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10.錯覚
夕方、六時。
夏が近いせいかまだ明るい。でも昼間は暑くても日が落ちてくると空気は冷たくなる。
俺はTシャツの上にジャケットを羽織り、玄関のドアを開けた。
外に一歩も出ることなく、すぐにドアを閉める。
この光景は前にもあった。
確か一週間前。
ようやく家に帰ってきたと思ったら、玄関の前に人が立っていたことがあったっけ。
これは夢だ。夢に違いない。
目が覚めるようにブルブルと頭を振ってから、もう一度玄関のドアを開けた。
けれど、目の前の光景は、先ほどから何も変わっていなかった。
人間離れした美しい顔立ちに、金色に近いアッシュ系の柔らかそうな髪。
灰色がかった瞳は少年のような純粋な光を帯びているのに、妖艶な色気を漂わせている。
天使とも悪魔ともつかない不思議な雰囲気を漂わせている。
先週、木南に預けたヒューマノイド――『泰雅』が、そこに居た。
どういうことだ?
何故ここに居る?
また、透視でもしたのか?
いや、透視ができたとしても、そもそも俺の記憶は木南が消したはず……。
木南はときどき物を壊したりよく物を失くすが、それはすべて自分自信に損害が生じる時だけだ。
他人が絡んだことでそういうヘマをしたことはない。
だから、泰雅が俺のことを覚えていることはありえない事だ。
それなのに、泰雅がここにいるという事は『目撃者』である俺を消すためかもしれない。
もしくは『グリムリーパー』を消すためか……。
俺がグリムリーパーであることは限られた人間しか知らない。
木南は俺がグリムリーパーであることを知っているが、木南が口を割ることはない。
どうやって俺のことを突き止めたかは分からないが、有能なアンドロイドなら誰かに聞くまでのも無いのかもしれない。
いや、待てよ。単なる見間違いという可能性もある。
きっとそうだ。そうに違いない。例えそこに人が立っていたとしても、それは泰雅ではない。
別人だ。
気を取り直して玄関のドアを開けた。
そこには先ほどと何も変わらない姿で泰雅が立っていた。
幻か?
夢か?
目をこすっても頬をつねっても、目の前の人物が消えることはなかった。
どうやら幻や幻覚でもないようだ。
上から下までなめるように見ても、そこに立っているのは俺の知るヒューマノイド、まさしく泰雅だ。
他の何者でもなかった。
俺の家の玄関の前に泰雅が立っていた。
もう一度、玄関の戸を閉めた。
なんであいつが居るんだ?
どうしてだ?
何故だ?
いったん落ち着こう。
バーへ行くところだが、夜はこれからだ。時間はたっぷりある。
羽織ったジャケットを脱いで、キッチンへと向った。
気を落ち着かせるためにコーヒーを飲むことにする。
まずはお湯を沸かす。
その間に道具を準備しておく。
棚からコーヒーミルとドリッパー、それからサーバーを出し、コーヒー豆を入れている瓶に手を伸ばした。
蓋を開けると香ばしい匂いが漂ってくる。
この匂いだけでも癒される。
コーヒー豆を買った次の日にも同じ豆を買いに来た俺に、店主は怪訝そうに訊ねてきた。
気に入った豆を知人に贈ると言ったら、頼んでもいないのにギフトボックスに入れてくれた。
少しだけ気が引けたから、それを3つ買う事にした。
ひとつは自分用として、あとの2つはアンドロイドの修復をしてくれている木南となじみのバーの店主に贈ることにした。
コーヒーミルに豆を入れ、ハンドルをゆっくりと一定のリズムで丁寧に回す。
コーヒーの豊かな香りが鼻をくすぐる。
引き出しからペーパーフィルターをだしてドリッパーにセットする。
数分してボコボコと泡を立ててお湯が沸いた。空のコーヒーカップにお湯を注ぎ、コーヒーカップを温めておく。
セットしておいたドリッパーに、コーヒーの粉を入れる。ドリッパーを軽く振り粉が均一になるようにしておく。泡が鎮まったのを確認してから、お湯を注ぐ。
最初は少量のお湯をそっと乗せるように注ぎ、粉全体にお湯を含ませる。数秒そのままにして蒸らしてから3回に分けてお湯を注いでいく。
サーバーにぽたぽたとコーヒーが落ちるのと同時に、コーヒーのいい香りが漂う。抽出したコーヒーを温めておいたカップに注ぎ、ゆったりとソファーに座り味わって飲む。
ほろ苦さと深いコクが口の中に広がる。
それと同時に心も落ち着いていく。
ゆっくりとコーヒーを味わい、心を落ち着かせてから再び玄関のドアを開けた。
出かけようと思って最初に玄関を開けてから、かるく1時間以上は立っているはずだ。
それなのに最初に見た時と幾分のくるいもなく、泰雅がそこに立っていた。
慌てて玄関を閉めた。
何度となく同じ動作を繰り返している。
スマホを取り出し電話をかける。最初からこうしていれば良かった。
『お客様がおかけになった――』
機械的な音声が流れてきたのですぐに切り、違う番号にかけなおす。
20秒いや、30秒以上呼び出し音を慣らしているのに、全く出ないが根気強く慣らし続ける。
すると、ようやく相手が出た。
『もしもし』
少し眠たそうな木南の声が聞こえてきた。
「なんで最初にかけた電話に出ない?」
問い詰めるように聞くと、一瞬黙り込んだ木南がぼそりと呟く。
『……壊れた』
思わずため息が漏れた。
「確か一ヶ月前に買ったばかりじゃなかったか?」
『……う~ん、そうだけど、俺が使うと何故かすぐ壊れる』
どれだけ壊せば気が済むのか……。
まあ、本人も意図して壊しているわけではないから仕方ないのかもしれないけど、それにしても多すぎる。
「何台目だ?」
「17台目」
返す言葉もない。
人はだれしも完璧ではないし、完璧を求める必要もない。木南を見ているとつくづくそう思う。
天才と評さるほど頭がよく、仕事ができて気配りもできる。背が高くスタイルもいい。どこからどう見ても完璧な人間だ。
けれど、木南はモノを失くすしよく壊す。仕事に関することは落ち度もなく完璧にこなすくせに、プライベートなことになるとポンコツになる。
飲み物は必ずといいほどこぼすから、彼の周りに大事なものは置かないというのが、彼をよく知る者たちのルールだ。
そんな木南が研究者ではなく弁護士を選んだのは、ある意味平和的選択だったと俺は思っている。
それはさておき、最初にかけたのはプライベート用の番号だ。
すぐさま音声が流れたから失くしたか壊したかのいずれかだろうと思ったが、間違ってはいなかったようだ。
どういう理由かは分からんが、仕事用のスマホだけは壊さないし失くしたことがないというのも不思議だ。
「そんなことより、ヒューマノイドが俺の家の前に居るんだが、どういうことだ?」
『え? 俺はちゃんとデータを消したぞ』
木南のことだ。疑ってはいない。疑ってはいないが、この状況が理解できなくて、木南に聞くしかなかった。
「じゃあなんでここにいるんだ?」
『知るか。自力で『碩夢』を見つけたか、もしくは『グリムリーパー』を探したあてたかのどちらかだろ。自分でデータを復旧するって宣言してただろ。俺はお前の依頼をこなした。あとはお前が自分で対処しろよ』
確かに木南のいう通りだ。
それにしても……。
「ずいぶん早いな。高性能なヒューマノイドを治すのにたった一週間とは驚いた。」
まあ、眠そうな声をしているところを考えると、寝ずに修理してくれたのだろう。
『自己修復能力ってやつだ。銃弾は貫通してたみたいで頭の中には残っていなかった。分断された線をつなげたくらいしかしていないが、しばらくしたら傷がふさがっていた。跡は残っているけど、それもそのうちキレイに消えると思う』
そんな高性能なヒューマノイドが現実に存在するのかと疑いたくなるが、玄関の前で微動だにせず立っているのだから信じないわけにはいかない。
「わかった。起こして悪かったな」
そう言って電話を切った。
ここでこうしていても埒が明かない。
そう思って、玄関のドアを開けた。
1時間前に見た光景と何ら変わっていない。
高性能ヒューマノイド――泰雅が立っていた。
けれど、すぐに攻撃してくる事はなかった。銃を構えるわけでもなく、刃物を突きつけてくるわけでもなかった。
殺気を感じないところを見ると、『グリムリーパー』を探してここに来たわけでは無いのかもしれない。
単にここに居ただけ、ここで立っていただけかもしれない。
俺は泰雅を無視してその場を立ち去ろうとした。
「やっと見つけた」
泰雅はひとことそう告げると、ニッコリとほほ笑んだ。
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