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1.
「なかなかいい所じゃない」
美香は隣に立つ、夫の慎吾に向けてそう言った。
「静かだし、それに……」
住人も品がいいし。とまではさすがに口に出せなかった。それを言ってしまっては、今住んでいる町の住人を見下している、気取った女と思われるような気がしたからだ。もちろん本心では見下していたが、それを他人に、特に夫には知られたくなかった。
もっとも、夫の慎吾はそんな妻の機微に少しも気づくことはなく、素直に頷いている。
「確かに。閑静なところだよね。子育てにはよさそうだ」
夫の言葉に、美香は自然と手を伸ばして、その手をつないだ。
結婚して一年。まだ二人の間に子供はいない。だが、美香としてはいずれ持ちたいと思っている。そのためには解決しなければいけない問題がいくつかあったが、その一つが住環境だった。
今、美香と慎吾が住んでいる場所は、いわゆる下町と呼ばれる場所だった。慎吾の親戚がそこに一件空き家を有しており、それを美香と慎吾に格安で譲ってくれたのだ。今にして思えばもっとよく調査すべきだったのだが、美香も慎吾も新婚の忙しさから、そこまであまり気が回らなかった。
そこは高齢者が多く、時折徘徊老人が警察に保護されたりすることもある場所だった。それだけでも不潔な感じがして美香は我慢ならなかったのだが、最近起こったある出来事により、夫婦は完全に引っ越すことを決意することになった。
それは火災だった。
いや、正確には火事が起きた際の近所の人々の対応の仕方に、美香は我慢が出来なくなったのだ。
下町なので木造の建築が多いことは当初から分かっていた。また道が狭いので、救急車や消防自動車が通りにくいのも想像はついていた。
そしてそのことは近隣の住民たちも当然分かっているとは思っていたのだが、そうではなかったのだ。
ある家から出火した際、なかなか現場まで入ってこられない消防自動車に住人たちは苛立ち、大声で不満をぶちまけたりし始めた。さらには何の準備もせず出火先に飛び込もうとしたり、我先にと狭い避難経路に殺到する者たちもいた。そのくせ恐怖からなのか現実味がないのか、なかなか避難しようともせず、野次馬根性丸出しで出火先の家を眺めている住人もいたのだ。
しかたなく一番若い慎吾と美香が声かけをして、消防自動車の誘導をしたり、人々を避難先に適切に誘導するはめになったのだ。
無事に鎮火し奇跡的にけが人は出なかったが、この出来事の後で美香は夫に強く引っ越しを願った。
「ここじゃ、子供が出来た時、危なくて暮らせないわ」
単純に火事や災害が心配だからと言うだけでなかった。普段は古くからの住人という事で威張っている近所の連中が、いざという時には何の役にも立たない腰抜けの集まりということにうんざりしたのだ。だが、美香はそこまで言う気はなかったし、言う必要もなかった。
普段はおっとりした雰囲気の慎吾も、さすがにこの時ばかりは思うところがあったようで美香に同調して言った。
「普段、災害に対する備えがないんだよね。だからあんな簡単にパニックになるんだと思う」
「そうよ。これは単純に建物の耐震基準がどうとか、消火設備の問題じゃないわ。住民の意識の問題よ。もっと心に余裕がないと」
「もう少し街ぐるみで備えのしてあるところの方がいいかもね」
こうして美香と慎吾は、数年前に新しく出来たばかりの郊外にある住宅地に下見にやってきた。
そして少なくとも今のところ、街は美香のメガネにかなっていた。
「お二人共、下見かしら?」
見るからに品のいい老婦人が美香と慎吾に話しかけてきた。
美香は瞬時に夫人の服装や、髪形、物腰などを観察した。そして、これは自分が愛想よく応えるべき相手だと結論を出した。
「ええ、そうなんです。結婚したばかりで新居を探しているんです」
「まあ、それはそれは。おめでとうございます。何か、お知りになりたいこととかあるかしら? 私でよければ答えさせていただくわ」
老婦人の言葉に慎吾が、さっそく口を開く。
「この辺りって、災害とかの備えってどんな感じなんですかね? 街の防災計画とかってあるんでしょうか?」
かなり単刀直入な聞き方に美香はひやひやしたが、老婦人はむしろ聞いてもらいたかったとでもいうように、滑らかに語りだした。
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