7.決心

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7.決心

 家に帰ったのは午後8時ごろだった。いつもより早い帰宅で、この日は何か家で作ることは考えておらず、途中で寿司の詰め合わせを康典の分も含めて買い、それを夕食とすることにした。それはこの日のことについてしっかり話し合いたいという思いが強かったからだ。  ただ、他に何もないと食卓が寂しい。ということで簡単なお吸い物を作ることにした。店で出すメニューではないが、家にもそれなりの調味料は置いてある。中に入れる材料にしてもあり合わせではあるが準備がある。美津子は台所に行き、手早く準備し、私はテーブルの上に買ってきた折詰を並べ、しょうゆを入れる小皿を用意した。康典はまだ帰ってないので、後で食べてもらうことにした。  私の役目はすぐに終わったので、お茶を入れる準備をした。お吸い物もすぐにできたので、まずは腹ごしらえということで食事にした。もちろん、今日の流れのことが会話として出てくる。 「今日は充実した1日だったね」  私は説明会からその後の会話までの全体を総括するような感想を言った。美津子もその話に頷いている。 「桜井さんと工藤さん、どうするかな。喫茶店での話から工藤さんは入学しそうだけど、桜井さんのほうは分からない。奥さんとの話がきちんとしなければ難しいだろうな。同じく家庭を持つ立場としてはよく分かる。幸い俺たちは2人できちんと話した上で説明会に参加したので、桜井さんとは違うけれど、夫婦の場合、いくら一方がやりたいことがあっても同意が得られないとうまく行かないからね」  説明会後の話で他の家庭の様子が少し分かった気がしたが、何かを決断する時にはそれぞれの条件があるということを改めて実感していた。その上で私は続けて言った。 「それで美津子、今日の説明会、どうだった?」  2人ともまだ食べ終わっていなかったが、この日の感想を尋ねた。でも、美津子はまだ食事中ということでその話はリビングでゆっくり話そうという返事だった。私としてはここで話しても良かったのだが、美津子は一区切りつけてからきちんと話したかったのだろう。ということで食事は早々に済ませ、後片付けをした後、コーヒーを入れてリビングに移動した。  その上で話を切り出したのは美津子だった。 「さっきの話だけど、正直、説明会に出席し、その後に桜井さんや工藤さんと話すまでは何か引っかかるところがあった」  美津子は私の方を見ながら言った。大棟理解してくれているだろうと思っていたため、美津子のこの言葉には少し驚いた。私はすかさず聞き返した。 「どこに引っかかっていたの?」 「奥田先生の様子を見て、手技療法の仕事についてはある程度理解していたつもりだったけど、これまで受ける立場としての経験はあっても、今度は施術する立場になるじゃない。私たちはこれまでそういうことを意識したことは無いし、これから勉強しても仕事としてやっていけるかなとか、奥田先生のようになれるかな、といったことを考えていた。でも、藤堂先生の話を聞いて入学してくる方の半分以上はこれまでそういった勉強をしたことが無い人ということだったし、工藤さんや桜井さんたちもそうだったでしょう。だから、私たちのような状態でもプロになれるのではということを感じた。もちろん、勉強は大変でしょうが、そこは持ち前の根性で何とかなるのではと思った。それから、講座のカリキュラムのことを聞いたり、その上でプロの方が再入学を決めるというのは、よっぽどの内容なのよ。貴重な時間を無駄遣いしないためにも最初からきちんとしたところで教わることは大切と思った。藤堂先生はたくさん本を出しているので信用もできるしね」  美津子は一気にしゃべった。私が思っていたことも含め、きちんと納得してくれたことがよく理解できた。  私は美津子の話を聞いて確認した。 「じゃあ、今日の話を聞いて俺が転職することを本気で考えて良い、ということだね?」 「そうね。でももう一つ話しておくと、私も勉強することにした。藤堂先生がおっしゃっていたけれど、開業は一人からできるけれど、信頼できる人がもう一人いれば広い意味での穴埋めができるし、お互いのケアが可能になるという話、覚えている? あなた一人でやっている時、先日のようにギックリ腰にでもなったら大変じゃない。その時は奥田先生のところで何とかしてもらうこともできるでしょうが、私も勉強して2人でやれば効率良いんじゃないかと思った。最初にこういうことを話した時も選択肢の一つとして頭に浮かんでいなかったわけじゃないし、何と言っても居酒屋は2人でやってきたので、今度の仕事もそうできれば良いかなって思った」  この話は私にとって意外だった。確かに私も最初に話した時にそういうことも考えないわけではなかったし、そういうつもりで話したこともあったかもしれない。でも、それを本気で言われれば、私としては驚くし、それ以上に嬉しかった。もし実現すれば2人で居酒屋スタッフとして働き、その上で第二の人生として居酒屋の開業した流れに続くことになるので、今回の転職は何と第三の人生になる。それに付き合ってくれるということは私にとっては美津子に感謝しかない。 「ただ、俺たちが居酒屋をスタートした時には思ってもいないことがあったり、経営的にも苦しい時があった。今はスタッフにも恵まれ、経営もコロナが無ければ順調だった。コロナの件はウチだけの問題ではないけれど、こういう時でもみんなで頑張っていることで乗り切ろうとしている。商売には波があることは知っているし、整体院を考えるにあたって今回いろいろ話を聞いたけれど、俺たちの場合、どういう展開になるかはやってみなければ分からない。もちろん、やる以上はやって良かったという結果を残せるよう頑張るけれど、現実は分からない。それでも良いか?」 「やる前からそんなことを言っていたら、うまく行くこともダメになるわ。私はやる以上は失敗することを頭の片隅に置いていてもメインは成功した時のことをイメージする。今やっている居酒屋も同じ気持ちでやっているし、今度チャレンジすることについても同じように考えたい。だから、あなたが本気でやりたいなら、私も一緒に頑張るわ」  力強い美津子の言葉に私は心底嬉しく思った。本当ならこういう言葉は私のセリフなのだろうが、そういう迷いを払拭してくれるような美津子の言葉は私にとっては大変ありがたい。 「ありがとう。値千金の言葉だ。おそらく実際にスタートすれば居酒屋の時と同じように苦労をさせると思うけれど、2人で切り抜けよう。ただ、俺たちの間では意見が一致したけれど、矢島君や中村君にきちんと話さなくてはならない。店の様子を見て、近々話そう。定休日にすれば彼らの貴重な休日を奪うことになるので、何か理由を付けて夜の部を臨時休業にし、そこで腹を割って話す、ということではどうかな?」  私たちの心は決まったが、もう一つのヤマを越えなければならない。その前に十分私たちで打ち合わせをし、みんなに最も負担を掛けないような感じにできるようにしようということでこの日の話は終わった。      ◇  私は久しぶりに店に出た。気持ち的にはいつも通りの朝になり、何となくホッとしている。少し早めに到着したのでまだ矢島はいない。しばらくいなかったのでこの日のランチのメニューや仕込みの様子は分からない。ちょっと浦島太郎の気分になったが、戦列を離れるということの現実をコロナモドキの後に続いて感じた。  ということで、私は店内の清掃をすることにした。前回の場合もそうだったが、この椅子にはどういう人が座り、テーブルにはどんな料理に並び、会話が交わされたのかといったことを想像した。2度目のことではあるが、なぜかこの日はそういうことがやたらと気になった。  社員として居酒屋に勤め、その後独立して店を立ち上げたわけだが、社会人になりずっとこの業界で働いている。他の仕事の経験がない自分が、この年になって別の業界に転職しようという気持ちを持ってこの場にいるからこその感傷なのかもしれない。そう思うと、今テーブルを拭いている自分の手にも何かしらの思いが入っているような気がした。今日迎えるお客様に対して、見えないことだけどそこに心を込め、少しでも気持ちよく時間を過ごしていただければ、という思いだ。  もちろん、これまでもそういう思いでいたつもりだったが、意識が変化すると同じ行為でも違った感じになる。そして頭の中ではこれまでのことが走馬灯のように蘇ってくる。  まだ、昨日美津子と話したことは誰にも話していないので、矢島たちは何も知らない。だから今日もいつも通りに接してくるだろう。というより、私の身体のことを心配した言葉をかけてくるのは十分分かっている。そういうことを考えると、この時期に私の勝手な考えで余計な心配をさせることが忍びなくなっていた。  コロナの問題以前から苦楽を共に頑張ってきた仲間だからこそそのように思ってしまうのだろうが、だからこそきちんと説明し、みんなにとってより良い方向になるよう相談しなければならない。そこには複雑な気持ちがあるが、うまく説明し、理解してもらえるだろうかという思いが店にきて改めて頭の中で巡っていた。  そうこうしていると、矢島が出勤してきた。私の姿を見るなり、第一声が出た。 「店長、おはようございます。もうすっかり元気になられたようですね。良かった」  その表情には一点の曇りがなく、本心からの言葉に聞こえた。もともと言葉と気持ちが違うような性格ではないことは分かっているので、このセリフはそのまま私の耳に届いた。 「おはよう。いろいろと済まなかったね。君一人に任せっぱなしになって・・・。本当に感謝している。もし矢島君がいなかったらこの店は回っていなかったし、多分しばらく休業していただろう。時節柄、コロナで閉店したのでは思われてしまうかもしれないので、本当に助かったよ、ありがとう」  私も満面の笑みを浮かべ、矢島の労苦をねぎらった。 「では店長、今日からまた一緒に元気にやってきましょう」  このセリフも想像できていたが、返事には少し言葉が詰まった。もちろん、すぐにきちんと返事したつもりだが、自分の心の中では何かが引っかかった感じだった。今はマスクをしているので表情のすべてが現れることが無いので助かったが、もしマスクなしであれば何か不安を与えたかもしれない。そういう思いも、自分の心の中にこれまでとは異なるものが存在しているからだろうが、近日中に全員にきちんと話さなければならない、と改めて思っていた。     ◇  この日、最初に迎えたのがランチタイムだ。実際に店を休んだのは数日だったが、それでもとても忙しく感じた。前回もそうだったが、ちょっとしたブランクでも仕事の感覚がこんなにも変わるのか、ということを改めて感じていた。もう身体の方は何ともないのだが、思った以上に疲労感がある。  ランチタイムが終了し、夜の部の仕込みにかからなければならない時間になったが、その間に多少の休憩時間がある。 「矢島君、ランチタイムのお客様、今日は多かった?」  私は自分の疲れ具合から来店者数について尋ねたが、返ってきた答えはいつも通り、ということだった。やっぱり久しぶりの仕事だったから、変に緊張し、疲れたのだろうと思った。それを察したのか、矢島が私に言った。 「店長、病み上がりだから疲れたんですよ。仕込みは俺がやりますので、ちょっと休んでいてください」  このセリフも想像通りだが、私も出勤した以上、そういうわけにはいかない。厨房に一緒に立ち、仕込みをしながら口も動かした。 「再度店を任せる感じなったけれど、どうだった」 「店長の体調不良とはいえ、大切な店を任せてもらったのは大変嬉しかったです。なんだか自分の店を持ったような感じで頑張れました。常連の相沢さんは店長の姿が見えないことに心配されていましたが、事情を話すと早く復帰できるといいね、といったことを話されていました。多分今日もお見えになると思いますので、店長の元気な姿に見ると安心されますよ」 「そう、相沢さんも気にかけてくれていたんだ。嬉しいね。今日来店されたらご挨拶しておくよ」 「お願いします。相沢さんにとっては店長とこの店がセットになっているようで、ここで頑張っている姿を見て元気をもらっている、ともおっしゃっていました」  私はこの言葉を聞き、一瞬転職は自分の我儘なのではと思い、本当にその選択が正しいのかどうか迷った。確かに、今私がいろいろ考え、できるのはたくさんの人の助けがあってのことだ。だから自分の思いだけでその構図を変えてしまうことに、一種の罪悪感のようなものを感じてしまった。  表情こそ変えなかったが、こういうことを聞くにつれ心にグサッと刺さるものがある。  人の心は弱いものだと感じる時だが、そうなると自分の決心に揺らぎが出る。でも、人はやりたいことができなかったということが人生の最後で最も後悔する、という話を聞いたことがある。自分の人生が良かったと思うためにも、ここはきちんと考えたことを伝えようと思った。  その時、矢島やこれまでお世話になったいろいろな人に迷惑を掛けないようにしなければということを再度心に確認し、そのための方策を今晩、美津子と相談することにした。そこでは全てを話すというのではなく、今後のことで相談という建前にし、その上で4人に集まってもらう日程について矢島に考えてもらい、複数の案を出してもらった。2号店の予定と合わせ、そのうちのいずれかで話すことを決めた。矢島としては何の話が出てくるのか分からないわけだが、今後の店の経営方針などについてだろう、という気持ちだった。      ◇  夜、私と美津子はいつも通りの時間に帰宅した。簡単に夕食を済ませた後、ビールを持ってリビングに移動した。食事中は世間話程度の会話だったが、リビングに移動するといつものように互いの店の様子を話し合った。そこでは、私たちの今後についてのことをみんなに伝えるためということは話さず、私と美津子、そして矢島と中村の4人でミーティングの場を設けるということまで告げたことを確認した。2号店の予定と合わせ、最も都合が良さそうなのが来週の月曜日になったので、事前にこの日の夜の部の休業を店内で告知するようにし、午後6時に1号店に集合することにした。いつも通り、夕食については店内でということにし、1号店ではその準備をしておく、ということになった。 「ところで、休みの間の矢島君、あなたと直接話してどうだった? 私も電話で様子を聞いたり時々顔も出したけれど、しっかりやっているようだった」  美津子が矢島の様子を話した。店で聞いた話からも矢島の頑張りは私も理解していたのでそのことを美津子にも話した。 「それならあなたが1号店から抜けても大丈夫そうね。中村君の場合、まだそういうことが無いので分からないところもあるけれど、矢島君とは良い意味のライバル心があるようだから、何とかなるのではと思っている。一応後継者候補がいるという前提で話すことになりそうだけど、今度の話は新メニューの話のような次元じゃないから、おそらくみんなびっくりするでしょうね」  ちょっと前までは私たちの転職については慎重だったが、今では私よりも積極的になっている美津子の言葉だった。それはそれで有難いのだが、私の中ではみんなの気持ちが気になる。ここに至っても私の気持ちのふらつきがあるが、決めた以上はやり抜く意識でなければ成功することだって失敗する。美津子と話している中で、私は改めて自分の心に言い聞かせた。 「それでミーティングで話すことだけど、基本的な方針としては店の経営については矢島君たちに譲り、俺たちは例えば会長・副会長といった立場になり、経営からは退く。しかし、みんなの相談には乗り、会社の発展に寄与するというスタンスで、一定の報酬ももらう、ということで良いね」 「そうね、以前話した通りよね。それからこれも話したと思うけれど、私たちが開業したら、お店の福利厚生の一環として、矢島君や中村君たちの健康管理として施術を受けてもらう、というのもあったわね。そういう時はもちろん無料だったよね」  私が忘れていたことを美津子が思い出してくれた。自分の経験から身体のメンテナンスは必要と考えていたので、こういうことについては外からきちんと応援しようと思っていたのだ。  実際に話すと他にいろいろ出てくることも予想されるが、その時は誠意をもって対応したいと考えている。  ただ、矢島たちとしては、今後も一緒に仕事できると思っているだろうから、そういうメンタル面の対応のほうが難しいかもしれない。  もっとも、みんな大人なので、きちんと説明すれば理解してくれるものと信じ、当日を迎えようということで話は落ち着いた。      ◇  それから数日後、矢島や中村と話す月曜日を迎えた。私は矢島と一緒に美津子や中村がやってくるのを待っていた。  今日はどんな話になるのか、ランチタイムが終わり後片付けをしている時から矢島がいろいろ尋ねていた。しかし、今日みんなに話すことは1人だけ先に話すような内容ではない。全員揃った上できちんと話すことが筋であり、そうしなければこれからやってくる中村が不快な思いをするかもしれない。だから私は矢島の質問をうまくはぐらかし、他の話題へと持って行った。 「コロナ、どうなるだろうね」 「先月の終わりに営業時間の短縮要請が出ましたよね。まだこれまでの業績が回復していないところなので、ウチとしても厳しいと思っていましたが、それでもランチタイムやまだきちんとはできていないけれどお弁当の企画などもスタートしていますので、そういうところが少しずつプラスになっていると思います。コロナの収束は専門家じゃじゃないので分かりませんが、我々ではどうしようもないので、やれることをやり、仕事としてはつぶれないように工夫していくだけだと思います」  相変わらずの力強い言葉だった。  確かにコロナのことが社会的に大きな問題になった時、私たちは全員でいろいろ工夫し、そして頑張ってきたつもりだ。その経験をベースにした矢島の発言だったのだろうが、こういう言葉を聞くとこれから4人で話すことについても何となく安心している自分がそこにいる。矢島や中村にとっては突然の話なのでびっくりするだろうが、いずれ話さなければならないし、2人の気持ちがまとまらない場合は別の方向性も考えなければならない。そこは話してみなければ分からないが、この時間に矢島と話していると私の心配が杞憂なのではと思うところがある。  でも、人の心は分からない。もしかすると、私と美津子だけが別の世界にいて、この世界とは異なる動きをしているのではという思いもある。特に仕事に復帰し、矢島たちと接していると特にそう思う。帰宅し、美津子と話すことで再び自分の考えに戻るが、いろいろな考えがあちこちと飛んでいる自分の心が見えてくる。  ふと、美津子はどうなんだろうと思うことがあるが、気持ちの揺らぎを感じさせない。意識してそうしているのか、今になって心が揺らいでるのは自分だけなのか、と考えてしまうが、そういうところを思う自分が嫌になることがある。これまで居酒屋の仕事では率先していろいろなことを決め、そして良い方向に進んできた。  でも、今はそういった羅針盤が落ち着いて作動しない。これも年齢のせいかなとも思うが、そういった無責任なことは思いたくないという自分が自分を叱咤する。最近、こういった迷いばかりを感じるが、もうすでに動き出しているわけなので、ここで止まるわけにはいかない。コロナ感染第2波が見えている今、本気の経営が求められるし、今みんなの生活のベースになっているこの仕事を守り、かつ自分の方向性も求めるという話を今日、きちんとみんなに話し、協力を乞うようにしなければならないと改めて自分に言い聞かせた。そして、みんなに話すことで後戻りできない自分の立場を作り、次のステージを求める、ということを心に決した。  矢島と話しながら、心の中とのギャップを感じていたが、自分に対する言い訳をいろいろ考えつつ、コロナの話を中心にした世間話に終始した。  予定の時間の10分前、美津子と中村が1号店に着いた。 「お疲れ様です」  全員、ほぼ同時に同じ言葉を口にした。その時、全員の目が合い、思わず笑顔になった。その瞬間、大変和やかな良い雰囲気になったと思ったが、これからの話でどんな表情になるのかが心配になった。明るく和やかな雰囲気は私たちの店の特徴だったので、それが壊れることに心配があったのだ。 「今日は仕事を休んでまで集まってもらったけれど、みんなに大切な話があるんだ」  私の言葉からミーティングが始まったが、それが第一声だった。瞬間、みんなの表情がこわばった。さっきの笑顔にしても今の緊張もマスクをしている状態からなので微妙なところは分からないが、それでも表情の雰囲気が大きく変化したことは分かる。つまり、この第一声は時節柄、最悪な話になるのでは、という懸念が現れた表情だったのだ。それは矢島からの質問が物語っていた。  矢島は先ほどまで柔和な雰囲気が消え、しっかり先ほどの言葉の真意を聞こうとした。 「店長、さっきまでの感じと違い、とても緊張していましたね。もしかして経営のことですか? それなら俺たちももっといろいろ意見を出して売り上げアップを考えますし、中村、お前もそうだろう」  中村にも同意を求めたが、当然中村もその話には同調している。そしてその上で話した。 「この前、弁当のデリバリーの企画なども出ましたが、もっとこの点についてのアイデア出しなどがあるのではと思っていましたが、そういった積極的な意味でのミーティングだと思っていました。何を話されたいんですか?」  まだ話はスタートしたばかりだが、具体的には何も説明していないので良からぬ考えに結びつくのも無理はない。かといって説明する時間を設けていないのでこういう感じになっても仕方ない。事前に今日のミーティングのテーマを話しておく手もあったが、私たちの転職と仕事の移譲のことなので、きちんと順を追って話さなければならない。彼らが予想していない感じで話し始めたことでいつもと違う雰囲気になるのは、コロナがもたらす言いようのない不安感や苛立ちなどが関係しているのかもしれない。突然、大切な話があるといった大きなテーマのイメージで話し出されたのであれば、時節柄、廃業・閉店などのことと思ってしまっても仕方ないだろう。だから私はそういうことではないということを理解してもらうため、順を追って話すことにした。ただ、さっきの反応からみんなのためにプラスになると思われるところからスタートした。 「この前、俺はコロナではないかと思うようなことになり、みんなに心配かけたよね。それからあまり間を置かず、今度はギックリ腰になり、またみんなに迷惑をかけた。直接的には矢島君だけど、美津子が2店舗を見るようなところもあったため、中村君にも迷惑をかけだ。この点についてはこの場でみんなに謝りたい。申し訳なかった。・・・そしてその間の話を聞き、君たち2人なら今後の店の運営を任せても良いのでは、と思ったんだ」  この話を聞き、2人は無言になった。互いに顔を見合わせつつも、適切な言葉が出てこない様子だった。その様子を見て美津子が言った。 「今、社長が言ったこと、びっくりした? 当然よね。体調が回復して初めてのミーティングの話としては似つかわしくないわね。でも、これは私たちが2人で話し合ったことなの。ただ、誤解してほしくないんだけど、コロナで大変だから居酒屋の商売から身を引きたいということじゃなく、別の考えからなの。今回の社長のことであなたたちの頑張り方や店に対する愛着のようなものがよく分かったわ。私たちが苦労して育ててきた店だもの。潰したくないし、きちんと後を任せられる人ができたからこそ考えているの」  美津子は私の言葉をフォローする形で説明した。  美津子の説明で矢島と中村は顔を見合わせたまま固まった。その様子を見て私が話し始めた。 「いきなりこんな話をして申し訳なかった。でも立ち話で話すようなことでもないので、改まった形できちんと説明したかったんだ。今日のミーティング、居酒屋としての新しい企画といった話と思っていたかもしれないけれど、そうじゃなく、俺と美津子、そして君たちで盛り上げてきたこの店の次のステージと、俺の我儘のところも大きいけれど、そういうことを合わせた話になる。だからその話をきちんと聞いてもらい、その上で判断してほしい。俺が言うのも何だが、もし君たちがこの仕事に愛着を持っているなら決して損するようなことではないと思っている。俺たちだけにプラスになるようなことならこんな場は設けない」  私は2人に視線を合わせ、静かに話した。先ほどと違って矢島と中村も穏やかに聞いているように見える。 「それで店長、具体的にはどうしたいということですか? 俺には何を言っているのかよく分からないんですが・・・」  矢島が言った。中村も頷いている。気持ちを落ち着かせるためか、私の第一声の後、2人ともテーブルに置いてあるウーロン茶で喉を潤している。この日は話の性格上、最初はノンアルコールの飲み物を用意するということで予め伝えてあったが、私が最初に話した後は一口飲んだまま2人ともコップを握った状態になっていた。気持ちと共に身体も固まっていたのだろう。美津子はそういった雰囲気を少しでも和らげようと、また口を開いた。 「さっき社長が最近の自分のことを話したわね。そのことを踏まえ、休みをもらった時、いろいろ一人で考えみたいなの。私も先日、これから話すことを聞いた時、何言っているの、と思ったわ。これまで居酒屋が天職のようなことを言っていた人が、全然違う仕事の話をした時、おかしいと思った。でも、話を聞いていると少しずつ言っていることは理解できるようになった。それでも現状を考えると、こういう時によく分からない世界に飛び込むなんて信じられない、という気持ちだった。ただ、それが自分の経験から出た結果であり、万人が意識する健康に関係する仕事なら、ということで少しずつ考えるようになった。・・・具体的には整体の仕事ね。私たちが奥田先生のところに通っているのは知っているわね。あなたたちも行ったわけだけど、施術を受けた後はリフレッシュしたと思う。簡単に言うとそれを仕事にしたい、ということなのよ」  美津子は私が整体師としての仕事をしたいということを考えた経緯を簡単に話してくれた。それでも2人の表情を見ていると納得したとは思えない。 「まだ分かったような分からないようなところですが、さっき見えなかった居酒屋の次にやりたい仕事が整体というわけですね。確かに自分も施術を受け、心身もすっきりした経験がありますので、それはそれでやりがいもあるでしょうが、今の仕事を辞めてまでやろうとする気持ちは分かりません。今、俺たちはここで一生懸命頑張っていて、コロナという中を切り抜け、収束後にはまた以前のような活況を期待していたんです。その時のリーダーがいなくなる、というのはとても心配です」  矢島は自分の杞憂について話した。 「矢島君、その心配はよく分かる。もし俺が君の立場なら、多分同じことを言うと思う。一緒にやってきた仲間だし、俺も最近の体調不良が続かなければこんなことは考えなかったと思う。でも、自分が体調を壊した時、改めて仕事に対するやりがいというところを再度考えた。もちろん、居酒屋という仕事にやりがいを感じなくなったということじゃなく、今でもこの仕事についてのやりがいは感じているし、何よりもお客様の笑顔を見ることは大好きだ。でも今回、今度は違う立場で自分の笑顔を体験した。そして、そういう笑顔を見ることができる仕事を意識するようになった。一口に体調と言ってもいろいろあるし、コロナのことなどは今、最たる問題だ。整体師は医者ではないのでコロナには関係ないが、誰でも身体で実感する腰や肩のトラブルを解消する時の笑顔を見たくなったんだ。もちろん、これは俺の我儘だ。俺がただの一スタッフであれば自分で店を辞め、転職すれば良い。でも君たちを雇用する立場としての責任がある。だからこそ悩んだけれど、自分の気持ちを確認し、美津子ともきちんと話し合ったつもりだ。一応の結論が出たので今日、こういう場を設けさせてもらった。寝耳に水という状態だろうから今話していることをすぐに理解してほしいとは思わないし、よく考えて返事を聞かせてもらえればと思っている」  まだ十分説明したわけではないが、みんなにも言いたいことがあると思うので、とりあえずここで話を止めた。そのタイミングで今度は中村が質問した。 「今、社長が話されたことはご自分のお考えだと思うのですが、自分たちはどうなるんですか? この店はなくなるんですか?」  心配そうな表情で尋ねた。 「中村君、そうじゃないのよ。話の初めのほうでこの店の経営を2人に譲るという話、覚えている? これは私たちの願いでもあるんだけれど、みんなで作り上げてきた店はこのまま残し、さらに発展させていってもらいたい。これが私たちの願いなの。話の流れからこの点があまり印象に残らなかったかもしれないけれど、店も存続させたいの。私たちもコロナの問題がなかったら3号店のことを考えていたけれど、その時は私と社長の2人だけでは運営できないので、順序としてはまず矢島君に3号店を任せ、4号店を開く時は中村君をと考えていたの。今は時期的にそういった拡大はできないけれど、1号店と2号店には常連のお客様もいらっしゃるし、最近の新企画もそれなりにうまく行っていると思うわ。周りの様子が変わればまた以前の活況は取り戻せると思う。私も仕事のこと、数字のことだけを考えるならば、これまでやってきた居酒屋から身を引くという選択は無いかもしれないけれど、家の主人でもある社長との関係や、彼がやりがいとして考えたなら、それを応援したいと思ったの。でも、私もあなたたちのことがいつも頭にあって、そのことをどう考えるか、ということはきちんと問い質したわ。そして出てきた話が2人に店を譲る、ということだったの」  私が話すよりも、もう少し客観的な気持ちで聞くことができる美津子の説明のほうが理解しやすかったのか、2人とも最初の頃よりも柔和な表情になっていた。 「副社長、お話は分かりました。でも、先日みたいに一時的に責任者として頑張る場合は別ですが、俺たちが店の経営だなんて、ちょっと荷が重いと思います。特に今はただでさえ舵取りが難しい時期だと思いますので、ここで任せると言われてもやっぱり不安です」  矢島が言った。 「君の不安も分かるよ。でも、俺が休んでいる時、きちんと店を回してくれたじゃないか。そういう様子も見たことも今日の話に関係しているんだ」  私が矢島の不安に応えるつもりで話した。 「でも、店長、それはまだ自分の上の存在があり、頼れる人がいたからです。だから、その存在が無くなったら、多分先日のような意識ではできなかったと思います」  矢島のその言葉に中村も同意するかのような表情になっていた。 「その気持ちも分かる。俺が独立して店を持つ時も同じように不安があった。でも、それよりも自分の店を持ちたいという気持ちが強かった。そしてそういう思いを持つなら何とかなる、ということも経験してきた」  私は矢島の心配に対して話したつもりだが、まだ心構えができていないところでは心配のほうが先に立つのだろう。矢島さらに私に言ってきた。 「でも、店長の場合は独立までいろいろ考え、その上で決心され、今のお店をオープンされたんでしょう。俺の今の状態とは比較できません」  この話も当然だ。誰しも突然責任ある立場の話をされても戸惑ってしまう。これも立場を変えると分かることなので、私もさらにその理由について説明した。 「その意見ももっともだ。十分考えた上での決心ならば心配があってもやれるだろうが、それがまだという場合なら躊躇するのも分かる。でも、いくら俺が別の仕事をしたいからと言って勝手に決めたと思うか? 経営者として自分の補佐を決めるという時、それなりのチェックをし、その上で育てていくという意識で臨んでいる。仕事の合間に将来の夢なども尋ねたが、居酒屋をやりたいと言っていたよね。その上でこの前は俺が何日も休んでいたけれど、きちんと責任を果たしてくれた。そして、店の売り上げがダウンした時、積極的にいろいろアイデアを考え、それが今の状態に続いている。単なる飾りだけのチーフではなく、経営者としての意識の部分を見たからこそ、今回の話にもなっているんだ。そしてこれは矢島君だけじゃない。中村君も同じだ。直接様子を見られるのは俺の場合は矢島君だが、中村君のことは美津子から聞いている。だからこそさっき話した視点で責任者候補としても挙げていたんだ。ただ、ウチでのキャリアから考えると矢島君のほうを先に店長にと考えていたけれど、ミーティングの時の様子などは直接見ている。だからこそ、私たちが退いた時、そのまま1号店・2号店を全面的に任せることができると思ったんだ」 「そんな風に店長たちが見てくれていたんだ、ということは初めて知りました。過分な話に少し恐縮していますが、それでもやっぱりいきなりというのでは自分には荷が重いです」  矢島が言った。そして中村も同じような内容を口にした。 「いずれ店を持ちたいと思っているなら、どこかでハラを決めなければならない。今回の話は自分からということではない分、戸惑いや不安があるだろうけど、俺も譲るとは言ってもきちんと運営してもらわなければこれまでのことが無駄になる。だから譲ったら完全の身を引くなんて無責任なことは言わない。一応この店は会社組織にしてあるので、俺と美津子は代表権が無い会長、副会長という立場になろうと思っている。もちろん次の社長の同意が必要だが、そういう立場から2人がうるさいと思わない範囲で助言というカタチでフォローしていきたいと思っている。そこが居酒屋とは縁が切れないところになるが、もちろん、店にもできるだけ顔を出し、現場の仕事の手伝いもするつもりだ。整体を勉強した後、すぐに開業することは考えていないので、学校に行っている間も含め、できるだけみんなと一緒にいて、店の将来も見ていきたいと思っている。開業した時には2人だけでなくスタッフ全員の健康管理の意味で施術を受けてもらうことも考えている。福利厚生の一環となると思うけれど、他の居酒屋ではできないことだと思うので、求人募集の時の差別化になるかもな」  このあたりの話になると、全員それなりの笑顔になっている。私がいい加減に転職の話や店の譲渡などの話をしたのではない、ということが分かってもらったようだ。 「それからこれも理解してもらえれば有難いけれど、フルタイムでの仕事はできないだろうが、会長職としての給料は用意してほしい。本音として、開業してもすぐに売り上げが十分ということではないかもしれないからだが、それとは別にこの店に対しても責任という意識をキープしておきたい、という思いがあるからだ」  私は2人の顔を見ながら話した。この話に対する嫌な反応はなく、その回答はすぐに矢島の口から出てきた。 「今初めて伺った話ですから、お引き受けするかどうかは考えさせていただきたいと思いますが、もし私がやらせていただく時には当然そのことはやらせていだたきます。普通、店を譲渡するという時にはそれなりの金額になると思いますが、もし店長がその給料分を譲渡に必要なお金としてお考えなら、俺にとっても夢が叶う話でもあるので有難いです」  矢島のこの話について、中村も同意するかのように頷いており、最初の雰囲気と比較すると大きく異なっていた。  ここまで話すと、後は2人にまずしっかり考えてもらい、後日返事をもらうことにした。2人にとっては大変大きな話になるし、すぐに決心できるようなことではないので、各自できちんと考え、途中で疑問点があれば遠慮なく聞いてほしい、ということを告げた。私の感触としては多分引き受けてくれるのではと思ったが、一人で冷静になったらどうなるか分からない。コロナという状況が無ければ話は違うと思うが、私たちが経営のことで悩んでいる様子は2人とも知っている。しかもこれはウチの店だけのことではなく、ほとんどの業種が経営的に大変なわけで、こういう時に自分の店を持つことのリスクも考えるだろう。  それは整体院開業を意識する私の場合も同じだが、居酒屋をスタートする時とは社会環境も違う。私としては居酒屋の開業時、それなりの強い意志も持っていたつもりだったし、だからこそここまでやってこれたが、2人の場合は私とは異なる。その違いがどう転ぶかは分からないが、良い返事を期待するということを思いつつ、この話は一応終了した。  そしてこの後は私が今回の話をするに至った経緯をもう少し詳しく説明することになった。こういうところも2人の意思決定に関係するだろうし今後、何かの役に立てばという思いもあるからだ。 「それで店長、今回のような気持ちになった理由ですが、さっきほど話されたご自分の体調不良ですか?」 「そうだね。最初のコロナかと思った時には、ニュースをいろいろ耳にしていた分、とても不安だった。もし重症化し最悪、死んだらとか思ったし、仮に軽症でも味覚や嗅覚に障害が残ることがあるそうだから飲食業に携わる場合、致命的だよね。そうなると、今日の話どころではない形で転職を考えなければならないかもしれない。幸い、そうじゃなかったし、その後も何も問題もない。でもすぐにギックリ腰になっただろう。その激痛からもう立てないんじゃないか、といった恐怖心が出てきた。病院に行っても薬をもらっただけで痛みは改善しない。そこで奥田先生に相談したらたった1回でほぼ回復した。用心してその後も施術をお願いしながら、少し休みをもらってみんなに迷惑をかけたカタチになった。2度続けて現在や将来を考えさせられる結果になったけれど、改めて健康の有難さを単なる話ではなく身体で実感した。そしてその立場でそういうトラブルで悩む人たちに何かできれば、ということを考えたんだ。俺は仕事を単に生活費を稼ぐためのものとは考えていなくて、そこにはやりがい、というキーワードがある。金銭的には贅沢ということではなく、少しゆとりがある生活ができるくらいで良いと考えている。居酒屋についても、コロナ以前の時には銀行から支店をオープンする時には相談に乗ります、という話を何度もされた。でも、堅実な経営を意識しているのである程度の自己資金を溜めてから次の店をと考えていたんだ。それで3号店を考えるだけの状態になった時にコロナの問題になっただろう。それで支店を増やすことにブレーキがかかった。もっとも、人材がいなかったら3号店の話はなかった。でも、さっき話したように君たち2人がいてくれたおかげで全然違う展開が考えられるようになった。俺は本当に周りに恵まれたよ」  美津子は私の話を横で頷きながら聞いていた。その美津子に対して中村が質問した。 「社長のそういう考えは理解されていたんですか? 俺ならビジネスとしてもっと売り上げをアップし、ちょっとは贅沢な生活もしたいなと思うんですが・・・」  中村は数字のほうに興味があるらしいが、仕事として居酒屋をやるなら数字を軽く考えるようでは務まらない。私が見る限り、矢島はどちらかと言えば私たちに近いように思うので、近くに数字を意識する考えを持った人材がいるのは心強い。コロナが落ち着き、少しずつ人の流れが以前のようになった時、健全なカタチで仕事の拡大を図ることは当然だ。私たちもそれを考えていたわけであり、2人がうまく噛み合うようになれば私たちが作ってきたこの店の雰囲気を壊さずに続けてもらい、さらに発展させるのではないかと秘かに期待した。 「それで整体院のことですが、俺たちはその仕事のことはほとんど知りません。これから勉強して開業なんてできるんですか?」  矢島が心配するような感じで尋ねてきた。私もまだ全然足を踏み込んでいない世界のことだからきちんと答えられるわけはない。そのためこの問いについての回答は先ほどまで異なり、どうも歯切れが悪い。そういう感じになると場の雰囲気も少し暗めになるが、矢島はここで嬉しいことを言ってくれた。 「もし難しそうなら、またこの店に戻ってください。まだ決めたわけじゃないけれど、せっかくのお話ですので前向きに考えさせていただきたいと思っていますが、もし仮にうまく行かないような感じであればまた居酒屋をやれば良いじゃないですか」  思っていない話に私の心には熱いもので一杯になった。同時にこういうセリフが出てきたことで、少なくとも矢島は今回の話をきちんと受け止めてくれたということが分かった分、収穫があったと思えた。       ◇  3日後、店に行くと矢島がすでにいた。 「おはよう、今日は早いね」  私が言った。矢島も朝の挨拶をすると、続けて言った。 「店長、先日のお話ですが、本当に私で良いんですか?」  矢島は真剣な顔を尋ねてきた。私は一瞬、その雰囲気に圧倒されたような感じだったが、それだけこの質問には本気度が存在していることになる。ただ、私の答えは一つしかない。 「もちろんだよ。みんなの前でしっかり話したんだ。君たち以外に任せようという人はいない」 「ありがとうございます。そんなに私を評価していただいて感謝します。もう一つお尋ねしたいんですが。もし私たちがお断りしたらどうされます?」  こういう質問も予期していないわけではなかったが、実際に聞かれると結構心が重くなる。自分としてはある程度の覚悟を持ち、そのつもりでいたから気持ちのベクトルはそちらに向いているからだ。  今回のような話の場合、思った通り進む場合もあれば、そうでない場合もある。もし後者の場合、自分の思いを断念することも考えなければならない。それが私にとって今の矢島の質問を重く感じる理由になるわけだが、聞かれた以上きちんと答えなければならない。 「もしNOだったら、前日の話は無しということになり、今まで通り居酒屋を続けていく。みんなの仕事のこともあるし、居酒屋という商売が嫌になったわけじゃないから・・・。その場合はみんなの気持ちをかき回したようなことになって申し訳ないと思う」  私の返事を聞いて矢島は少し考えていた。数分経った時、再び口を開いた。 「実はお話をいただいた次の日の夜、中村君が私のアパートに顔を出したんです。そして先日の話について2人で話し合いました。結論からお話ししますが、中村君も俺と同じように将来、居酒屋をやりたいと思っていたようです。この点は俺と同じであり、そういうところからはチャンスが巡ってきた、と思ったそうです。それは俺も同じでした。でも、ここから考えが分かれたんですが、中村君は自分のキャリア不足を感じているし、責任という意識も経営者としてまで高まっていないということでした。例えば2号店の店長ということならば大丈夫と思いますが、ということでした。まだ、自分が経営の全責任を持ってやっていくというところまでは高まっていないようです。その上で言っていましたが、先日の話は俺を中心に話をされたのではないか、ということも言っていました。その点はどうですか?」  この質問に対して私もすぐに返事ができなかったが、はっきり言わなければならない、ということできちんと答えた。 「その通りだよ。ただ、2人揃っているところで矢島君をはっきり指名したら中村君が傷つくのではと思い、曖昧にしていたところがある。でも、キャリアや年齢的なところでは矢島君が社長という責任者としては適任だと思っている。だから2人の考えは当たっているよ」  私は矢島からの視線を逸らさないようにして、はっきり答えた。矢島もその様子を理解したように見えた。  矢島は少し何か考えているようだった。実際には5分くらいだったが、私にとっては結構長い時間だった。その様子に立場が逆になっているような感じもあったが、ここでの返事は店と私の今後も関係する。だからこそ、矢島からの言葉は将来を左右する大きなこととして認識していたのだ  そういうことが関係するのか、矢島は目線をあちこちに動かし、口から発する言葉を熟考している様子は分かったが、その後、目線が私の方を向き、しっかりした口調で言った。 「店長、分かりました。今回のお話し、有難くお受けさせていただきます。先日、店の譲渡という全く考えていなかったことをお話しいただき、とても驚きました。俺は以前も話したように将来自分の店を持ちたいと思っていましたが、現実は夢に終わる可能性が高いのでは、と思っていました。一番の問題は資金ですが、こればかりはどうしようもありません。だから夢は夢として、好きな居酒屋の仕事はこのままお世話になって続けていければと思っていました。そしてチャンスがあれば支店ができた時に任せてもらえるように実力を付けていきたいと思っていました。それが店長ではなく、もっと大きな話をいただき、しばらくこれは本当に夢ではないかと考えていました。だから今、再度確認させていただいたわけですが、改めて今回のお話がそうではない、ということが理解できました」  矢島はそう言って深々と頭を下げた。その様子は私が恐縮するほど丁寧で、心がこもっていた。そういう姿を見て私は言った。 「実はね、先日2人に話した後、美津子といろいろ話したんだ。突然の私たちの申し出にどう応えてくれるか心配した。今回のことは私たちの、というより私の我儘のようなことからの話であり、時期的にもコロナのことで世の中が大変だ。話の受け取り方によっては私たちがこの仕事を放り投げたように思われるのではないかとか、こういう話をすると経営が危ないからということで2人が店を辞めてしまうのではととても不安だった。そうなれば、私たちが続けていくにしても頼れる人材がいなくなることで本当に危なくなる、と思っていたんだ。だから、この前の話は俺たちにとっても一つの賭けだった。そういう気持ちでみんなに話し、そして今まで待っていた。だから今、矢島君が引き受けてくれたことは大変嬉しい。ここ数日の重かった心が一気に軽くなった。本当にありがとう」  私は矢島の手を両手で強く握った。その様子は本来の関係とは逆のような感じではあったが、この行為はそのまま私の感謝の気持ちだった。  もちろん、感謝ということでは矢島も同じで、すぐに私と同様に両手で私の手を握った。時間にしてはそう長くはないだろうが、気持ちの中では結構な時間に感じていた。  ただ、矢島は了解してくれても中村のことは分からない。それでそのことについて矢島に尋ねた。 「それで君たちが話した時、中村君はどう言っていた?」 「そのことは確認してあるのでさっきお話ししたんですが、俺が社長ということであれば自分も一緒にやりたい、と言っていました。やっぱりあいつも居酒屋という商売が好きなようで、しかもこの店の雰囲気が好きということでした。今回の話で中村と腹を割って話しつもりですが、俺も一緒にやっていけると感じました。そういうことがあったから今朝、最終的な確認ということでお尋ねしたんです。俺たちにとても大きなチャンスをいただき、必ずこの店を大きくしていこうと強く思いました。私たちの方こそ本当に感謝しています。ありがとうございました」  矢島は強い口調で私に言った。  私はその雰囲気に熱いものを感じていたが、こういう展開になれば現実的な話もきちんとしなければならない。 「矢島君からの話は正式な返事として受け取ったけれど、現実にはいろいろ取り決めが必要になる。俺たちの今後の予定などもきちんと話しておかなければならないし、この件についてはまた4人で話し合おう。今の話、美津子は知らないわけだし、良い話であれば早くみんなに知らせ、次のステップに移行しなければならない。ただ、今日はこういう話になるとは思っていなかったので、何の準備もない。でも話の性格上、俺が今日家に戻り、そこで美津子に話すというよりも4名揃って話した方が良いと思うけれどどう?」 「はい、実は中村君にも今日俺が店長に確認すると言ってあります。その場合、今、店長がおっしゃったようなこともあり得るだろうと今晩の予定も空けてもらってあります。もしよろしければ今晩ではどうでしょう」  矢島は今後の流れも念頭に置いて中村と話していたようだ。事前に打ち合わせを済ませているというところなど、調整力もあるようでなかなか頼もしいと思った。 「もちろん俺はOKだ。ただ、美津子にそのことを知らせないといけないし、話の時間も読めない。一番大きなところがクリアしているので時間はかからないだろうが、念のため今晩は少し早めに店を閉めよう。先日時短の要請の話が出たばかりなので、早仕舞いしてもお客様からは何かの対策だろうと思っていただけると思う。でも、そのお知らせはすぐに作って、店頭に張り出さなければいけない。まだ朝の準備の最中なので2号店に電話して、すぐに対応してもらおう。君が提案を了承したくれたことを簡単に話し、その上で今晩こちらに集まることにしよう。・・・それでいいですね、新社長?」  私は笑みを浮かべながら矢島に言った。とても照れ臭そうな様子だったが、その表情はまんざらでもないような感じだった。 「店長、何を言っているんですか。そういうことを言われると恥ずかしいですよ。いつも通り、名前で呼んでください。俺にとっての社長は店長しかいないんですから・・・」  矢島は照れながら言った。その様子はとても微笑ましく、また気持ちが表れたものとして私の目に映った。  そういうところを見た後、私は2号店に電話した。電話に出たのは美津子だった。 「もしもし、今日、8時に閉店して1号店に中村君と来てもらえないか。先日の返事を今、矢島君から聞いた。OKだったので、今後のことを話し合いたいんだ。中村君も矢島君と話し合っているそうで、今晩の予定は大丈夫らしい」  私からの電話に美津子も驚き、そして喜んだ。もちろん今晩の予定については二つ返事だった。近くに中村もいるようで受話器の口を塞ぎ、確認している。その後、続きは1号店でということになった。      ◇  店は予定通り午後8時に閉店し、私たちは後片付けをしていた。2号店も同じような状態だろうが、移動が無い分、時間的な余裕ができる。 ということで、私たちは片付け終わったら美津子と中村が来た時のための準備をすることにした。今晩は良い話であり、議論が白熱するようなことではない。今後の方針についてのミーティングのような内容になる。だからきちんと食事をとってもらおうという配慮だ。私は矢島と相談し、今ある食材も考え、メインを寿司にした。これなら全員揃う前に準備できるし、簡単に好きな量を食べることができる。時節柄、各自に小分けしておくこともできるので、それをメインの料理として、他には酒のおつまみ的なものにしようということになった。おつまみ的なメニューについては居酒屋のシステムですぐに用意できるし、この点は食べたいものが出てきた時に作ることになった。 私と矢島は2人で準備しながら、今晩の話の流れと今後のことなどを考えていた。実際にそれを口にするのは全員が揃ってからになるが、腹案を持っていなければ話が進まない。もっとも、先日2人に話した時にある程度伝えてはあるので、今晩はその上での話になる。また、決心した後の話となると、詳細なところにも触れることになるだろうから、そういうところも意識しておかなくてはならない。私の頭の中ではそういう思いがいろいろ広がるが、手だけは寿司を握るということをやっていた。  午後9時近くになり、美津子と中村が1号店にやってきた。私たちは満面の笑みで2人を迎え、テーブルに案内した。椅子の間隔は十分に取り、メインの寿司は個別に用意してある。おつまみも定番の枝豆を個別に準備し、グラスも置いてある。飲み物はどうするかは決まっていなかったが、可能性としてはビールだろうということでのセッティングだ。  それぞれ着席したところで乾杯となるところだが、実際にはいきなりビールということにはならなかった。中村が大切な話だから最初はアルコール無しでやろうと提案したのだ。これまではそういったことは言わなかった中村が、この日は違っていた。こういうところもやはり自覚の表れだろうと私は思った。意識の違いが人の発言や行動も変える、ということを改めて実感したところだった。  ということで、乾杯はウーロン茶でということになったが、厨房のほうからジョッキに注いで4杯持ってくることになった。これは矢島の仕事になったが、それを見て美津子が言った。 「あら、新社長にそういうことをやらせて申し訳ないわ」  美津子は茶目っ気たっぷりに言った。 「副社長、今朝も店長からそういった感じで言われましたが、照れくさいので止めてください」  矢島は真顔で言ったが、朝と同様、まんざらでもない表情をしている。その直後、美津子は中村に向かっても言った。 「まだ正式には聞いていないけれど、矢島君とは話し合っていたようね。副社長、2人でうまく切り盛りして、この店を繁盛させてね。こんな時期に大変だと思うけれど、私たちも2人の邪魔にならないようにしながらできる限り手伝うし、決して君たちにすべてを押し付けるようなことしないから安心して。しばらくはこれまでと違うことで惑ったりするかもしれないけれど、私たちも2人の様子をきちんと見た上で話したわけだから心配はしていない。でも、何かあったら相談してもらいたいわ。頑張ってね」  美津子の言葉に中村は恐縮していたが、矢島同様、そういった初々しさはとても好感が持てた。  準備が整い、この日の本題に入ることになった。 「まず、今回は私たちの、というより私の我儘を理解してくれたことに感謝します」  私はそう言って全員の前で深々と頭を下げた。私の転職については美津子も含め、周りの理解や協力が無くては成り立たない。だからこそ、全員集まった席できちんと挨拶とお礼を言っておかなければ筋が通らない。私の心がそう言っていたのだ。  その上でここに至るまでの経緯を再度詳しく話したわけだが、誰も静かに聞いていた。視線は私に向いている。用意した飲み物には誰も手を付けていない。私も今回の決心までには一人でいろいろ考えたが、途中で頭に浮かんだのはみんなで一生懸命やってきたこれまでの日々だった。同業者の中には閉店したところもあるが、ウチはみんなの結束が固く、全員がいろいろ協力してくれ、アイデアも出してくれ、それで何とか成り立っている。そのことは私も十分理解している。だからこそ、自分がその戦線から離脱することについて大いに悩んだつもりだ。  だが、それ以上に2回の体調不良がもたらした健康に関する意識の変化の影響は大きく、私が居酒屋という仕事に感じていたやりがいを上回ることになった。決して今の仕事が嫌になったわけではないし、これまでの人間関係を壊そうとは露ほども思っていない。  しかし、それでも癒しの道を意識するようになったのは直接的に、しかも自分の手で最も大切な身体の状態を好転させ、その時の笑顔が見たい、という現場にいたい、という強い欲求からだった。  そういった内容を改めて話した後、居酒屋という商売も放り捨てることはできなかったという自分の本心を言った。幸い、後継者になりそうな人材に恵まれていたことできちんと禅譲できそうな状況であったことを実感し、今回に至ったと締め括った。その上で再度、私の提案を受け入れてくれてみんなに改めて謝意を述べた。  私が一通り話し終わるまで、乾杯以外は全員飲み物すら口にしていない。今回は乾杯用にウーロン茶を用意したわけだが、話が一段落した時には器の表面はすっかり汗をかいた状態になっており、初めに入れていた氷もほとんど溶けていた。中村は厨房に行き、新しい氷を容器に入れて持ってきた。全員のウーロン茶に入れようとしては、少し飲まなければ溢れてしまう。そこで遅れてしまったが、改めて乾杯し、少し減らした後、氷を入れた。ここからは今後の話になったが、店を譲る際の条件的なことを詰めておかなければならない。  先日、この話をした時の確認というわけだが、今回の譲渡に際し、一切の金銭的なことは要求しない、私たちは経営権を有しない会長・副会長か相談役として店に関係し、その分の給与はいただく、ただし、その額はこれまでの半額程度で、具体的な額については任せる、そして時間があれば店にも出てこれまで通り働き、求められればアイデアを出したりと引き続きこの業界でも何かの役に立ちたい、という話で了解を得た。  通常、店を譲るとなると結構な額のお金が動くことになる。もし、私がよくあるパターンで店を閉じることになれば買い手を探し、通常の形で売却することになるだろうが、それではこれまでここで築いてきた信用や人間関係が無になる。今回はそういったことをせずに任せられる人譲ることができたのは私としても有難いことだ。なるべく負担をかけず、うまく仕事が発展していくよう、これからも見守りたい、ということを話し、一気に場は明るくなった。 「社長、そして副社長、今回の俺や中村の夢を叶えてくださり、感謝します」  改めて矢島が私に挨拶をした。もちろん、その目線は美津子にも向けられたが、直接の上司でしかも現社長が私ということもあるのだろう。いつも私は矢島からは店長と呼ばれているが、この時の社長という言葉の響きは特別だった。 「いやいや、お礼を言うのは私たちだ。改めてお礼を言います。ありがとう」 「話がうまくまとまり、俺も次の人生を歩める。信頼できる仲間に後を任せることができるから、その点は安心だ。立場が異なれば視点も変わり、いろいろアイデアも出てくるかもしれないけれど、その時は検討してくれる? 譲ると言ってみたものの、何か後ろ髪を引かれるみたいな感じだよ。もちろん、その時は経営者としての判断をし、良いと思ったら採用、そうでなければ却下という具合にシビアにやってほしい。現場を離れるとボケてくるかもしれないので、その辺りははっきり言ってください」  私は笑いながら言った。もちろん、譲る以上、変に口出しするつもりはない。だが、何かしらのつながりは持っておきたいという気持ちからか、つい余計なことを言ってしまったかなと心の中で思っていた。だが、矢島も中村も私の気持ちは分かっていたようで笑って聞いていた。  そういう話をしながら話題は具体的に譲る時期のことになったが、10月の決算まで今のままでいて、11月から新体制でいうことを確認した。  必要なことをすべて話した後、ここからは用意した食事をいただきながら、互いの未来についての話で盛り上がった。矢島も中村も表情は晴れやかで、時折希望を持った新経営者の顔になっていた。その様子に私も美津子も安堵していた。世の中が落ち付かない現状ではあるが、夢を持った人間の行動は成功すると信じ、この店の未来を託し、私たちの未来も同様に期待していた。                                【了】
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