6.健康を考える

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6.健康を考える

 今もコロナの問題で世界中が大変だ。私自身も結果的にはコロナではなかったが、もしかするとという思いで心が満たされ、最悪の場合も覚悟し、いろいろ考えた。コロナの場合、自分だけでなく周囲の人に感染させたらという思いがあり、飲食・接客の仕事としてはとても心が重くなる。  そして今度はギックリ腰だ。これは自分だけが辛い思いをすることになるが、感染症とは別の意味で周りに迷惑をかける。今日は身体を休めるために自宅に一人でいるが、その分美津子や矢島たちに忙しい思いをさせている。日ごろ一緒に仕事に汗を流している立場からすれば、たとえ体調が悪いからと言っても気が引ける。しかも、それが続いているとなると余計に申し訳ないという気持ちで一杯になる。  そういうところから、早く体調を回復させ、一刻も早く現場に戻りたいという思いがある。  テレビでニュースを見ていると、連日のコロナ報道を耳にするが、自分の体調不良と重ねて考えるところがあり、自分の中では広い意味の健康の大切さの意識が大きくなっているように思うところがある。  それは最初の体調不良の時にお世話になった病院の医師に対するものであったり、今回のギックリ腰に対応してもらった奥田に対する気持ちとも関係する。  自分の身体に何かあれば、まずその回復を図らなければ何も始まらない、ということを今回の経験が教えてくれた。言い古された言葉だが、身体が資本、ということが改めて頭を過っている。今日はまだ身体を休めているが、自由に家の中を歩けるのは奥田の施術のおかげだ。湿布や薬ではなく、以前の経験から1ヵ月はかかるのではと思っていたのに、わずか1回で大きく好転したことは自分の身体が知っている。これは魔法でも何でもないし、現実のことだ。だからこそ、今は早く現場復帰し、みんなに迷惑をかけた分を取り戻したいと強く思っている。  しかし、同時にこれまでの仕事、つまり居酒屋という仕事だが、今自分が感じているようなことを来店する客に与えられているか、と考えると日々のストレス解消には役立っていると思いたいが、私の体調好転ほどの落差にはなっていないだろう。もちろん、私たちの仕事が毎日の潤いになっていると考えている人もいるだろう。相沢のように、店そのものを愛してくれる人もいるし、そういうことは経営者としては大変嬉しいことだし、やりがいにも通じる。これまでもそうだったし、今後もそうだろう。  ただ、ある経験がこれまでの価値観を変えることがある。一人で最近のことを考えると、これまでのやりがいということが少し違って見える。  今、一人で家にいるからこういったことを考えてしまうのかもしれないので今晩、美津子が帰ったらさりげなく今考えていることをぶつけてみようと思った。      ◇  夜、いつもの時間に美津子が帰ってきた。丸1日家にいて、仕事をしないまま美津子の帰宅を待っているということは先日熱を出した時以来だが、その時は終始ぐったりしていたため今日のように普通の感じで待っていたわけではない。しかも今日は昼、最近のことをいろいろ考え、これまでの自分のことを省みるようなことまでやっていた。その考えを美津子にも話し、どういう答えが返ってくるかと思っていたが、すぐにそういったことを話せる雰囲気はない。まずは今日のねぎらいからスタートする。 「お帰り。お疲れ様。今日はありがとう、そしてごめんね。何もできなくて」  私はいつになくしおらしく言った。男がしおらしくというのは変な感じではあるが、最近の流れからすればどうしてもそういった雰囲気になる。  だが、美津子としては夫婦だから何も気にしていない、という感じだ。 「嫌ぁね、変に改まって。随分他人行儀じゃない。大変な時にはお互い助け合うのが夫婦でしょう。気にしなくて良いわよ。それより腰の具合はどう? 痛みは治まった?」  そう美津子から尋ねられ、そう言えば、といった思いだった。昼、いろいろ考えていた時もそうだが、家でゆっくりしている分には腰の痛みは感じていない。私はその様子を美津子に告げたが、とても不思議そうな顔をしていた。 「あんなに痛がっていた昨日は何? 今の様子を見ているとまるで嘘みたい」  私も言われて初めて思い出したような感じであり、本当に魔法にかかったような気分だった。  美津子はいつものように冷蔵庫からビールを出し、店から持ってきた料理を並べ、おつまみとして飲みながら食べた。この感じはいつもと変わらないが、美津子として私の腰のことがあるので、そのことについてはずっと心配していたとのことだった。それはギックリ腰になった時の私の様子を見れば当然だろうし、まさか次の日にはケロッとしているとは思っていなかったからだ。 「でも、すごいね、奥田先生の技術。あんなに痛がっていたあなたの腰が1回でこんなに回復するなんて思ってもいなかったわ」  美津子の口からこの話が出たのは私が考えたことを話し出すきっかけになった。 「そうだね。・・・それで昼、1人でいた時にいろいろ考えていたんだけど、今やっている居酒屋って商売、どう思う?」 「何、突然。いきなりそんなこと言われても答えられないわ。何かあったの? いきなりそんな話をするなんて」 「いや、今日の昼、最近の体調のことと重ねて、いろいろ考えていたんだ。それでそのことで美津子の意見も聞きたくて」 「そう、最近続けて体調を壊したものね。それなら一人でいる時、そういったことを考えるも無理はないわね。ただ、私はそういったことを考えたことは無いので、きちんと答えられるかどうかは分からないけど、話しするね」 「私は最近体調に不安を感じたことは無いけれど、あなたの様子を自分に置き換えて考えたわ。最近はコロナのことがあるから健康のことについてはいろいろ思うところはあるし、先日、もしかしたらあなたが感染?という時があったわよね。本当にその時には驚いたし、私もその時の覚悟はしたわ。でも、結局は検査では陰性だったので、ホッとした。でも、コロナじゃなくては寝込んでいた時のことを思うと、健康の有難さを改めて感じたわ。そのことがあったからこそ、2号店でもさらに感染対策を意識するようになった。と言っても、日頃から意識しているつもりなので、実際にやっていることは変わらないけど、意識の上でより注意するようになったわ。それは中村君をはじめ、他のスタッフも一緒。あなたが体調を壊してから、より一層みんなも普段からのことを意識するようになったみたい。あなたは苦しかったと思うけれど、それがみんなの意識を高めたことは事実だと思うわ。たぶん、1号店でも同じだと思うわ」  美津子はコロナモドキの体調不良について、全員の意識の変化を交えて淡々と語った。その話から、私のトラブルも何かの役に立ったんだな、と変な気持ちになっていた。 「それで今回のギックリ腰だけど、これは感染症ではないけれど、重いものを運ぶことがある私たちの仕事の場合、あなたみたいにビールのケースを持ち上げる時には気を付けなければという警鐘になったみたい。奥田先生から言われたように、重いものを持つ時にはハラを意識する、ということを改めて考えるようになったわ。全員が同じように考えているかどうかは分からないけれど、少なくとも今回のあなたの件で、何かしら考えるようになったとは思うわ」  こういう話を聞くと、私の一連の体調のトラブルもまんざらではなかったのではと思うようになったが、私が聞きたいのはそういったことではなく、居酒屋という仕事と重ねての話だ。  だが、それは私が一人でいる時に考えたことなので、いきなりそこまで話について何か考えを聞かせてほしいと思っても無理だろう、ということは思っていた。  だから私の方からこの点についてきっかけを作ることにした。 「今まで話で俺の体調の事でみんなの意識が良いほうに変わったのは理解した。そういう意味では良かったかな、といったことが改めて分かった。でも、俺が今日話したかったのはそのことではなく、今まで俺たちが居酒屋という仕事に対して思っていたお客様の心の癒しといったところに少しでも役立っているかな、といったことなんだ。少なくとも俺は居酒屋という仕事がそういうところを含んでいて、会社帰りなんかに酒を飲みながら愚痴をこぼす、それによって気持ちも軽くなり、明日の活力の源になればと思っていた。そういうことがお客様のためになり、そこにやりがいも感じていた。でも、それは健康体だからこそのことであり、その根本が崩れた経験をした時、これまで思っていたことが少し揺らぎ始めたんだ」  私は美津子の顔を見ながら、そして時には目線を逸らし、自分の考えに集中するような様子を交えながら話していた。これまで自分が真剣に思い、美津子とも共有していたと思っていた信念とも言えるところに少し亀裂が入ったような感じだったので、そういう気持ちの確認も含めたための様子だった。  美津子も私の話から何かを感じたような様子だったが、何分突然言われたことだし、きちんとした答えをすることはできなかった。 「そう、そんなことを考えていたの。でも、そんなことは今言われたからといってすぐに答えられるようなことではないわ。明日、もう一度話しましょう。まだあなたは身体を休めた方が良いと思うので、ゆっくり考えていて。私もその間、考えておくわ。今聞いたことをベースに、あなたの考えを理解するようにする。だからといってすぐにどうこうできないと思うけれど、少なくとも共通の話題にしましょう」  その言葉でこの日はこれ以上話は進まなかったが、明日、少しでも何か話せればと期待し、そのまま今日の出来事を中心に雑談になった。      ◇  次の日、昨日の話通り、私は昼間、いろいろ考え、夜を待っていた。美津子も仕事の合間にいろいろ考えていると期待し、夜の話し合いを待っている自分がいることに気付いた。  私も昨日は具体的なことはあまり考えておらず、最近の自分のことを前提に、多少ネガティブな感情も入りつつ考えていたように思っていた。自分なりに整理し、今晩はそれなりにロジカルに話せたらと思いつつ、美津子の帰宅を待っていた。  「ただいま」  美津子がいつもの時間に帰ってきた。私はゆっくり休息が取れていたので、美津子の帰宅に合わせ、冷蔵庫からビールを取り出し、軽食を用意していた。美津子が店から何かしら持ち帰ることは分かっていたので、次の日に回しても良いようなものだった。念のためお腹の様子を尋ねたが、今日はお茶漬けのようなものが食べたいと言ったのでそれを準備し、リビングのテーブルまで運んだ。私も同じメニューで軽く食事した。食事中はいつものように店のことが話題の中心になったが、今晩の話のメインは昨夜の続きだ。 「ところで昨日の話の続きなんだけど・・・」  私の方から話を切り出した。 「私も昨日、あなたがあんなことを言い出したから仕事の合間にいろいろ考えたんだけど、何を言いたいのか、どうしたいのかが分からない。おそらく、最近の自分の体調不良が原因でいろいろ考えたのでしょうけど、私たちは今、居酒屋という商売をやり、生活している。でも、コロナの問題が壁になり、思ったように商売がうまく回せなくなっている。だからこそ、これまでみんなでいろいろなアイデアを練り、やれることをやってきた。まだ結果が出たというところまでは行かないけれど、何か見えてきたような気もしていた。だからこそ、あなたの昨日の話、ちょっと見えないのよ」  美津子は真剣な表情で、はっきり言った。確かに、私の話は唐突だったかもしれない。でも、体調を崩した経験というのは私にとっては重要で、その上で知ったのが健康の有難さだった。そしてそのおかげで日々の生活が成り立っている、ということにも改めて気付いた。私はそのことを美津子にも理解してほしかった。 「美津子が言うこともよく分かるよ。俺もずっと健康で、同じことを言われたら多分美津子と同じように返したと思う。でも、コロナではないかと思った時、最悪のことも含めて考えた。ギックリ腰の時には2回目ということもあり、もしかすると立てなくなるかも、という恐怖に近い思いが頭の中を支配した。俺も強い人間じゃない。普通の精神力しかないどこにでもいる人間だ。だからこそ、今回のような身体に関係することが続き、いつもの状態とは全く異なることを経験すると、いろいろ考えるんだ。もしかすると、今はコロナが流行り、世の中全体がネガティブな思考に走っているということも関係しているかもしれない。そんな中で、今やっている仕事のやりがいということを意識するようになったんだ」  私も真剣に美津子の目を見て、今の気持ちをきちんと話そうとしていた。 「・・・そう、それでどんなことを考えているの?」 最初は私の話が唐突すぎたので分からないと言っていたが、経緯を話すと少し聞く姿勢になってきたと感じた。それで私は続けて話した。その時は手にしていたビールもほとんど飲んでおらず、美津子も同じだった。 「昨日も話したように、これまで居酒屋という仕事をお客様の癒しの場として考えていたけれど、その前提は健康にある、というように考えたんだ。俺が体調を崩したら、そんな時に居酒屋に行こうなんて思わないからな。だから健康という前提があって初めて居酒屋という仕事も意味が出るのでは、と思った。まだ社員として勤めていた時から俺が今の商売に誇りを持っているのは知っていると思うけれど、それは今でも変わらない。コロナの問題からお客様の数は少なくなっているけれど、むしろ今のほうが相沢さんのような方からのお話でますますこの商売に対するやりがいを感じている。だから居酒屋という仕事への意欲が無くなった、というわけではないんだ。こういうところが説明するのは難しいけれど、もし自分が2人いれば1人はこのままで、そしてもう1人は今回感じたことを実際に何かのカタチで実現できれば、といったことを考えていたんだ。こういうことは身体を壊したから考えたことなので、なかなか分かってもらえないところもあるかもしれないけれど・・・」  最後の言葉は少し力なく話すことになったが、私としては今回の一連の体調不良で身体の調子の大切さについて身を以て経験したので、心の中では核心的な部分がある。  だが、それを他者に理解してもらおうしても難しいところがある。それはたとえ配偶者であってもそうだろうし、ましてや同じ仕事をしているため、余計に難しいかもしれない。  そう思っても、今回のことで自分の中で何か大きく変わったことを感じており、それを口にし、それに対してどう考えるかを妻にだからこそ聞きたかったのだ。  美津子は私が話している時には微動だにせず聞いていたが、話が一段落したところで手に持っていたビールを一口飲んだ。 「ちょっと温くなっちゃったね。あなたが熱心に話すものだから、つい手に持ったままになっていたわ。体温が伝わったのね。そしてあなたの考えも何となく分かったような気もした。どこまで理解したかは分からないけれど、居酒屋という商売は今でも誇りに思うし、やりがいも感じている。でも、もう一つ、健康についてのことも意識するようになった、ってことだよね。その大切さについては、私も奥田先生のところに通っていろいろ話を聞いているので理解できるわ。ただ、理解できるということと、だからどうするかということは別よね。今までの話では最近のことからあなたがいろいろ考え、それが仕事のことにまで広がった、ということは分かった。そこから何を言いたいのか分からないけど、転業を考えているの? でもそうすると生活のこともあるし、矢島君、中村君たちとの関係も無くなってしまうわ。彼らの生活もあるし、これまで築き上げた信頼関係も崩れてしまうわ。せっかくみんなでいろいろアイデアを出し、ここまで乗り切ってきたじゃない。なかなか以前ほどの状態には戻らないけれど、だからこそ頑張ろうとしてきたじゃない。それを無にするわけにはいかないわ」  美津子の意見は当然である。私も条件や立場が違っていたら同じことを言っていたに違いない。だからこそ、私もいろいろアイデアを練っていたわけであり、休養させてもらっていた時間を自分なりに有効に使っていたつもりだ。当然、今話したようなことについてすぐに賛成を得られるとは思っていなかったし、まだ具体的な考えを示したわけではなく、その入り口までの話だ。私がどうして今の話をしたかまでのことだが、そこから先の部分についても具体的なプランを考えている。私は続けてその話をした。 「俺が考えたことのベースになる部分は理解してくれた?」 「完全にというわけではないけど、ある程度は分かったつもりよ。納得したかどうかは別だけどね」  美津子はちょっと憮然とした感じで言った。 「それなら、そこから先のことを話すけれど、奥田先生のような直接的に体調の好転を図る仕事のやりがいのようなことを考えたんだ。繰り返しになるけど、俺が居酒屋という商売にやりがいを感じているというのは知っているよね。そこにはお客様の心の癒しになればという思いがある。でも今回、そのためには身体の健康が必須だと実感した。そこにやりがいのようなことを見つけた感じなんだ。仕事にはいろいろあるが、俺は生活のためだけという意識でやりたいとは思わない。誰かの役に立ちたいという気持ちが強い。今まではそれが居酒屋というつもりでやってきたけれど、コロナの時代になり、みんなが健康ということを意識する今、そして自分自身が身体を壊し、改めて身体を壊した経験が考え方に影響を与えたんだ」  私は今考えていることを何とか分かってもらおうと一生懸命説明したつもりだ。だが、美津子からはまた質問が出てきた。 「健康ということに意識が向いたということは分かった。でも、今、コロナのような感染症と奥田先生の整体術のようなことでは方向性が違うでしょう。広い意味で体調を整えることでは同じようなカテゴリーで括れるところもあるかもしれないけれど、全く別物に見えるわ。確かに私たちは日頃、奥田先生にお世話になり、そのおかげで元気に仕事ができることを感じでいる。だからその恩恵については私にも分かる。あなたはそのことを言っているの?」  美津子から出たこの言葉は私の考え方を話すのにちょうど良いきっかけになった。 「実はそうなんだ。俺の今回の一連の体調不良の流れはまずコロナではないかということが最初だった。でも、幸いなことにそうではなく、風邪のひどいものだった。でも、コロナだったらと思っていた時は、重症化したり命の危険についても心配した。テレビの報道の影響だろうな。そしてその時は医者に感謝したけれど、治ったのは薬の働きだったと思っている。その後ギックリ腰になったけれど、病院からは湿布や痛み止めの薬だった。あとはしばらく安静にと言われただけで、ここまで良くなったのは奥田先生の整体術だった。その時、手だけで直接的に、しかも劇的に俺の腰の調子を好転させてくれた、というところにとても感動した。もしかするともう立てなくなるのではと心配した思いがたった1回でこんなに好転した。体調不良というのはいろいろあるだろうし、コロナの問題もその一つだ。確かに今、社会的に大きな問題になっているけれど、実際に数字を見ていると俺のようなギックリ腰だけでなく、日常生活の中にあるちょっとした痛みやその他の体調不良というのはコロナの感染者以上の数字になると思う。だからそういうことを何とかできるような仕事、ということで奥田先生の仕事にすごく興味を持ったんだ」  私は今回考えたことをなるべく分かり易く話したつもりだった。それがどこまで美津子の心に届いたか分からないので、美津子の返事が気になった。 「そう、それがあなたの考えだったのね。まだ理解できていないこともあるけれど、仮にそのような方向に進むとして、みんなのことはどうするつもりなの? あなたが考えたことだからそのこと自体はどうこう言うつもりはない。でも、私たちは小さいけれどスタッフがいるお店を持つ身よ。責任もあるわ。あなたは体調を壊し、休んでいる間に考えたことかもしれないけれど、私を含めてお店のスタッフからすれば、身勝手と言われるかもしれないわね。コロナの問題で経営が厳しくなったからそこから逃避した、と思われるかもしれないわ。そうなったらこれまでみんなに言ってきたことと矛盾するんじゃないかしら?」  美津子は私の話に潜む問題点をしっかり衝いてきた。私自身、この点については悩んだところの一つだったからだ。  だが、この話をする以上、この点を自分の中でクリアにし、その上できちんと話すことが必要と理解していた。だから私は続けて言った。 「今、そのことについて話をしようとしていた。俺も単純に考えたわけじゃない。もしそうするとなればいろいろやらなくてはならないことがあるが、そういったことも今回、一生懸命考えた。一時的な感情ではないんだ」 この時、私は持っていたビールを少し強く握りしめ、しかも少し動かしたものだから少しこぼれてしまった。その様子を見て美津子は苦笑したが、ちょっと場が張り詰めた感じになっていたので、その雰囲気を好転させるきっかけになった。 「俺、ちょっと興奮したみたいだな。ごめんごめん」 「私も少し興奮して話したからね。今度はもう少し気持ちを落ち着かせて聞くわ。私が予想していなかった展開になってきたから、ちょっと言葉が強くなっていたかもしれないわ」 「それで話の続きだけど、さっきも言ったけど、居酒屋の仕事に対するやりがいを感じなくなったわけじゃない。むしろ最近のみんな意識の変化やお客様の声を耳にするようになって、その意義を強く感じるようになっている。でも、それはさっき言ったように身体の調子が良い時のことだ。そういったことから奥田先生のような仕事と居酒屋の仕事を並べて考えるのではなく、別々のものとして考えた。改めて言うほどのことじゃないと言われるかもしれないが、こういうとこは頭だけで考えるのではなく、心からそう思ってのことだし、結果的には同じようなことでもその裏側にはいろいろあると思っている。だからこの話はそういうことでの考えと理解してくれ。だから、俺が考えているのは今の店を畳んで仕事を変えるということじゃないんだ。もっとはっきり言えば、居酒屋もやる、そして整体の仕事もやる、ということなんだ。だけど俺は一人しかいない。一人の人間が2つの仕事を同時にやることはできない。そこで考えたのが1号店は完全に矢島君に任せる、ということだ。そして会社の社長職は美津子に継いでもらい、俺は会長といった感じで関わり、矢島君たちのフォローをしたいと思った。俺が体調を壊した間、彼はよくやってくれだ。そしてその時生き生きしていた。以前話しただろう、3号店を出す時は彼に店長になってもらうアイデアを。今回の俺の穴埋めを十分すぎる以上に頑張ってくれたことから任せても大丈夫と確信したんだ。もちろん、直接本人に確認したわけでもないし、まだ俺の頭の中だけのことだ。でも、こういうことまで想定しておかなければ、今話したようなことで言えない。もちろん、思った通りすんなりいくかどうかは分からないけれど、以前矢島君と話した時、居酒屋に対する気持ちをしっかり持っていた。その気持ちをしっかり活かせれば、ということも期待している。もちろん、そういうことには美津子の気持ちや考えも必要だけど、まずは考えをまとめる叩き台として話してみた」  私は美津子の目を見て、真剣に話した。美津子も今度は落ち着いて聞いてくれた様子が伺えた。 「あなたの考えは分かったわ。みんなのことも考えていたということも・・・。でも、まだ肝心の矢島君には何も話していないでしょう」 「うん、まずは美津子に話さないといけないと思っているし、第一まだ店に行っていない。だから話す機会はない」 「考えてみればそうね。でも話してくれて良かったわ。私もこの話、きちんと考えてみる。今はまだ聞いたばかりだから、はい、そうですかとは言えないけれど、明日、2号店に行く前にちょっと1号店によって、あなたの近況を話す中で、さりげなく矢島君に将来のことも聞いてみるわ。でも、あなたも思い切ったことを考えたわね」  この時点で美津子の気持ちは落ち着いていた。それは表情にも表れており、話がスタートした時よりも柔和になっている。  私もそれは同様で、最初の時は理解してもらおうと一生懸命になりすぎ、言葉も強くなっていたかもしれないという思いがあった。会話というのはお互いの気持ちがぶつかることもあるので、それが出た場合、本来ならば穏やかなテーマであってもつい熱くなり、外から見れば喧嘩しているように見えることがある。今晩の話は喧嘩のような感じまでは行かなかったと思うが、外から見れば分からない。でも、今は穏やかな感じになっているので、そういった心配は無用だろう。話に一生懸命になり、ずっと缶ビールを握りっぱなしだったのでまた温くなっていることが手の感触で分かる。このまま捨てて新しいビールを用意しても良いがちょっともったいない気もするのでそのまま飲み干し、美津子に冷蔵庫から新しいものを持ってきてもらった。私が持ってきても良かったのだが、そこは美津子が気を利かした。そこからは話が和らいだ方向で進んでいった。 「それで、腰の調子はどう?」 「うん、おかげさまで普通の状態では痛みはない。でも、ある姿勢になると腰の芯のほうに違和感を少し感じる。だから明日、また奥田先生のところに行ってこようと思っている。この前お世話になった時も念のため、ということをおっしゃっていたしね。もし先生に時間がありそうだったら、今話したことについて尋ねてみようと思う」 「それ良いわね。今は外から見ているだけで整体の仕事がどんなものなのかは分からないことが多いと思うし、もし本気ならそういうところもきちんと聞いておかなくてはならないしね。でも、まだ予約していないんでしょう」 「明日電話しようと思っている。今は時間の融通が利くから、先生の予定に合わせて伺おうかと思っている。ただ、次の予約があるような時には話は聞けないだろうし、もし美津子も話を聞きたいということなら、申し訳ないけど施術の後に時間を取ってもらえそうなところを予約するけど、とりあえず明日は腰の調子の改善のほうを意識する。さりげなく話を伺おうとは思っているけれど、きちんと聞くならやっぱり2人揃ってのほうが良いだろうから」  まだ話が決まったり進んでいるわけではないが、美津子に話したことがどこまで実現性があるかどうかを確認する必要がある。そういった情報を集め、その上で最終決断をしても遅くはない。その前段階については今晩話したばかりだが、ここをスタートラインにし、今後のことを考えたいと改めて思った。やはり一人で考えるだけでなく、きちんと相談することで見えなかったことが見えるようになり、具体的な行動にもつながる、ということを実感した時間になった。      ◇  次の日の朝、美津子はいつもより早く家を出た。1号店に行くためである。事前に矢島に電話をし、昨日私と話したことに関してそれとなく確認するためだ。  本来の出店時間より1時間早く美津子と矢島は1号店にいた。 「おはよう、矢島君。今日はごめんね、いつもよりも早起きさせちゃって」 「いいえ、大丈夫です。それより店長の腰の具合はどうですか?」  矢島は心配そうに尋ねた。この時点では立ち話だったので、店内の椅子に座り、きちんと話をすることになった。 「おかげさまできちんと休養でき、調子良いみたい。今日、また奥田先生のところ行って施術してもらうそうだけど、見た目は仕事に復帰しても大丈夫そうよ」 「それは良かったです。また一緒に頑張りたいですね」 「ありがとう。それで一人で大変だったでしょう。短期間の内に続けて迷惑かけちゃったね」 「いいえ、アルバイトのみんなに助けてもらっていますし、自分も考えるところがいろいろあって、すごく勉強になりました。店長がお休みにならなければ分からないことが多く、改めて商売の難しさが分かった気がします。まだまた足りないことが多いとは思いますが・・・」  謙虚な感じで矢島が言ったが、その表情や瞳の奥には何か自信のようなものが見えた。 「そういう言葉を聞いて、私も嬉しいわ。なんだか矢島君、ちょっと逞しくなったみたい。これなら、店長がいなくてもやっていけそうね」  ちょっと直球過ぎたかもしれないが、この時点では矢島もこれまでの話の延長という意識で聞いている。だから話も苦笑しながらしているが、美津子には別の姿が見えていた。 「家で話していたんだけど、2回も続けて体調を壊したでしょう。それぞれ原因は別だけど、もしかすると今後もこういったことがあるかもしれないわ。でも、矢島君の活躍ぶりを見ていたら、店を任せても大丈夫な気がしている。矢島君は将来、自分の店を持ちたいといったことは考えているの?」  美津子は少し真顔になって尋ねた。 「以前、店長からも同じようなことを訊かれましたが、夢としてはあります。俺はこの仕事が好きですし、お客様の笑顔を見ていると気持ちが温かくなるんです。今は大変な時期ではありますが、そういう時だからこそいろいろ工夫する、ということも学ばせてもらえました。そしてその結果も今、感じていますし、自分の感覚としては天職、という感じです。だから、店長が今後もし、体調を崩されてお店を休むようなことがあっても、俺、頑張ります。任せてください。あっ、でも、本当にまたそんなことがあってはいけませんけどね。これは俺の決意のようなことだと考えてください」  真剣に答える矢島に、美津子は安堵を感じていた。口だけでなく、私が休んでいた時もきちんと店を回していたわけだし、責任感も十分と感じた。  ただ、今日は私の近況報告と労いのつもりで1号店を訪れた、という体(てい)なので、話はここまでにした。だが、矢島の思いは美津子にも伝わった。  同じ頃、私は奥田の店に電話を掛けた。今日の予約をするためだ。 「雨宮です。いつもお世話になっております。今日、奥田先生の施術を予約したいのですが、どこかで空きはありますでしょうか?」  電話に出たのは受付のスタッフだったので、直接奥田と話せたわけではない。電話応対したスタッフは予約表を確認し、話し始めた。 「雨宮様の場合、仕事の関係でお越しいただける時間には制約がありましたよね」  スタッフが確認した。だが今、仕事は休んでいる。その旨を告げると午後2時からの枠であれば空きがある、ということだった。それ以外では今日は無理ということだったので、私はその時間を予約した。  午後2時少し前、私は奥田の整体院に着いた。院内の待合室に通され待っていると、すぐに奥田が現れた。 「いらっしゃいませ。腰の調子はいかがですか?」  奥田が笑顔で尋ねた。先日来院した時は全く異なった状態になっているが、動いた時に腰の深部に違和感がある、ということだけを話した。実際、それ以外は何も感じていないので言いようがない。  それを聞いた奥田は施術スペースに誘導し、ベッドに横になるよう指示した。いつもなら施術前に問診を行なうが、この日は少し流れが違うような感じだった。来院の時間の関係で、次の予約があるからかなと思っていたが、奥田は触診しながらいろいろ尋ねてきた。つまり、話だけではなく、実際に身体の状態を手指で感じながら問診をする、というスタイルだったのだ。 今回の場合、ギックリ腰の対応の仕上げ的な要素を持っているため、まずは身体の具体的な状態を確認する、ということだったのだろう。いつものように脚の長さや骨盤、脊椎の歪みを確認しながら、身体の各部位について押圧し、痛みの有無を確認していた。  その時思い出したことだが、先日来院した時、同じ場所を押されて圧痛を感じた場所が今日は痛くない、ということがあった。そのことを奥田に訊ねたが、押したところは腰痛の際に反応する経穴で、それはギックリ腰の際にも反応するという。人により反応点が異なることがあるが、その候補は複数あり、そういうことを確認する目的から一見関係なさそうな個所に見えるところも身体のつながりを踏まえてチェックするという。思い出してみれば、今回も同じようなところを押されている。だが、いずれも痛みなどの刺激としては感じないところを見ると、確かに好転している、ということを私自身、身体で実感した。  奥田はそういう情報をベースに施術をスタートしたが、そこではいつものような心地よい内容で、いつの間にか眠ってしまった。姿勢を入れ替える時は目が覚めたが、それ以外は記憶がない。施術が終了した旨を告げられて起きた時には、身体が今まで増して軽くなっており、気になっていた腰の深部の違和感は完全に消失していた。  改めて奥田の施術に感服していたが、後日、今度は美津子と一緒に来院し、相談したいことがあるということを告げた。どういう内容かは話さなかったが、それならばということで2日後の最終枠を押さえてくれた。美津子の施術も合わせてお願いしたからだが、そこで私が今考えていることについて話を訊かせてもらうことにした。      ◇  その日の夜、私たちは互いに昼間のことについて話し合った。私は奥田のところでのこと、美津子は1号店で矢島と話したことだ。  私の方は2日後、美津子の施術の予約と合わせ、相談の時間を取ってもらった、ということを話した。 「ありがとう。私も早めと思っていたので2日後、楽しみにしているわ。それで矢島君と話したことだけど、感触良いわね。あなたの話だけだと直接ではない分、今一つピンと来ないところもあったけど、実際に話してみると彼の本気度が伝わってきたわ。本人は謙遜しているところあったけれど、やる気は見えたし、実際に任せてみると、多分、力を発揮すると思うわ。話していると昔のあなたとちょっと似ているところがあるようで、なんだか懐かしい思いもあった。昔、独立の話をした時、見えないところもあったけど、一生懸命やってとりあえず2号店まで出すことができた。商売としてはまだまだだし、今はコロナの問題もある。やる気はあっても社会情勢が、というところもあるけれど、何と言っても気持ちが重要だし、昨日の話のように、彼に店を譲ってもきちんとフォローできるようにしていれば気持ちも楽だと思うわ。私たちが独立した時はそういった支えが無く、精神的に大変なことも感じたけれど、彼にはそういった思いをさせずに頑張ってもらえればと思うわ。もっとも、店を譲るといったことはまだまだ仮定の話だけど、少なくとも矢島君なら、といった気持ちにはなってきたわ」  美津子は自分で話し、その時の感触から私の提案が実現性を感じたようだが、まだ話は出たばかりだ。きちんと解決しておかなければならないことがある。その一つが奥田に相談する内容だが、話はそちらに移った。 「それで話を少し進めるけど、もし転業するとして、俺だけがそうして美津子はそのまま居酒屋をやっていくつもり?」  これまでは私のことで話していたけれど、居酒屋は2人が社長・副社長としてやっている。美津子が社長に昇格して、ということもあるだろうが、この点についてまだ話していない。 「まだそういうことについては何も考えていないわ。あなたの話からまだ時間が経っていないじゃない。それで考えろというほうが無茶だわ。でも今、そういう話題になったので考えなければいけないと思うけれど、その件について奥田先生から話を伺った上でということにする。今回、私が整体術にのめり込むだけの経験はないし、あなたの話として聞いていた。まだ居酒屋のほうに気持ちが残っているし、でも、夫婦なんだし、一緒の商売をやってきたから、もし転業となると同じようにした方が良いかもしれない、という気持ちもある。でも、まだ私は整体の世界がどんなものか実感していないので、話を伺った上でということでも遅くはないわよね。ただ、あなたの体調好転の様子を客観的に見ていて、また、施術を受けている経験からして、少なくとも悪いイメージはないわ。今はそんな感じね。もう少し様子を訊いて、それを基に考えるわ」  私は美津子の口からどんな言葉が出てくるかと心配していたが、思ったよりも好意的な言葉に安堵した。        ◇  2日後の夜9時、私と美津子は奥田の整体院にいた。美津子は2号店を中村に任せ、早めに帰ったのだ。私たちは先日、奥田にお願いした施術の予約と合わせ、整体の世界の話を聞くために訪れていた。ただ、そのことは奥田に話していない。奥田が不愉快に思わないか心配だったが、この点をクリアしないと先には進めない。私たちはそういった気持ちで来店していた。着く早々、2人揃って奥田に丁寧にお礼を言った。予定外の話をさせてもらうからだが、奥田は相談内容は分からないものの気にしていなかった。  ただ、本来なら奥田も最終の枠であり、その後に相談することになっていたので、施術自体は30分に切り上げてもらうようにお願いした。もちろん、施術代は1時間分を支払う予定であり、別途相談料を用意してある。 美津子の場合、この時点で具体的にどこかに問題を感じているわけではない。だから手に感じたところがあれば、そこを意識して施術してもらう、といった感じで良かったのだ。  もちろん、奥田は性格的に手を抜くようなことは無い。だから、施術時間の中できちんと何らかの変化があるように、問診しながら手を動かしていた。その質問と施術の手がぴったりくるのか、美津子は気持ち良いという言葉を時々口にしていた。  施術はほぼ予定通り、30分で終了した。私たちは奥田に促され、待合スペースに通され、スタッフがお茶を運んできた。その時、奥田は後は自分がやるからということでスタッフを帰した。私たちは事前に奥田に相談する内容は告げていなかったため、3人だけになるよう配慮してくれたのだ。私としては他に誰かいても構わなかったが、奥田の気配りに感謝しつつ、話をした。 「先生、今日はすみません。施術以外のことでお時間を取っていただいて・・・。でも、今日は是非先生に伺いたいことがあったので・・・」  私は神妙な顔で奥田に言った。美津子は言葉そのものは発しないものの、同じような表情だった。  奥田はその様子に何事だろう、といった顔をした。 「それで、何をお聞きになりたいのですか?」 「はい、実は先生がおやりになっている整体という仕事のことなんです」 「えっ?」  当然のように、奥田は驚いた表情になった。それでその経緯を私の方から話したが、コロナと勘違いした体調不良から先日のギックリ腰までのことと、その時に考えた健康の大切さだった。そこから仕事のやりがいという話になり、さらには転業までのプランがある、ということでの相談であることを告げた。  奥田はその話を聞き、少し黙ってしまった。表情が固まり、時々目線を動かしている。どう説明すれば良いのか考えていることが私たちにも伝わってきた。その上できちんと私たちの目を見て言った。 「雨宮さん、その話、本気でお考えですか? もし、軽い気持ちであればこのままお帰りください。ご承知のように、私は整体について雨宮さんのお仕事同様、やりがいを感じているし天職とも思っています。ですから、簡単にできるといったような意識でこの世界に飛び込んでいただきたくはないのです。はっきり言ってこの業界は玉石混交です。そして『石』が多い業界です。私は誇りをもってこの業界で頑張っているつもりですので、中途半端な感じではこの仕事を考えてほしくないのです」  奥田の言葉と言い方はこれまでの印象とは全く異なっていた。こんな奥田は今まで見たことが無かった、というのが私たちの印象だった。それだけ奥田にとって整体の仕事は大切、ということが改めて理解できた。  奥田は続けて言った。 「ちょっと言葉が強くなり、済みません。いつもは心地良いことを意識している身ですが、今は逆の雰囲気になりました。でも、先ほどお話しした通り、私にとっての整体は天職であり、やりがいを感じる仕事です。時々この業界にはマニュアル的な技術でクライアントの方を施術し、気持ち良ければ良いくらいの意識でやっているケースがあります。私にはそういう意識は理解できず、手技療法で好転可能なケースであれば一生懸命施術させていただこうという思いなので、そういうことに関係しそうな話についてはつい興奮してしまいます。雨宮さんがいつもと違うことをおっしゃり、もしかするとこんな時代だからということで安易な転職をお考えなのではつい思ってしまい、変な話し方になりました」  先ほどと違い、奥田は興奮してしゃべった自分を詫びるようなことを言った。 「先生、その思いは私には分かるつもりです。今やっている居酒屋にも私なりの考えがありますし、そこにはやりがいも感じています。また、私の先生のところにお世話になる前、いろいろ通っていましたので、整体の業界についてもおっしゃることは分かります。先生の普段の施術の様子から、プライドを持ってやってらっしゃることも理解しているつもりですし、だからこそ今日ご相談に伺ったわけですが、そういう前提でお話しさせていただければと思います」  私は改めて話の前提になった最近の体調問題について話したが、気持ちが落ち着いたのか、奥田もきちんと聞いてくれたように見えた。その上で再度整体業界のことやそこでの仕事について質問した。奥田は私の話の趣旨を理解した上で再度話し始めた。 「分かりました。では、まずお尋ねします。例えば今回、雨宮さんはギックリ腰でお越しになりました。それまでも体調維持といったことや疲れたからと言ってお越しになっていましたね。来院され、施術を受けるというところは同じですが、実はこれらのことには質的な違いがあります。ギックリ腰の場合は劇症で急性ですね? そういう時の心境というのは雨宮さんが一番お分かりいただけるはずです」  奥田の言葉に私は頷いていた。その眼は真剣に奥田の目を見ており、隣にいる美津子も同様の感じだった。その上で奥田は続けて言った。 「そういう時、私はどういう意識で施術していると思いますか?」 「もちろん、結果を出そうとして一生懸命にやっていらっしゃると思います。そのことは受ける側として理解しているつもりです」 「ありがとうございます。その通りです。でも、残念ながら気持ちだけでは何ともならないんですよ。体調維持的なことや疲労回復的なことであれば決まった手順の施術でも良いかもしれませんが、技の流れにしてもクライアントの方の体格などの条件がありますので加減やその個所への施術時間などには違いが出ます。そういった見えないところも技術ですので、私たちは1回たりとも同じ施術をやっているつもりはありません。それは同じクライアントの方が同じご相談でお越しになってもそういう意識でやっています。私がこの道に入った時に教わった学校がありますが、そこの先生からそういったことを教わりました。現場では決して同じ施術は無い、ということです」  奥田は自分が教わった時の頃を思い出すような感じで話した。 「私も受ける立場として同じようなことを感じていました。それが分かったからこそ、ずっとお世話になっていますし、今日ご相談に伺いました。改めて本物の整体の世界のことが理解できたような感じがしますが、やっぱりどういう教わり方をしたかが大切なのですね」  私が分かったような感じで言ったが、奥田は首を横に振った。 「雨宮さん、そういう訳ではないんですよ。一部はその通りですが、教わった通りやっているようでは現場に立てません。もちろん、どんな人にもビギナーの時代がありますので、最初からベテランのような施術はできません。でも、学びの課程ではそういう場でも対応できるような基礎力と、その応用の仕方・考え方をいかに学べるか、ということが大切です。私の先生も授業の際によくおっしゃっていましたが、いくらいろいろなパターンで教えても、今そのクライアントの方が目の前にいらっしゃるわけではないし、同じ方でもその日の状態によって細かな条件は異なる。だからそういったことを毎回読み取り、その条件の下で施術することが大切、ということでした。そしてそれは現場でしか学ぶことはできないし、そこでは謙虚でいること、ということをいつもおっしゃっていました」  私は衝撃を受けた。もっと簡単にできると思っていた自分の心を見透かされたような感じになり、少々気恥ずかしさを感じていた。そのため、私は固まった感じになっていた。 奥田はそういう私の思いと状態を見抜いたかのように続けて言った。 「そんなに緊張しないでください。さっきの施術の効果が台無しですよ」  この時の奥田の言葉はいつも通りの雰囲気であり、表情も柔らかく、笑みも浮かんでいた。癒し家としての顔だった。 「ちょっとハードルを上げるような話をしてしまいましたが、最初にお話ししたように私はこの仕事に生涯を賭けていますので、こういう話にはつい力が入ってしまいます。もう少し肩の力を抜いて話せれば良いのですが、私もまだまだ途上ですので、ご了承ください。それでさっきビギナーという話をしましたが、そこでも私の先生から教わったことがあります。整体院を開いているとクライアントの方いろいろなご相談を承ることがありますが、中には整体術の範疇を明らかにオーバーしているだろうと思われることがあります。でも、そういう時はきちんと説明し、お断りさせていただきます。中には何でも良くなるという先生もいらっしゃるようですが、私の先生からはきちんと整体術としての限界について教わりました。その上で限界を超えると思われるケースについてはちゃんとお断りする勇気を持つことの大切さを学んだわけですが、これは大切な意識だと現場に立って感じています。開業した頃は仕事だからと思い、とりあえずお引き受けすることもありましたが、逆に相談する立場であれば無責任な対応されることが心配なのではと思うようになり、その後は教わった通りの対応をしています。一例を挙げれば、コロナの問題です。そのことを整体院にご相談される方はいらっしゃいませんが、分かり易い例で言えばそういった感染症に絡むご相談があります。ですから、雨宮さんがギックリ腰になる前に経験されたコロナの疑いによる体調不良の改善を求めていらしてもお断りさせていただきます。もっとも、それは分かり易い例として挙げましたし、現実にそういう方は一人もいらしたことはありませんが・・・」  奥田の心構えについて聞いたことで、これまで私が持っていた整体についてのイメージがだんだん現実的なものになっていった。正直、これまではもう少し軽く考えていたけれど、奥田の考え方を聞き、そういうことがベースになっているからこそ信頼できるようになったのだ、ということが分かったような気がしていた。 「それでビギナーの頃、現場で困った時のケースについてお話ししますね」  さらに現実的なことについて奥田が語り始めた。 「私が教わった先生は講座として開講されていますが、武道の師範でもあり、何と言うか流派的な意識が強い印象でした。ですから、その整体の名称を用いるなら道場を開くような意識で、ということをよく話されていました。となると道場破りにも対応する気持ちを持って、ということを冗談交じりで言われていましたが、私はその話を結構真剣に受け止め、道場破りということを整体術の範疇内のケースでありながら結果が出せなかった場合に置き換える、というように解釈しました。でも経験不足、勉強不足から結果に結びつかないこともあります。だから何か迷った時、分からないことがあれば先生にご相談し、解決策をお聞きしました。先生も今お話ししたように武道の流派的なことを意識されていますので、こういう時には熱心にアドバイスをされ、中には教わっていなかった新しいアプローチ法も教えてくれました。ただ、その時にはどういう症例について経験したかということを詳細に尋ねられました。今思うと、それがその時点でも私の技術力の到達度を見られていたんでしょうね。先生のお考えもあり、卒後もいろいろサポートしていただいたので今の自分があると思っていますが、現場での経験、実戦経験の大切はいつも説かれていました。そしてそういう経験が無ければ教えられない技がある、ということもおっしゃっていました。今はそういう言葉が金言であることか分かりますが、当時はそんなにもったいぶらなくても良いのでは、と思ったこともあります。まあ、これは今だからこそ言えますがね」  奥田は少し照れたような感じで言った。ある程度実績を出している段階になると、最初からそのステージにいるかのような話をする人がいるけれど、奥田のこういった言動はとても好感が持てる。だからこそ、話の内容についても信頼感が出てくるのだが、私にとっては理解できる話ばかりだ。  横にいる美津子の表情を見ても、理解している様子が伺える。その上で今度は美津子が奥田に質問した。 「先生、癒しや整体に対する考え方については分かりました。思想的には私にも分かりますが、家庭を預かるものとしては仕事としては成り立つのか、といったことにもお聞きしたいことがあります」  美津子は真顔で奥田に質問した。私はそういう話は今すべきではないのでは、と思ったが、そこは性格的な違いなのだろうし、現実的に転職を意識する場合にはあらかじめ意識しておかなくてはならないことだ。だから私は流れに任せ、そのまま奥田の話を聞くことにした。 「奥さん、そういうことも転職を考える上では必要です。だから話の流れの中で私からお話ししようと思っていたのですが、質問が出たのでちょうど良かった。ただ、この話をする場合、雨宮さんたちが生活に必要な費用がどれくらいなのかといったことが前提になります。ただこういうことはなかなかお答えにくいことでしょうから、一般的なケースでお話しします。家に帰られてこれからお話しすることを参考にしてお考え下さい」  奥田は私たちに配慮して、一般論として話し始めた。 「まずお尋ねしますが、雨宮さんたちがおやりになっている居酒屋さんの場合、店を開こうとすればどれくらいの資金がかかりますか?」  奥田はストレートな質問をしてきた。確かに何か仕事を始めようとすれば、それなりの予算が必要であり、用意できなければ開業は無理だ。 私たちも自分の店をオープンする時、そのお金を準備するのは大変だった。今はそういうことを忘れていたが、2号店を開いた時、あるいは3号店を考えた時にも頭の中にあった。だから、新しい仕事として癒しの店を考える時はこういうところを改めて考えてみなければならない。そして、それだけの資金投下をしてどう回収していくか、ということは何かをスタートをする時は必須のことだ。今回、奥田に相談する時はすっかり忘れていた要件だったが、ある意味この話は本当に生業として可能かどうかの重要なポイントになる気がしていた。 「はい、店の規模や立地、それからどのような内装にするかなど、結構お金がかかるところがありますので、1000万円あっても足りない、ということになります。もちろん、一人で回すような店舗の場合はそれ以下でもできますが、厨房の設備などは安くありませんし、そもそも人通りが少ないような場所ではお客様が入りませんので、不動産取得のための費用もばかにできません。私たちがやっている店の場合、最初に2000万円以上かかったように思います。幸い、手持ちでそれなりに用意していましたし、運転資金を残しており、融資を受けたらスタートしました。借金の分をできるだけ早く返そうということで頑張りました。それで信用がついたのか、2号店をオープンする時には思った以上の額の融資が可能で、1号店よりはスタートが楽でした。こちらの方もすでに返済していますので、今はいざという時の余裕も少しでき、それがコロナ対応にも役立っています。もともと3号店オープン用に準備していたお金ですが・・・」  私は奥田に聞かれるまま、開業に必要な一般的な資金と自分の実情について話した。奥田の場合、業種の違いから興味深げに聞いていたが、そういう話の後、整体院に必要な資金について話し始めた。 「そういった金銭感覚をお持ちであれば、多分整体院開業についてはとてもリーズナブルにお感じになるでしょうね。まずウチの規模をご覧下さい。おそらく雨宮さんのお店よりも狭いでしょう。不動産関係の費用についてはどの業種も必要ですし、この点は何をやってもかかります。ですから、雨宮さんの御商売と比較してお考えになったら分かり易いと思います。また、来院されるクライアントのことですが、私たちの仕事は技術があれば遠くからでもいらっしゃいます。今はコロナの問題があるので以前ほどではありませんが、紹介という場合がありますので、思ったよりも広範囲からお越しになるんですよ。もっとも、今お話ししたように、技術があればということですし、マニュアル的な技術であれば無理です。そういうところに通われる方の場合、とりあえず身体をほぐしてもらえれば、ということが目的ですので、私がイメージしているお店とは異なります。雨宮さんのお考えはいかがですか?」  奥田が私たちを見ながら問いかけた。今ここに相談に来ているのは、もともと奥田の腕を信じ、自分自身が身を以てその効果を体験したからに他ならない。となれば、奥田の考えには一も二もなく賛同した。 「その場合、飲食業ほど立地にこだわることは必要ありません。評判を得るには多少の時間を要するでしょうが、その点は他の仕事でも同じだと思います」  私たちは奥田の話にいつの間にか相槌を打っていた。これまでは施術を受ける側としてしか考えていなかったが、その裏にはきちんとした経営に対する意識が存在していた、ということを改めて感じていたのだ。  奥田は続けて言った。この時点では奥田も単に話すだけでなく、身振り手振りが加わっていた。その様子からより奥田の言葉が心に染みていたが、経営についての核心に近づいた。 「つまり、この点からは飲食店よりも立地にこだわらなくても良いと言え、雨宮さんたちが考える条件よりは難度を落とせるはずです。広さについてどれくらいの規模にするかで違いますが、例えば奥様と一緒におやりになろうという場合、15坪もあれば十分ではないでしょうか? もちろん、スタッフを入れて、それなりの規模で対応されようとお考えの場合、それに応じた広さが必要になりますが、一応参考になりそうな数字を挙げました。こういうところは運営のやり方に関係しますので、雨宮さんでお考え下さい。それから設備ですが、整体院の場合、ご覧のように飲食店のような予算がかかる設備は必要ありません。例えば施術用のベッドですが、ピンキリはあるものの1台10万もかかりません。他の設備である空調や椅子やテーブルなどついては規模にもよりますが、居酒屋さんの仕事に比べればかなり少ないと言っていいでしょうね」  話を聞いていると開業に際しては思った以上にかからないことが分かり、美津子の表情はずいぶん柔らかくなっていた。懸念していたところが明確になったからだが、奥田はそれに加えて言った。 「でも、いくら開業資金が雨宮さんたちの仕事に比べて低く抑えられると言っても、実際には生活がありますからそのための費用は売り上げから捻出できなければなりません。そこで実際の仕事として考えてみたいと思いますが、居酒屋さんの場合、食材そのものの費用がありますね。原価率と言ったら良いのでしょうか、どれくらいが目安なのでしょうか?」  また奥田が質問してきた。こういうところは通常であればあまり答えないところだが、ここでは不思議といろいろ話してしまう。で、こんな点がきちんとしていなければ本当のことは分からないというところと、一方的に聞くだけでは奥田に対して失礼だ。だから私は可能な限り答えていた。 「希望は3割以内で抑えたいところですが、メニューによってはそれ以上かかってしまうこともあります。それに加えて準備する時の人件費や光熱費も加算しなければなりませんし、食材は生ものですので、古くなったら捨てなければなりません。そういうコストも考えなければなりません。実際の経営ではそういうことで得られた売り上げから人件費や家賃なども捻出しなければなりませんので、数字的には大きくても、意外と利幅は少ないです」 「そうですか・・・。私は雨宮さんの仕事のことは何も存じませんでしたので勉強になりました。では整体院の場合でお話ししますが、材料費は一切必要ありませんし、もちろん廃棄するようなものもありません。もっとも、毎回交換するタオルなどにかかる費用はありますが、こういうものは何度も使用できますし、消耗品についても飲食店に比べれば微々たるものでしょう。ですから、売り上げのほとんどが利益になります。もっとも、スタッフにかかる費用についてはその中から人件費として必要になりますが、こういうところはどの仕事でも同じですよね。でも、もしご夫婦でおやりになれば、その売り上げは家賃などの必要経費を除けばほとんど収益になりますので、大変効率の良い仕事と言えるでしょう」  この話を聞いている時、美津子の表情は積極的なものになっていた。もちろん、それは私も同じで、2つの仕事を比較してビジネスとしてもやっていけそうな気がしていた。  ここで奥田は少し表情を厳しくして話し始めた。 「今までのお話でこの仕事に対して積極的になられたかもしれませんが、実際の売り上げと居酒屋さんの場合を比較すると結構違ってくると思います。具体的な数字はお尋ねしませんが、整体院の場合、1日の来院者数に施術費を掛け合わせれば売り上げが出てくると思います。その数字には日によってばらつきがありますので上下します。だから毎日のことで一喜一憂するのではなく、月単位で見て平均を考えることが必要ですし、月によっても天候などの違いから数字が異なってきます。ですから、どれくらい数字が上がるかと考えた場合、そういったバラツキを念頭に考えなければならないのです。仮にお二人で店を構えたとし、1日に20名のクライアントの方がお越しになるとしますが、それなりの時間を要しますね。そこに施術費を掛け合わせ、さらにそれを1ヵ月の営業日数で考えます。それが月商となりますが、ウチで設定している施術費を参考に計算なさってください。そして今お話しした1日当たりの来院者というのは2人で対応するには結構大変です。現実はそういうことになりますので、お話しした数字でも大丈夫ということであればお考えになって良いでしょう。また実際は、そこまで数字を伸ばすには時間も必要でしょうから、最初の内は結構大変かもしれないですね」  この話を聞き、美津子は少し引き気味になった。どんな仕事でも最初は数字的に大変ということは分かっていたつもりだが、現在の数字を頭に置いて考えると、結構厳しいものなのだということが分かったからだ。  ただ、私はそのような話を聞いてもあまり心が揺らがなかった。それは癒しという仕事に対するやりがいのようなことをイメージしていたからだ。まだ実際にやっているわけではないので心の底からというわけではないだろうが、自分の体験から人のためにということが直接的にできるこの仕事に対する意識のほうが勝っていたのだ。そして、話を聞きながら頭の中で計算してみたが、今の私たちの生活水準から考えれば、利益率が高いこの仕事の場合、余計な支払いが無い分、毎日の暮らしには問題ないのではと思っていた。もちろん、その水準になるには奥田の話のように時間は要するだろうが、それは居酒屋をやった時も同じだった。出費分の割合が多い分、最初の頃は資金繰りに苦労した時もあったが、その時のことを考えればどの仕事でも最初の頃は大変なものなのだということは知っているつもりだ。だからこのことについては家に戻った時、改めて美津子と話してみようと考えた。  その上で私はもう一つ質問した。どのように技術を身に付ければ良いか、ということだった。技術力というのは、今の仕事で言えば商品でありメニューとなるわけから、ここの手抜きは致命的だということは私にも分かる。だからこそ、この点は今日の相談のポイントの一つになる。 「それで先生の技術ですが、どうやって学んだのですか? 私たちはこれまでいろいろなところで施術していただいたのですが、今一つ満足できませんでした。それで今、先生のところにお世話になっているわけですが、さっきおっしゃったように技術があれば紹介が増え、少々距離があってもお越しになる、という話は実感できます。もし私がこの仕事に就く場合、そのベースになるところが分からないとその先はありません。その点を教えていただけますか?」  私は懇願気味に質問した。  奥田は少し考えた様子で口を開いた。 「実は私が教わった先生は質にこだわる方で、学校という形式ではありますが、手続きさえすれば教われる、という感じではありませんでした。そこに求められるのは本物のやる気であり、卒業後、学校が何とかしてくれるといったところではありませんでした。でも、本気の方であればいろいろサポートしてくれる、といった雰囲気でした。私も複数の学校で説明を聞きましたが、説明は事務的で、美味しい話ばかりされました。私も社会人ですのでそういった甘い話は半分しか聞いていませんでしたし、やたら入学を進めてきます。そんな雰囲気が嫌でこんなものかといった感じでいました。そしてある時、本屋さんで整体関係の本を探していると1冊の本を見つけました。整体師になった成功話が書いてあるのは宣伝用の自費出版的な感じのものばかりでしたが、それはそういう類の本でありませんでした。整体術についての考え方を含め、それに基づいた技術的なことが書かれていました。複数の本を出されていますのでそれを読みますと、その先生は整体の他に武道をやられているようで、そこでの身体の読み方が技術にも活かされているとのことでした。この2つは全く別のように思いますが、それぞれ読んでいるとその考え方に共鳴しました。癒しとは対極である人の身体の壊し方の経験者ということで、そのギャップにも大変興味を持ちました。ただ、だからでしょうか、施術については心地良い中で結果を出すことが大切と説かれており、こういうところも私の考え方と合致しました。実は私もこの世界に入る前は腰痛持ちで、あちこち通いました。痛い思いをしたり何をやっているか分からないような施術に整体の世界はこんな感じか、と思うようになっていました。その考えがその先生に出会って変わったんです」  奥田は珍しく嬉々として話していた。これまでのお付き合いの中では見たことが無いような感じだった。それだけ奥田にとってその先生との出会いが大きなターニングポイントになっていたのであろう。私も美津子もこの話には大変興味を持った。 「それでその先生と会われた時、どうだったんですか? 何か特別なことでも?」  この質問が美津子の口から出た。先ほどは経営的なことに興味を持っていたようだが、話を聞く内に整体に対する興味や意識が変わってきたのだろう。もちろん、その整体についての興味が強くなったのは私も同様だったので、奥田の話の続きに興味津々だった。 「はい、本の後ろの方に連絡先などが書いてありましたが移転されたようなのでネットが調べ、電話を掛けました。ちょうど先生が出られましたので整体について興味があり、できれば仕事として考えたい、ということをお話ししました。もちろん初めてでしたが、先生はそれでも時間を取ってくれて、相談に伺いました。約束の時間に伺うと、ちょうどその時腰の調子が今一つだったので少し姿勢が悪かったようです。でも、私はそれに気付いていませんでした。先生はそれを見て腰の問題を指摘されました。それで予定外だったのですが、ベッドに横になるように言われ、その通りにすると下肢のツボを数ヶ所押されました。正直、腰以外のところを押されても、と思っていましたが、立ってみると腰が軽くなっていました。しかも、その時の感触は圧はしっかり浸透しているけれど、これまで経験したようなゴリゴリした感じではなく、自然に深く入っている、という感じでした。あとから聞くと通常はこういうことはしないけれど、あなたの場合、腰が曲がり、とてもその様子が気になったから、ということでした」  私はいきなり初対面の人に施術するというのもすごいと思ったが、その後の流れも気になり、ついその続きに期待する顔になっていた。 「・・・まあそんなに慌てないでください。これまで経験したことのないような感触と腰から遠い所への簡単な刺激でこんなに変わるものなのか、ということを自分の身体で体験しました。今ならその意味が分かりますが、その時はとても衝撃的でした。でも事実です。私自身がこの身体で体験したことですから。その後の話は私が先ほどお話ししたようなことも含め、いろいろ伺いました。そして私がさらに驚いたのは、次の日の朝でした。ベッドから起き上がる時、腰の負担が無かったのです。それまでは起きるまでに腰に違和感を感じることがあり、実は伺った当日もそうだったんです。ほんのちょっとした施術が次の日まで影響しているということを身体で感じた私は、すぐに先生のところに電話を入れました。施術の御礼とその結果の報告です。先生は大変喜んでおられました。ちょうどこれから授業が始まるということでしたのでお礼もそこそこにして入学を考えているということをその場でお話ししました。でも、それならもう一度お越しください、ということでした。私の本気度を確認したいということだったのです。それでその日の夕方、再度伺う約束をしました」  奥田はそこまで話すと、テーブルに置いてあったお茶を口に含んだ。私たちもそれに合わせていただくことになったが、喉が渇くことを忘れるくらい奥田の話に集中していたということを改めて実感していた。 「約束の時間に訪れると、まずは姿勢を観察されているようでした。初めて会っただけなのに気にかけてくれる気持ちに感動しましたが、その日は私の本気度についての質問があり、その時に考えていたことについてきちんと話しました。後から分かったのですが、こういうことが実は入学試験だったようで、癒し・整体の学びはこれからことなので、一般常識があれば問題なく、むしろ学びや卒後の進路に対する強い意志が大切、というお考えのようでした。本当はこういった裏話はしてはいけないのでしょうが、雨宮さんの場合も本気でお考えのようですので、ついお話しさせていただきました」  一応最後まで話せたことで奥田はここで一息ついた。その上で何か質問はないかと尋ねてきた。私たちは顔を見合わせ、お互いに何か聞きたいことがあるかを確認した。その上でまた美津子が質問した。 「その先生の教室の住所や電話番号を教えていただけませんか?」 「分かりました。それは結構ですが、中途半端な気持ちでは行かれないようにしてくださいね。伺われる前に二人でしっかり話し合い、ある程度この業界への意識が高まったら行かれると良いでしょう。そういう意識であれば、先生もきちんとアドバイスされると思いますよ。おそらく雨宮さんの場合は今日のようにお二人で行かれるでしょうから、それだけで本気度は伝わると思いますが・・・。住所と電話番号はメモでお渡ししますね。よく話し合われ、その上で具体的なご相談をされると良いと思います」  時計を見ると1時間以上相談していたことになる。思った以上の時間を割いてもらったことに私たちは深々と頭を下げ、お礼を言った。その上で封筒に包んでいたお礼を渡そうとしたが、奥田は施術費以外受け取らなかった。これは施術ではないからということが理由だったが、時間を割いてもらったのは事実だ。だから是非ともと何度も言ったが、首を縦に振らなかった。結果的に私たちが引くことになったが、後日別のカタチでお礼をしようと考えた。      ◇  奥田の店から帰った時、私たちの気持ちは高揚していた。私の場合、もともと癒しの世界に関心が強くなっていたため当然ではあるが、意外に美津子の気持ちも高まっていたのだ。相談に行く前は、とりあえず一緒に行って話を聞くという感じだったが、奥田との話の際は思った以上に積極的に話に参加し、私が質問しようとする前に核心的なところについて尋ねている。  だからといって私の提案について美津子がどこまで理解し、考えようとしているかはまだ分からない。私たちはいつもの夜のようにリビングのテーブルの上にビールを置き、話をしようとしていた。でも、考えてみればまだ夕食を摂っていない。店に出ている時はちょっとした合間に何か食べ物を口にし、家に帰る時に残り物を持ち帰り、それをつまみにしてビールと一緒に食べるということでそれが夕食代わりになっていた。それが一般の家庭のように明確な夕食の時間を取っていない私たちの日常だが、さすがに何もお腹に入れていなければ悪酔いする可能性がある。  そこでビールが温くならないよう冷蔵庫に戻し、家にあるもので簡単に作り、それを夕食の代わりにしよう、ということになった。だが、奥田との話でお腹が一杯になったような感じもあり、本当におつまみ程度の内容になった。豆腐になめこを掛け、朝食用に買ってあったロールパンにレタスやハムを挟んだものという具合に、酒の肴と朝のメニューが一緒になったような不思議な内容だった。でも、この日の私たちにはそんな食事でちょうど良く、2人で手分けして手早く用意した。話のほうが大切だから、ということをお互いに分かっていたからだ。  メニュー自体は簡単だから、大した時間はかからなかった。出来上がった料理はリビングのテーブルに運ばれ、先ほど戻したビールをまた卓上に並べた。 「さて、今日の話だけど、どう思った?」  私たちはおつまみとなる豆腐に手を付ける前にパンを食べたが、すぐ食べ終わった。ビールを飲みながらの話になったが、お腹に何か入ると少し気持ちも落ち着くようだ。私が美津子に尋ねた時の気持ちは帰宅時よりも落ち着いているのが自分でも分かった。だが、それくらいのほうが客観的な意識で話せるのではないかということも思っていた。 「私、奥田先生のところに伺うまではあまり乗り気ではなかった、というのが本当のところ。でも、あなたのギックリ腰が見事に回復し、癒しという世界の大変さや面白さも少し理解できたみたい。今回の話のきっかけになったのはあなたの体調の問題だったけど、その分あなたは私とは違った意識で話を聞いていたと思う。異なる人間だから意見や見方が違っても当然だと思うけれど、同じ話を一緒に聞くと、今日のあなたの変化の様子を隣で見ていて、癒しという仕事のやりがいというところも理解できるような気がしたわ。でも、この前も話したと思うけれど、私たちは2人だけで居酒屋というお店をやっているわけじゃない。この点をどう解決できるかが転職する場合の最大のネックになると思うわ。確かに今、コロナの関係で売り上げは落ちているし、そういうことを理由にお店を畳んだところもあるということは少しずつ耳にしている。だからそれを理由に廃業するということがあっても強く文句を言う人は無いと思う。だけど、私たちが転職することを考えて店を閉めるということであればみんなに申し訳ないわ。一生懸命頑張ってくれたし、売り上げがどうなっているかということも毎日のように出勤している矢島君や中村君は知っている。だから売り上げ不振でといった理由は通用しないと思うし、これまで築いた信頼を裏切ることになるから私は賛成できない」  美津子は真顔ではっきり言った。  だから私も真顔で答えた。 「先日話したことを思い出してほしいんだけど、以前3号店の話をしていただろう。でも、今の時期、それは難しいと思う。今やっている店をベースに動かしていくことはできるだろうが、新しく新店をオープンし、軌道に乗せるまでには時間がかかるだろう。でも、今の1号店、2号店なら馴染みのお客様もいらっしゃるし、今はランチタイムやお弁当の企画もやっていて、少しずつだけど光明が見えている。だから俺が休ませてもらっている時、矢島君たちに譲るという方法も話したよね。今の時期、これまでと違い大変だろうとは思う。でも、最近の流れや、これまで話したことからは、経営者的な意識でいるような感じがしていた。もちろん、それが十分ということではないだろうけど」  ここでは私は喉を潤すためにビールを飲んだが、そのタイミングで美津子が言った。 「確かに矢島君の意識が変わってきたことは私も分かる。でもそれはあくまでもチーフとしての立場であり、経営者のような責任ある立場からの話かしら? 私は2号店にいるからいつも話しているわけじゃないので分からないところがあるけれど、本当に任せても大丈夫と考えているの? 確かにあなたが休んでいる時に1号店に行って話を聞いたし、責任感を持ってやっている感じはあった。ただ、そういうのは一時的なことだし、あなたが戻った時にも、あるいはもし店を本当に任された時にも同じ意識でいられるかしら。私はそのあたりが分からない。先日、あなたから店を譲るという話を聞いた後、私も矢島君と話をしたわね。でも深く話したわけではないし、本気の話になったら引いちゃうかもしれない。だからこの点は改めて話をしないといけないと思う」  美津子が言うことももっともだ。私は仕事中、いつも矢島と一緒なのでちょっとした言動や気付き、気遣いということをつぶさに見ているつもりだ。だからこそ、今では頼もしいパートナーとしても見ることができるし、店を任せても良いとも思える。今回の私が開けた穴にしてもきちんと補充してくれたことは容易に想像できるからこそ、私は美津子に言った。 「こういうところはどれくらい一緒に仕事をしている時間の違いからきているのかもしれないが、同じようなことは2号店の中村君の場合も同様だ。俺は彼のいつもの仕事ぶりは知らない。でも美津子の場合はいつも一緒だから、俺よりもそのことについては知っているだろう? 例えば、もし美津子が俺と同じような状態になった時、中村君には任せられないか?」  私は逆に美津子に問いかけた。  もちろん、いろいろな条件があるし、それぞれの性格や考え方が異なる。評価の仕方も同じだ。だからこういうことを訊いても意味がないかもしれないと思ったが、そういったことを改めて認識した上で話を進めようと思ったのだ。それまで考えていた立場を変えるわけだが、それによってこれまで見えていなかったことが分かることがある。だからここで一度、美津子にもその立場で考えてもらいたかったのだ。  美津子は私の問い掛けに対してすぐに答えることは無かった。少し考えてから口を開いたが、私にとっては意外と長く感じた。どんな答えが返ってくるか分からなかったので、一人でいろいろなパターンを考えていたら時間の感覚がなくなっていたのだ。 「中村君もよくやっているわ。2号店の場合、幸い私が元気なので1号店のように完全に任せるということは無かったけれど、もしもの時には任せられるかな、という思いはある。もう長いからね。それなりの信頼は寄せているわ。ただ、経営のこととなると未知数だし、今は責任あるスタッフということでのイメージかな。これまで私の代わりにやってもらうということもなかったし、考えたこともなかった。だから、そのことについて正しく中村君のことを捉えられているかどうかは分からないけれど・・・。今言えることはそれくらいかな」  思っていたより簡単な答えだった。  だが、これまで考えことが無いわけだから無理もない。だからこそここできちんと考えてほしいと思い問い掛けたので、私は続けて言った。 「俺が家にいる時、昔のこと考えていた。居酒屋をやろうと思っていた時のことだ。チェーン店での経験だったけど、ある程度運営を任されていたからいろいろ自分で考え、売り上げに結び付けたこともあった。そういうことの積み重ねで独立して自分で店を持とうという自信をつけ、オープンできた。もちろん、美津子の協力も大きく、いろいろ陰に日向に支えてくれたことは感謝している。そして独立した今は2号店までオープンさせ、コロナなんて流行らなければもしかすると3号店を開いていたかもしれない。実際、そのための資金も確保していた。2人で始めたにしてはこれまで順調だったように思うけれど、俺たちも最初から経営者だったわけじゃない。試行錯誤しながら少しずつ進んできたし、そこには夢があったりやりがいを感じていたからこそやってこれたと思う。矢島君や中村君の場合も、今は昔の俺たちのような段階にいるとしたら、まだまだ伸びしろはあるんじゃないだろうか?」 「そう言われればそうかもね。私たちも昔はいろいろ失敗も含めて学び、成長してきたと思う。だから矢島君たちのこともそう考えれば理解できるわ。でも今は店を畳んで整体の仕事に転職するとかいう話じゃなかった? だから店をどうするかということになって、それがいつの間にか店を任せる云々といったことになっている。あなた、何が言いたいの?」  美津子は私の顔を見ながら鋭く突っ込んできた。ある意味、そのことを話すためにこれまで話してきたような感じだが、美津子から言われたことで話しやすくなった。 「でも、店の譲渡については今初めて話したことじゃない。先日も話した。流れとして改めて俺が転職した場合の彼らの今後、ということ出てきたはずだ。繰り返しになるので同じ話はしないけど、今でも居酒屋は好きだし、コロナをはじめ、体調を壊したりしなければ今みたいなことは考えなかっただろう。だからこそ今、自分の責任ということも合わせ、現実的な方法というのが俺が現場から身を引き、矢島君に店の経営を任せようと考えた。幸い、今の店は会社組織になっているから、俺が会長や相談役になり、一定の報酬はきちんともらいながら店にも時々顔を出し、手伝いながら相談に乗るといったことでみんなのフォローをしたいと思っている話もしたはずだ。俺は整体の技術を学んで現場経験を積み、やがては整体院をオープンし、スタッフの健康管理も含めてやっていければと思っている。こういうことは俺一人でやっていくことを考えていたけれど、さっき奥田先生のところで相談していた時の様子を見て、もしかすると美津子も整体の仕事に興味持ったのかな、そしてもしそうなら一緒にやることもあり得るかな、ということを考えていた」  私は美津子の顔を見ながら言った。思ってもよらなかった私の言葉に表情が変化したが、その印象はそんなに悪いものではなかった。 「そんなことを言われるとは思わなかったわ。でも、嬉しかった。今やっている居酒屋も2人でやってきたけど、あなただけ違う仕事になるとちょっと寂しい感じがしていた。なんだか取り残されるような感じがして・・・。でも、その言葉を聞いて、今まで私の中のモヤモヤが少し晴れたみたい。矢島君たちの話をして私があなたの提案について渋っているような感じだったけれど、私もスタート時の不確かさは知っているつもりだし、本当にその仕事が好きならば何かあってもやり抜こうとするでしょう。お店の方のいろいろなアイデア作りや実行する時の様子を見ていたら昔の私たちのような雰囲気だったし、だからこそこれからもきちんとやっていけると思った。でも、少しは心配なところもあり、せっかく2人で作ってきた店だからつぶしたくはない。だからさっきあなたが言ったように、肩書は何でもいいけど、お店に関係するようなところで残り、みんなのサポートをしたいというところには賛成だわ」  私は美津子の賛意をきちんと聞けてやっとホッとした。こういうことは周囲の納得・理解・フォローが無ければうまく行かない。一番身近なのが家族の協力であり、これまで一緒にやってきた美津子の賛意は何よりの援護射撃だ。 「もう一つ話しておくけれど、これは本音の一つと理解してほしい。会社の役員として残るというのはその報酬を意識してのこともある。新しく仕事を始めるとなると、収入の点が不安になる。もちろん、給料については半額くらいで良い、と思っている。2人分が1人分になるといった感じになるが、全くの無収入になるわけじゃない。俺たちにも実際の生活があるし、その点はきちんと確保していなければ家長としての立場が無い。現実的なことだけど、良い顔だけをしているわけにはいかないからな。この前話した弁当のデリバリーなど、うまく軌道に乗れば売り上げにもプラスになるだろうし、そういった彼らが頑張った分についてはみんなで分配すれば良いと思っている。あくまでも役員報酬的な部分はこれまで俺たちが作ってきた店の分からのこととして考えたいんだ。まだみんなには何も話していないけれど、基本的な考えとしてはこんなところかな。今晩、ここまで話せるとは思っていなかったけれど、今考えていることを伝えられて良かった。何か付け加えることがあるかな? あれば聞かせてほしい」  思いの丈を話せたからか、私の気持ちはずいぶん軽くなった。再びビールを持ち、今度は空にするくらいの勢いで飲んだ。話に夢中になり、用意していたおつまみには手を付けていなかったので、飲みながらそれも口にした。大きな仕事を終えたような気持になっていた私は、いつもよりもおいしく感じていた。 「あなたの考えはよく分かったわ。でも、それは私までのこと。矢島君たちに何も話していないんだし、受け止め方も違うと思う。言い方を間違えると今、飲食業は大変だからということで敵前逃亡したようにも受け止められかねない。・・・ちょっと言い方は悪かったかもしれないけれど話す時は十分注意しないといけないわね。でも、その前にもう一つやっておくことがあるわ」 「何?」 「奥田先生から伺った先生の話よ。そこで勉強するかどうかということも考えなければいけないし、実際に足を運んでみる必要があるわね。奥田先生の話は分かったけれど、実際に話を聞くと違うところもあるかもしれない。みんなに話す前、こういうところはきちんとしておかなければならいないと思うわ。私たちのこれからがかかっているわけだから、この点はちゃんとやりましょう」  確かにその通りだ。ただ、そうは言ってもどうやって時間を作るかは問題だった。 「それは私たちの公休日に行けばいいじゃない。お店はお正月以外は無休だけど、私たちも含め、みんなでスケジュールを調整して休んでいるし、それを利用すれば良いわ」  美津子が言った。私もそれは考えていたが、相手側の問題がある。私たちの休みに合わせて学校の話を聞きに行くことが可能かどうかだ。 「それは俺も考えていた。でも、俺たちの休みに合わせて伺うことはできるかな? 先方にも予定があるだろうし、俺たちの都合だけで決められるわけじゃない」 「それもそうね。でもそれはここで話していても仕方ないし、明日、学校に電話してみましょうよ。スケジュールが合えば一番だけど、もし無理そうなら、その時に考えましょう」  現実的な答えだった。今、自分たちだけで考えていても結論は出ないし、もしかするとお世話になるかもしれないところに、私たちの都合を押し付けるような失礼な真似はできない。 「じゃあ、スケジュールが合わない場合はどうする?」  私は再び美津子に訊ねた。 「そういうこともあるだろうし、そのほうが可能性、高いかもしれないわね。その時は矢島君や中村君に休みのことを相談し、うまく調整するしかないわね。2人で出かける用が入った、ということなら問題ないんじゃない? 実際、その通りなんだし・・・」 「そうだね。でも、みんなに何も話さないで俺たちの事情だけで休みを取るというのはちょっと心苦しいかな」  私は顔を少し曇らせながら言った。他のことならともかく、私たちの転職に関わるかもしれないことで休んで、しかもその理由を話さない、というところに少し後ろめたさを感じたのだ。 「でも、まだ決まったわけじゃないし、あくまでも情報集めでしょう。本当に決めた後ならばきちんと話さなければならないけれど、話を聞きに行くだけなので、あまり考えすぎなくても良いんじゃない? そんな感じだったら前に進まないと思うわ。この話、もともとあなたからのことでしょう。物事を決める時にはいろいろ考えなくてはならないと思うけれど、やることをやり、最終的に決断すれは良いと思う。学校に話を聞きに行くのはそのための行動の一つだし、その上で決心したら、そこから本当に皆に腹を割って話さなければならないと思うわ」  まさに美津子の言う通りだ。私も相談される側だったら同じように言うだろうが、それが自分のことだったらいろいろ迷いが出る。改めて立場の違いで考え方にもふらつきが出る、ということを実感した。  同時に、今の段階で意識がふらつくようだったら、転職という段階ではもっと考えが揺らぐかもしれないとも思った。でも、今の美津子の意見で目が覚めた感じがした。まだ、本当に癒しの世界に転職するかどうかは決めかねているところがあるが、心の中では決断の針がどちらに触れるか落ち着かない状態だ。学校で話を聞いたら本気で決心しなければならないが、その上で止めるという選択肢もある。いずれにしても明日、学校に電話して、話を伺う機会を作った上でということで私たちの話は終わった。      ◇  次の日の朝8時30分、私は奥田から紹介してもらった学校に電話をした。電話口に受付の女性が出た。私はすぐに用件を伝えた。 「もしもし、私は雨宮と申しますが、奥田先生からのご紹介でお電話を差し上げました。整体術に興味がありまして、講座の説明会などの日程などをお尋ねしたいのですが・・・」 「お電話ありがとうございます。説明会の日程ですか? 少しお待ちください、確認いたします・・・。今週は満席ですので、来週の土曜日の夕方4時ならば空席がございます」  この返事に私は驚いた。今、整体に興味がある人がそんなにいるのか、というところについてだ。思わず私はそのことを質問したが、その返事は意外なものだった。 「はい、確かに今週は満席ですが、もともと1回あたりの定員が4名になっており、少ないんです。これは参加者の方のご質問やご相談にきちんとお答えしたいという藤堂の考えからです」  私のミスだったが、奥田との会話の中で「先生」という呼び方になっていたため、つい名前を聞くことを忘れていた。聞いていた本も購入したいと思っていたが、名前も知らないようであれば失礼だと考えたので、あたかも知っていたかのように振舞う自分がいた。そのことに少し自己嫌悪気味になったが、ここではっきり名前を知ることができ、説明会に出席する時までにはしっかり読んでおこうと考えた。時間的には夜の部の開店近くになるが、そこは何とか都合をつけて出席したいと考え、出席希望の旨を伝えることにした。 「そうですか。それは大変ありがたいです。それでは来週の土曜日の枠で予約したいんですが、よろしいでしょうか? できれば家内も一緒にと思っているのですが、それは大丈夫でしょうか?」  そもそも少ない定員のところに2人で参加しても良いのか、という思いで尋ねたが、受付の女性は即答せず、誰かと相談しているような感じだった。 「お電話代わりました。代表の藤堂です。お電話、ありがとうございました。奥様と一緒に説明会に参加したいということでしたが、講座は開業希望の方を対象にしており、そのご相談などもお受けできるよう人数を絞っています。ですから、もし、軽い気持ちでのご参加であればご遠慮いただいております」  まさか藤堂本人が電話に出てくれるとは思っていなかったので大変驚いた。そして、私の質問に対して本気の度合いを確認し、その上で出席の是非の話になるというところにも驚いた。いくら技術にこだわりを持っていると言っても、学校も商売だろう、という気持ちがあったからだ。そしてそうならば、定員を4名に絞るということではなく、入れるだけ入れ、一方的な説明に終始するのではということも考えていた。奥田の話からはこだわりのある先生と聞いていたが、現実の商売の部分は違うのでは、という思いが少しあったからだ。  しかし、藤堂の言葉からはそういう雰囲気は感じられない。私も長年商売をやっているので人を見る目は持っているつもりだし、物事へのこだわりの気持ちも強い。藤堂の初対面の人に対するはっきりした物言いから、一瞬で信用した。奥田からの施術経験や会話というフィルターはかかっているものの、こういった考え方が技術そのものに反映しているのだろう、ということを改めて思いながらきちんと返事した。 「はい、今回お電話したのは奥田先生からのご紹介で、私も整体の道に入れればという思いがあります。そのことは家内とも話しており、だからこそ一緒に話を伺えればと考えたんです」  先ほど受付の女性には奥田からの紹介ということを伝えたが、藤堂の耳には入っていなかったようで、紹介者の名前を聞いて藤堂の声が変わった。奥田からの紹介であれば大丈夫、といった感じになったのだ。 「そうですか。では、奥様とご一緒にお越しください。私はこの後9時から授業になりますので、詳しいことはお越しになった時にお話ししましょう」  藤堂はそう言って再び受付の女性に電話を代わった。 「雨宮様、失礼いたしました。では、来週の土曜日、お2人ということでご予約承りました。当日、お気をつけてお越しください」  電話を切って、私は美津子のほうを見た。美津子は横で電話の様子を聞いていたので話の内容は理解していた。 「美津子、奥田先生から紹介してもらった藤堂先生、技術を教えるということにもこだわりがある雰囲気だった。奥田先生の話から何となく想像していたけれど、ちょっとしか話していない中からもそれが分かった感じだよ。藤堂先生の名前、電話で初めて知ったけれど、話していて奥田先生から聞いていなかったことを思い出した。何とか悟られずに済んだけど、もし名前も知らずに電話したなんてことが分かったら、とても失礼だった。早速藤堂先生の本を読むことにするので、午前中、駅前の大きな書店で探してみるよ。もし見つからなかったら、ネットで注文する。一緒に読めるよう、違う本をそれぞれ1冊ずつ探してみるよ」  奥田から話を聞いた後の最初の具体的な行動だった。美津子は私の話に頷き、そのあと私に言った。 「説明会のことは分かったわ。私も中村君に話し、その日の夜の部はお願いすることにする。矢島君には今日、連絡しておいてね。私は直接話していないから藤堂先生の雰囲気は分からないけれど、あなたがそんな風に言うのならきっとそうなのね。あなた、あまり初対面の人には少し距離を取るでしょう。それがちょっとした会話だけで信用するなんて、来週の土曜日が楽しみだわ」  この朝、電話の前に朝食の準備はできていた。とはいっても、テーブルに並んでいるのはおしんこや納豆、卵といった温かいことは必要ないものばかりだ。ご飯は炊飯器に入ったままだし、みそ汁は少し温めるだけで大丈夫という状態で、そこに煮物が並ぶことになっている。これもレンジですぐに温まるので、時間をかけずに朝食がとれる。やることをやればいつもの生活リズムに戻るわけだが、私は念のため、今日1日はまだ休みを取っている。店に出ても構わないと思っているけれど、この点は周りから止められている。だからこそいろいろできたこともあるが、話が進んでくると、矢島たちに黙っていることが心苦しくなる。  だが、これまでやってきた店を無くすわけではないし、きちんと話せば理解してくれるものと思っている。まだ話せる段階ではないが、今私が考えていることについてどう捉えられるのかということは心配だ。これまで築いてきた関係が一気に崩れ、結果的に店の存続ができないということにでもなれば、ということも頭によぎる。最近、同じようなことが頭の中で行ったり来たりしているが、体調を崩してからはいろいろなところでこれまでとは異なる様相を感じている自分がそこにいた。      ◇  次の週の土曜日、私たちは予定通りそれぞれの店をチーフに任せ、藤堂が主宰する学校の説明会に向かっていた。その道すがら、急いで読んだ藤堂の本の話をしていた。  今回2冊購入したが、1冊は在庫切れだったので、それはネットで注文していた。店頭で買えたのは整体術というよりも藤堂が目指す整体術についての考えを示す本で、ネットで注文したのは具体的な技術を紹介したものだった。技術のベースになる考え方を表わす本と、その具体的な結果となる技術解説書の2冊に目を通しておけば、おそらく今日の説明会の話も頭に入るだろうと思っていた。 「美津子、本を読んでどうだった? 俺は整体術に対する考え方にはついては理解できたけれど、技術解説書については難しくて分からなかった。単純なハウツーだけならともかく、奥田先生も言っていた表に見えるだけではないところまで考えると、行間を読まなくてはならない、ということなんだろう。そう思うと、なかなか進まなかった。俺は最初に読んだのが技術解説書じゃなかったので、一通り読めたが、2冊目は読破できなかった。美津子の場合はその逆だったので余計に難しかったんじゃないか?」 「そうね、あなたの言う通りよ。でも、今日に備えて少しでもたくさん読んでおかなければということで頑張ったわ。結果的にはあなたと同じように全部読めてはいないけれど、興味のあるところは読んだつもりよ。何かのベースがあればもう少し分かったかもしれないけれど、勉強するとなるときちんと習得できるか心配になるわ。今日はそういうところを質問してみようかしら。質問に答えられるように参加人数を絞ってあるということだけど、特に関心のあるところはきちんと聞いておきたいわね」  美津子の話を聞いていると、今日の説明会に対する意識はきちんと持っている感じだ。もちろん、私もそのつもりだが、それぞれの考え方で違った視点もあるだろうし、私の足りないところを補ってくれそうな気がしている。やはり今日は2人で出席するということで正解だったように思えた。  藤堂の学校は駅から少し離れている。いわゆる駅前ではない。徒歩でもギリギリ歩けるが、駅前からバスに乗るとバス停のすぐ前、というところにある。その分、駅前特有のザワザワした感じが無く、学校の周囲は落ち着いた感じになっている。こじんまりとした戸建てで、1階が付属整体院、2階が教室になっている。  私たちは1階で受付を済ませ、2階に通された。すでに2名の参加者が席に座っており、私たちは部屋に入るなり挨拶をした。教室は思ったよりも狭く、これでは授業も1クラスあたりの定員も少ないであろうことは容易に想像できた。その印象は美津子も同じだったようで、周囲をキョロキョロ見回していた。しかし私はあまりこういうことは気にならず、教えてもらう内容のほうに期待が膨らむが、そこが視点の違いなのだろう。  予定時間よりも少し早かったので、他の出席者と少々話すことができた。その人たちはいずれも複数の学校を見学したという。いろいろ比較して考えたいということだが、これまでの説明会の様子を話してくれた。  2人の話は似たり寄ったりで、説明会は形式な感じで、説明は事務系のスタッフが担当したとのことだった。カリキュラムのことや設備、卒後の進路などがメインで、中には実際の授業の見学をさせてくれたところもあったという。  ただ、肝心の技術のことやそのこだわりなどについての説明はほとんどなく、ある学校では割引特典のような話に終始していた、ということも聞いた。私たちはここが初めてということを話したが、他校見学の経験者の話としては比較したほうが良い、ということだった。  だが、今聞いたことから大体想像できたので、私はあまりそういう気が起きなかった。これからここでの説明会が始まるが、藤堂が直接話すということは分かっていたので、私の心の中はワクワクしていた。  定刻の午後4時になった。藤堂が教室の中に入ってきたが、奥田の話から想像していた雰囲気とは少し異なる。本やHPには写真があったので顔は知っていたが、実際に会うと印象が違う。だが、そういうケースはよくある。私の藤堂の印象も同様で、武道もやっているということだったので、もう少し強面の印象があると思っていたが、大変柔和な感じだ。もっとも、今はコロナの関係でマスク姿であり、本当の表情は分からない。でも目から分かることは多いので、そこから口元も柔らかいのだろうということは容易に想像できた。先日の電話対応でも感じたが、こだわりの部分には強いものがありつつも、全体的には柔らかく、やはり癒しの世界の先生なのだということがよく分かった。美津子に目配せすると、やはり同じような印象らしく、小さく頷いていた。  私たちは事前に他の参加者の人たちから説明会というのはこういう感じ、ということを訊いていたため、最初は同じようにカリキュラムなどのことだと思っていた。  でも、その予想が簡単に覆された。 「初めまして、藤堂です。これから講座の説明会を始めますが、これまで他校の説明会に参加された方はいらっしゃいますか?」  最初に出てきた言葉は説明会参加の経験の有無だった。私たち以外の2人は手を挙げた。 「今日ご参加の方の場合、お2人が説明会経験者ですね。では、その様子をお話しいただけますか?」  藤堂からこのような質問が出るのは意外だった。もちろん、同じ業界なのでどのようなことが行なわれているかについては理解しているだろうし、毎回の説明会でも同様に尋ねているだろうからそこからの情報もあるだろう。だから、ここでは他校の様子をリサーチするという意図が無いことはすぐに分かる。おそらく、具体的な説明に入る前フリのようなことなのだろう。  手を挙げた2人は、先ほど私たちに話してくれた内容を口々に話した。 「分かりました。ありがとうございました。挙手されなかったお2人は今回が初めてということですね。ではもう一つ、私から質問させていただきます。皆さんは『整体』と『整体術』という言葉についてどうお考えになりますか? ここでの説明会はここからスタートさせていただきますが、言葉だけが独り歩きし、基本的なところが曖昧なままであれば、皆さんが現場に立ってクライアントの方に施術しようとする時、何を念頭に行なわれるかとても心配になります。自分がやっていることに対してきちんとした認識を持っているかどうか、ということですが、そんな曖昧なままで手を動かし、施術したような気になることが心配なのです。単なる健康法的な学びであれば多少曖昧でも構わないかもしれませんが、ここで学ぶことは他人の心身の好転を意識するわけですから、自分の行為についてきちんと認識しておく必要があるのです。だからこそ、ここでの説明会というのは一種の授業であり、まずは基本的なところの認識を固めておいて、その上で講座の内容についてお話ししていこうと思っています」  私たち以外の2人は顔を見合わせていた。そして小声で「今まで行ったところと全然違う」とか「難しそうだな」といったことを言っている。私たちは奥田の施術を受けているので、クライアントの立場として藤堂の言っている意味がよく分かった。  藤堂はさらに説明を続けた。 「私は講座で『整体』は文字通り整った身体を意味し、『整体術』と言う場合は歪んだ身体を基通りするための具体的な技術体系を意味するとお話ししています。つまり、歪んだ身体・狂った身体を『整体術』によって『整体』の状態にすることと考えているわけです。この講座を学ぶ方の場合、そういうところについてはあまり関心を持っていないように見えますが、実はこういった定義をすることで具体的な内容がより明確に見えてきて、施術による結果を考える時のベースになります。だから、実際の講座でもこういった言葉の定義的なところからスタートし、そこから皆さんが普通に意識する具体的な勉強が始まります。私はこういうことは学びの最初の段階できちんと意識すべきだと思っていますが、再入学される方の場合、意外なほどこういう認識を持たれていないことが多く、だから現場に出て方向性を見失うのではと考えています。もちろん、こういう概念的なことを知るだけでは現場では役には立ちませんが、表には見えなくても根底にどのような意識を持っているかはやがていろいろなところで違いとなって表れてきます。この中には私が武道をやっているということをご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、武道の稽古は基本を大切にします。その出来如何でその後のレベルも変わってくることになり、だからこそ『極意は基本の中にあり』とまで言われます。ここで教授する『整体術』の中にもそこで用いられている身体の使い方の知恵が含まれており、精妙な技術の共通箇所を基本と意識する点は同じなのです。そして、その基本の基本となるのが体系全体に通じる考え方であり、この点を最初に理解していただくことで現場での皆さんの仕事のベース作りになるよう期待しているんです」  私は藤堂の説明にびっくりした。美津子をはじめ他の参加者の顔を見ても表情が違っており、ここだけ聞いていてもすでに講義の一部という感じだ。その上でこれまで漠然と意識していた言葉の意味が明確になったような感じがし、勉強したいという気持ちが強くなっていた。ただ、卒後は開業までこぎつけ、さらに生業として成功させなければならないが、そういうことは帰ってから美津子と相談しなければならないと思いつつ、学びたいという気持ちのほうは強くなっている自分の心を実感していた。  藤堂はこの後、ここで出てきた『整体』と『整体術』という言葉についてさら深く踏み込んで説明したが、奥田の施術を経験した身からすれば、今藤堂が話したことは身体が体験した、という思いがしていた。同時に、私が奥田の施術に他と違うところを感じたのは単に技術の違いだけでなく、根底にあるこういった考え方が大きいのではないかと思うようになった。  簡単ではあるが学びの基本になりそうなところの説明がこの後も続いたが、今は講義の時間・場ではない。あくまでも学びを考えている人たちへの説明会だ。そのため、具体的なカリキュラムについても話が及んだが、技法体系のベースが東洋医学に基づく経絡調整、解剖学などの現代医学に基づく骨格調整のプログラムがあるという。もちろん、その前段階でいろいろな基礎知識を学ぶ座学の時間があり、その中にも今聞いたこと以上の『整体術』を現場で用いる時の知識や意識、将来のことに関係する講義もあるということで、単に技術を学ぶだけではない、ということがきちんと説明された。その後で控えているのが代表的な症例に対する施術法であり、さらにその上に模擬実践の課程まであるとのことで、これまで再入学された方の場合、この最終課程が大変気に入った、という人が多かったとのことだった。  こういう話を聞かされた時、この時の参加者の一人から質問が出た。 「先生、実際の授業の見学や体験はできますか? 実は他校ではそういうことができたので、こちらではそういうことはやられているのかなと思い、お尋ねします」  説明には納得したようだったが、今聞いたことがどのような様子で実践されているのかについて興味が湧いてくるのは当然だ。私もその気持ちはあったが、それよりももっと強力な体験がある。卒業生の奥田の施術によって自分自身の体調が好転したという事実だ。私は藤堂がどういう回答をするかに大変興味があった。  しかし、答えは意外なものだった。 「そのようなご質問はよくあります。でも申し訳ありませんが、ウチはそのようなことはやっていません」  藤堂は淡々と答えた、その様子にちょっと拍子抜けしたが、その後の藤堂の説明に納得した。 「例えば皆さんが入学され、実際の学んでいるシーンを想像してください。そこに突然授業の様子を見に来たり、ましてや授業に参加されるという場合、落ち着いて授業を受けられますか? 教える立場にしても、いつもとは異なる環境になるので今一つ突っ込んだ授業ができなくなるかもしれません。実は以前、ここでもそういうことをやったことがあるのですが、中にはいろいろ質問される方がおられ、授業がうまく進まないことがありました。また、見学があった時、終了後に受講生の方にその時の様子をついて尋ねましたが、大半の人は大人の対応でした。でも、中にははっきり集中できなかった、と言う方がいらっしゃいました。ここに集まる方の場合、今日のような説明会に参加されたり私の著書をご覧になり、真剣に将来のために時間と費用をかけて勉強されています。私はそういう一生懸命の方に対しての責任がありますので、たとえ授業見学などが無かったために入学されない方がいらしても、在校生の学びの環境を守りたいと思っています。それが授業の見学や参加をお断りしている理由ですが、どういう『整体術』であるかは書籍などでたくさん紹介されていますので、内容的なことはお分かりいただけると思います。学ぶ場の雰囲気というところでは、実際の場をご覧いただかなければ分からないかもしれませんが、例えご覧になっても授業のほんの一部分ですから、やはり分からないことが多いと思います」  私は藤堂の説明に納得した。表情を見ていると、質問した人も同様に思ったように見えた。美津子の表情も見たが同じで、やはりきちんと説明会に出席して良かったと思った。  となると、今度は生業とした時のことが気になった。他の人も同じ気持ちだろうと思うが、ここは私が手を挙げ、質問することにした。 「先生、質問してよろしいでしょうか?」 「もちろん結構です。今日は『整体術』を学ぶにあたっての説明会ですので、疑問をすべて解消し、お家に帰ってゆっくり家族の方ともご相談してください。もちろん、家に帰って疑問が湧いた時にこちらにお電話されても結構ですので、何でも聞いてください」  藤堂は笑みを浮かべながら優しく答えた。 「私は雨宮と言いますが、こちらの卒業生の奥田先生のところで施術を受け、きちんと体調の変化を感じたし、昨今の社会情勢から健康関連の仕事に関心を持ち、お伺いしました。今、居酒屋を2店舗経営していますが、『整体術』の仕事に気持ちが傾いています。もし、私が整体院を開くようなことになれば、今の店はスタッフに譲るつもりですが、それだけに仕事として成功しなければならない、という強い思いがあります。お世話になっている奥田先生の様子を見て、きちんとやれば生業として成り立つということは分かっていますが、先生はいろいろなケースをご存じだと思いますので、仕事に関するお話を聞かせていただきますか?」  私が今回の説明会に参加したのはしっかり生業として成立させるためであり、この点をはっきりさせることが決心する場合に大きく関係すると考えている。  私も商売をやっている関係で、いろいろなケースがあることは知っている。業界は違っているが、こういうところについてどういう回答が返ってくるか、大いに興味があった。 「大変的を射た良い質問だと思います。そういった本気の質問は私としても大変歓迎することですのできちんとお答えします。入学をお考えの方が集まる説明会では美味しそうな話をするのが一般的だと思いますが、私は実際のことをお話しします。卒業生の方の中にもうまく行かなかったケースがあります。ただ、その理由を考えると、それはそうなるでしょうね、というケースが大半でした。経営的なところで問題があるのです。他には開業地域のマーケティングが不十分でそれが原因で閉めざるを得なくなったケースもあります。卒業生のすべてが成功しているということをお話すれば逆に嘘っぽくなるでしょうし、特に既に御商売をされている方の場合、こういう話のおかしさはすぐにお分かりになると思います。だからこそウチの講座では失敗例を交えた開業のための細かなアドバイスをしているつもりです。それは今お話しした失敗した事例を分析し、成功したケースの学ぶべき点を明確にし、そのようなことをベースに構成してあります。ですから、自分でできるマーケティングの方法も含めて説明します。リサーチ会社に依頼する場合、それだけでもかなりの出費になりますが、個人の整体院の売り上げというのは施術単価の積み重ねであり、大きな数字が動くような仕事ではありません。もちろん、整体院の運営に自信がつき、チェーン店を増やしていく場合はその限りではありません。でも、まずは自分で運営するお店ということになるでしょうし、そこに複数のスタッフを置く場合もあるかもしれませんが、そのようなケースではまたその時のためのアドバイスがあります。他には店内のレイアウトや内装、チラシ作りやホームページの作り方といった広告の方法、接客術や次回の予約につなげるための会話法など実際にお店を持った時のことを想定した内容になっています。卒業生の方の中には、それだけでも有料の講座にしては、ということをおっしゃる方もいましたが、私としては卒業生の方が自分の信じた道をきちんと歩いて行けるよう、できる限りのアドバイスをさせていただいているつもりです。雨宮さんの場合、すでに御商売をされているわけですから、今お話ししたような内容についてはご存じのこともあるかもしれませんが、業態が変われば細かなところでは違ってきます。これまでのご経験に加え、この業界の独特のポイントを知ることでより良い展開が期待できるかもしれませんね」  講座の終わりに開業のためのプログラムがあるとは知らなかったが、技術だけでなくそこまで教えてくれるというところに好感を持った。周りの人の口元が少し緩んでいるように見えるが、藤堂の回答に納得しているのだろう。私もここまできちんと答えてもらえば、今日参加したことに間違いはなかったという思いになっていた。  藤堂は再度質問を求めだが、何もなかったのでこの日はここで終了した。      ◇  私たちは説明会用の部屋を出て、受付のところまでやってきた。その時、誰からともなくちょっとお茶でもしませんか、という話が出てきた。時節柄、あまり長時間にならないようにということを暗黙の内に確認しつつ、近くの喫茶店に入った。  目的は説明会の後、それぞれがどう思ったかを確認するためだった。  テーブルにつき、それぞれオーダーすることになったが、結果的にみんなコーヒーになった。  まずは自己紹介になったが、年齢的には大体同じで、一人は桜井、もう一人は工藤と名乗った。桜井は勤めていた会社がコロナで業績不振になり、現在は会社に在籍しているものの自分で何かやることの必要性を感じて、ということからの参加だったという。工藤は先日会社を辞め、次の仕事の選択肢の一つとして癒しを考えているという。私と美津子は夫婦であることを話し、今回参加するに至った経緯を簡単に説明した。改めてそれぞれの事情があることを理解したが、話は今日の説明会のことと、説明会に参加した上での今後の動向だった。 「桜井さんと工藤さんは他の学校の説明会にも参加されたと伺いましたが、今日の説明会と比べてどうでした?」  私が2人に訊ねたが、答えたのは工藤だった。 「私は他に3校参加しましたが、いずれも事務的な話で、今日みたいに深い話はありませんでした。その代わりに授業見学があったところもありましたが、今日、藤堂先生の話を伺って確かにその通りだと思いました。もし自分が授業を受けている時、知らない人が入ってきたら落ち着かないでしょうし、何か新入生獲得のためのことをやらされているような感じですね」  その言葉に対して、桜井が言った。 「それも分かるけれど、生の授業の様子を見ることは必要なような気がする。何か商品を購入しようとするとは、実際に使ってみたりすることがあるし、食品であれば試食することもある。それで気に入れば買う、ということになるので、ちょっと見学するくらいなら良いかな、って思うところがあります」  桜井の話も理解できる。だが、工藤がその話に対してまた自分の考え方について話した。 「その話も理解できますし、僕も何か買う時にはおっしゃったような感じで確認することがあります。でも、それはその商品自体がよく分からない場合で、藤堂先生の『整体術』の場合、関連書籍やDVDがたくさん出ています。僕が今回参加したのはそういった本を読んでいたからで、中途半端に授業に参加して分かったような感じになるより技術や考え方の全体像が分かるので、この学校に限って言えば見なくても良かったと思っています。それよりも先生が受講生のことを考えてくれていることの方が驚きました。学校だって仕事でしょうし、ならば一人でも入学者を増やそうというのは経営者としては考えることですよね。それがあえてマイナスになるほうを選び、教授される技術については公開されている技法を参照してください、というのは潔いじゃないですか。僕は今回、藤堂先生の考え方が直接聞けたことが大きな収穫でした」  工藤は嬉しそうな表情で話した。  その話を聞いて美津子が口を開いた。 「今の工藤さんのお話し、私も理解できます。さっき、私たちが今日の説明会に参加し経緯をお話ししましたが、先生の本も何冊か知り、その内の2冊を読みました。その上で今日のお話を伺いましたが、藤堂先生には何と言うか、技術や考え方に対する自信のようなものを感じました。私たちは他の学校の見学はしていませんが、さっき伺ったお話から多分行くことは無いと思います。あなたはどう?」  突然話を振られたが、この件に関しては美津子と同じ意見だ。私たちの場合、もともと技術力については信頼している。もちろん、こういうことは施術する人の力量もあるので、他の卒業生がどういうレベルか分からないし、私たちが学んでもどこまでしっかり習得できるかも分からない。だが、もしやると決めたら一生懸命努力する気はあるし、それは居酒屋の経営の時もそうなので、このことは時間がかかっても商品としての技術力について磨いていくつもりだ。となると、私の答えは決まっている。 「家内が言った通りです。私も他を見に行くつもりはありません」  私が答えた後、桜井が再び口を開いた。 「それで皆さん、勉強した後はやはり開業を考えていらっしゃいますか?」 「僕はその方向で考えています。さっきお話ししたように今無職だし、何か仕事をやらなければなりません。家族がいますのでなるべく早く方向性を決めたいと思っています。幸い、退職金やこれまでの貯えがありますし、妻も働いていますので、生活のほうはしばらく何とかなります。卒業後、開業するための資金も必要ですので、なるべく素早い動きをと考えています。でも、今日の話でほぼ決定ですけど・・・」 「ほう、それはうらやましい限りですね。ウチの場合、家内は専業主婦ですので、私が働かなければなりません。いろいろあってもなかなか会社を辞められないのはそういう事情があるからです。退職金がそれなりにもらえそうなタイミングで辞めたりできれば少しは違うのでしょうが、今はそういう状態なので思いはあっても現実問題としてなかなか動けない、というのが実情です。そういうことも関係するのでしょうか、さっき私が言った授業見学の件についても、ネガティブなところを強調し、動こうとする自分の心にブレーキを掛けようとしているのかもしれません。私もさっきの話はきちんと理解しているつもりなので・・・」  私は桜井の話を聞き、それぞれの事情があり、そのために自分が思っていてもなかなか実行できない事例を現実のものとして耳にした。  転職の際、私たちの年齢なら家族がいることが多いので、自分がその気でも周りの意見も考慮しなければならないわけでが、幸い私たちの場合、一緒に説明会に出席し、事前に考え方も擦り合わせてあるので、桜井の場合よりはずいぶん恵まれていると思った。たぶん美津子も同じように考えているのだろうが、この点は家に帰り、改めて確認することにした。  この後は将来のことなどを小一時間話し、コーヒーもすべて飲み干したので、もし学校で再会できたら、ということで別れた。
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