面倒な人

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 俺は結婚しない。  理由は「しない」というより「できない」と言った方が正しいかもしれない。  いや。今の時代「絶対にできない」という事でもないが、そこまで強い意思を持って結婚しようと思わないので「気軽にはできない」というのが正確かもしれない。  それは俺がゲイだからだ。男同士の恋愛は認知されているが結婚はこの国では認められていない。しかし、俺に結婚したいと思う相手は今のところ現れていないので、正直今のところは「結婚」なんてどうでもいいと言うのが本音だ。  適当に恋愛ごっこができていれば、自尊心は満たされるし、日々は何となく充実して楽しい。二十代を経て三十代に突入した今でも、友達とある程度の距離感を保てるセフレ(もしくは恋人)それが居れば、満たされるのが現状なので、俺はその生活の軸を一切変えたくない。  しかし、そう思っていた数時間前までの俺の頑なな生活軸は、一瞬にして崩れ去った。 「先輩、俺先輩の事見かけてから、ずっとずっと好きだったんです」  重い。重苦しい。 俺の嫌いな「ずっと」という不確かな言葉を何度も使うな!  俺は苛々しながらベッドに腰かけると、床でぐったりしている下着を拾い上げて身に着ける。その間も俺の背後では、後輩が縋るように声をかけてくるので、酒の力も相まって頭が響くように痛かった。 「俺は面倒くさいことが嫌いなんだ」 「俺面倒臭い事一切しません!」  面倒くさいやり方して何言ってやがる。  苛立ちに任せて舌打ちをすると、俺の肩を掴んでいた手がするりと離れた。その離れ方が名残惜しさを感じさせるような雰囲気を纏っていて、余計に胸の内がむかむかとしてくる。  昨夜、彼の希望の居酒屋に行き、翌日は土曜日だからという安易な理由で、深酒をした自分も悪い。理性が残る程度に飲んだつもりではあったけれど、理性を手放すほど飲んだ後輩に迫れられて、それを拒否するまでの理性を残さなかったことも反省している。全ては社会人経験値が高い自分が引き起こした結果だと理解しているから、余計に苛々してしまうのだ。  しかも、自分が彼の家に連れ込まれている事にも腹が立つ。 「ごめんなさい、卑怯でしたよね」 「別に何も卑怯じゃない」  そう、全ては自分が招いた事であるんから、溝口は一切悪くない。あえて言うなら、未練を感じてしまう程セックスが上手かった事に関しては謝ってほしい。 「でも先輩、怒ってる」 「自分に怒ってるだけで、お前じゃない。とりあえず忘れてほしい」  俺も忘れるから。  そう言いながらも、脳裏を回想するのは昨夜溺れた快楽ばかりで。――彼の熱と形をはっきりと覚えている下腹の狭い場所が疼いてしまう。  ベッドが軋む音も、自分の声も、溝口の短い呼吸も、窓から差し込む街頭の明かりが作り出した、二匹の獣が交わる壁の影も。全てが鮮明に脳の襞にこびり付いている。  それらを思い出すと、下腹に蓄えられた熱が性器の裏の双球へ圧縮してたまるような、堪らない想いが募る。  ――やめろやめろ。考えるな。  俺は穏便に社会生活を送り、会社以外ではそれなりの充実感を得て、平穏に暮らしたい。わざわざ会社の人間に手を出すような面倒臭い真似はしたくない。  俺はとにかく面倒なことが大嫌いなのだ。  もう今後二度と、後輩や同僚や先輩の「気分転換」に、一対一では付き合わないぞ。  そう強い誓いを胸に立てて、シャツを拾い上げる。すると突然その手を引っ掴まれて、腹に力を入れる前に、ベッドへと押し倒される。気が緩んでいる内の一瞬の出来事に、自分の立ち位置が分からなくなった。  ただ茫然と自分に伸し掛かる溝口の翳る顔を見つめると、彼は右側から差し込む土曜の朝の陽光に当てられながら、その双眸に溜まる薄い水面を揺らがせていた。  え、泣くの? めんどくせ。  思わず本音が胸の内で呟かれたものの、言葉には出さなかった自分を褒め称える。 「俺は、本気で先輩を落とせないかなって、ずっと悩んでて……!」  必死に訴えられる恋心を、9割面倒臭いと思いながらも、一方通行の愛というものに関しては、悪い気がしないのは、きっと彼との身体の相性の良さと、彼が持っている巧みなセックスのせいだ。  俺はその一割残っている惜しい気持ちに、ぐらぐらと揺れながら、彼の真っ直ぐ過ぎる眼差しに対峙する。  今年の三月はまだ大学四年生だった彼の、幼い真っ直ぐな眼差し。大学ではさぞモテただろうと思われる、爽やかで端正で、疲労の薄い表情(今は俺のせいで苦悩に歪んでいるけれど)そしてしなやかで硬すぎない筋肉と均等の取れた身体つき。どれを取っても、三十代の適当なおじさんを選ぶ要素がない。 「女にしとけ。男が好きなら、もっと若い奴にしておけ」 「阿久津さん。貴方は俺を振ることはできるけど、選ぶ相手に関して口出しする権利はないです」  思ってもない正論が飛んできて、言い返す術を全て取り上げられたような気になり、相手を見つめ返すと、先程の弱々しい眼差しから、己の意識をきちんと手に握ったような、強い眼差しが俺を射抜いていた。彼の強い眼差しに朝の光が吸い込まれ、虹彩の奥の方で強く燃えているように見える。  俺はその光にどきりと、胸が高鳴ってしまうのを感じた。  久し振りに心臓が、慣れない脈の打ち方をしているような違和感が、体中に響いていて落ち着かない。 「わ、悪かった。言葉が過ぎた……」  謝るしかできずに、視線を外すと、 「……先輩、可愛いですね」  今までに言われた事のない言葉が、ぽろりと零れ落ちて来て、視線を上げると、 「ずっと可愛いって思ってましたけど、小さい子みたいで、本当に可愛いですね」  そう繰り返された。 「は? バカ言うなよ……っ」  真剣な眼差しのまま言われて居心地が悪くなり、とりあえずこの場所から抜け出そうと身を捩ると、そうはさせないと、強い力に制される。彼は自分よりも力が強く、身体が大きいという分かっていたことを、改めて思い知らされるような気がした。  子犬のように休憩室で丸くなっていたあの姿は、一時のもので、本来は大型犬――もしくは狼なのだと。 「俺、阿久津さんの理想の男になります」  彼はそう宣言すると、良く回る表情を一転させ、頬を赤くしながら、面倒臭そうな宣言をする。 「俺、面倒なことが嫌いなんだけど……」 「分かりました! 料理洗濯、家事全般は得意なので任せて下さい!」  ――そうじゃない。  意気込む彼に溜息しか出て来なくて、俺はどうしたものかと考える。  しかし、面倒臭いことに手を出したのも俺、理性が保てなかったのも俺であることが胸に伸し掛かって来て動けない。  俺は両腕を投げ出すと、なるようになれという気持ちで溝口の背後にある白い天井を見上げた。 「……とりあえず、腹が減った」 「いま朝ごはん作りますね!」  そう意気込んでベッドから溝口が降りていく。狭いワンルームにせわしない音が響いている。  自分の為に料理を作ろうとしている音は、悪くない。  俺はそんな事を考えながら、天井に映える、カーテンの波のように揺らぐ影を、ぼんやりと眺めながら、ゴールデンウィークの過ごし方を考えた。
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