくれた。      ◇  ランチタイムに弁当企画を並行して行ない、1週間経った。相沢のアドバイスも含めていろいろ考えたが、まだきちんと検討するまでの実績が無い。  だが、ランチと弁当をうまく機能させるためのスタッフの動きについては何かしら感じるものがあった。  両者に存在する忙しさの時間差だが、これは厨房の動きとも関係する。まだまだ経験しなければ分からないが、弁当の場合は商品を渡してお代をいただければ終了になるが、ランチの場合、配膳から後片付け、お冷のサービス、会計まで続く。ここに人手が要求されることになるが、様子が分からなかったために弁当スタッフとして2号店から2人応援に来てもらっていたけれど、1人でも大丈夫ということが分かり、1号店の夜の部からヘルプとして来てもらえば問題ないのではと思うようになった。もう少し弁当の客が増えた場合、あるいはその拡大を図った場合は別に求人の必要があるかもしれないが、人件費の問題もあり、なかなかその決断はつかない。  だが、もしその兆しがあったり、メニューの工夫などで来客が増えた場合には必要になる。どこまで現在の体制で大丈夫かという目安を考えなければならないが、今は忙しくなるための方策を考えることが先決だ。  現在、弁当企画で評判が良さそうなのは、他店では別料金になる汁物を付けるというところなのでこれは堅持する。  しかし、最も大切なのはメインになるメニューだろう。 この点、どうしてもランチとは異なる傾向になるので、なかなかランチで経験したことが活かせない。そもそも昼食の場合、ゆっくり食べるという時間が無いため、簡単に済まそうという傾向がある。ランチタイムに来店する客の場合、それでも少しゆっくり食べたいということで来店するのだろうが、弁当の場合は時間的な余裕についてはあまり無いようにも思える。  となれば、あまりメニューの品目にこだわるのではなく、リサーチで得た情報をベースに構成し、日替わりだけこれまでのやり方をし、レギュラーメニューの場合、ご飯だけ温かい状態にする、ということもあるだろう。もっとも、メニューによってそれは合わないというケースもあるだろうし、作ってから時間が経ちすぎていては衛生面でも注意が必要になる。  現実にスタートして、そこからの経験で少しずつ改良してと思っていたが、ますます迷いが出てくることになった。来店して食べてもらうランチタイム企画の場合、接客のことなどは夜の部と重なることがあったためあまり気にならないが、そもそも求めるものが異なる企画の場合、やってみてもなかなか見えないことがあるものだ、と改めて感じていた。  私はこのことをランチタイムが終わり、夜の部の仕込みに入る時、チーフの矢島に話した。そこには夜まで休憩中のアルバイトスタッフもいたので感想を聞いてみると、私の意見と似たような内容だった。結局、もう少し様子を見てみようということになり、この日はそのまま夜の部の営業へと続いて行った。      ◇  7月に入り、新型コロナウイルスの感染者は改めて増えている。5月25日に緊急事態宣言が解除され、その後わずかな感染者増加は見られたものの、6月下旬からそのカーブが大きくなっている。  負のイメージのニュースが流れる度、商売のほうが心配になったが、まだ手探り状態の弁当企画も少しずつ数字が伸びてきて、周知されつつあることを感じていた。  だが、まだ決定的なシステム構築が見えず、様子を見ている日が続いている。  こういう状況が続けば心理的なストレスが心配になるが、家族やスタッフの手前、弱音は吐けない。頑張るしかない、という思いで日常を送っている。  本来ならこういう時、奥田のところで心身の状態を整えてもらい、仕事に集中したいところだが、弁当企画などの関係もあって忙しくなっているので、なかなかその時間が取れていない。スタッフは自分の体調管理をどうしているのかと考えると、私たちだけそういったことはできない、という思いも加わり、なかなか足が向かないのだ。  そしてさすがにこの時期になると、暑さも身体に堪える。感染対策の観点から、玄関を開放しているため、冷房も効かない。もともと暑さに弱い私にとっては身体の負担を感じる。夜、休む時にもエアコンを活用し、適切な室温にしているが、心理的なストレスからそれだけでは安眠できない日々が続いている。  この時期、例年なら夏休みをどう過ごすかということが話題になるが、今年はその雰囲気が感じられない。世間的にはGoToキャンペーンの是非も含めいろいろな話が飛び交っているが、私にはそういうことを考える余裕はない。というより、そういう予算があれば、我々のような仕事をやっている人にもしっかりした補償をしてほしいという気持ちがある。自分自身が旅行などに行けない状態であることも関係しているのだろうが、別世界の話のように感じている自分がそこにいる。  でも、仕事を続けなければならない現実が目の前にあるわけで、まだ明確な方向性が定まらない弁当企画も気になるという具合に、日々、ストレスとの戦いに明け暮れている自分に気付いている。 「こんな状態が続けば、身体を壊しそうだな」  私の脳裏に少しずつ不安が広がっていた。コロナ感染者の数字の増加をテレビで見る度、心身ともに弱っている時は感染しやすいだろうな、ということも考えていた。そういう状態であれば免疫の力も弱っているということは素人でも分かる。元気なふりをすることはできても、実際にどうかということは別問題なのだ。だからこそ奥田の店にも行きたい気持ちもあるのだが、その気力も失せている自分の様子を感じていた。 「店長、今日は元気が今一つな感じですね。大丈夫ですか?」  この日、私のパワー不足が外からも分かったのだろう、矢島が心配して声がけしてくれた。 「ありがとう、大丈夫、大丈夫。昨日暑かったから睡眠不足なんだ」  私は不要な心配をかけまいと、その場を取り繕った。矢島もそう言われたらそれ以上に突っ込まなかったが、その表情からは心配は消えていないことが分かる。だからこそ、私は空元気でも良いのでと思い、そこからはできるだけこれまで通りに振舞うよう意識した。
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