キス

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「キス」 「ねえ、ここで小さい時キスしたの、覚えてる?」  線香の匂いが充満する和室で、長い足を伸ばしながら従弟の祥が不意に呟く。その声音に躊躇いや淀みなどはなく、今日の夕飯なだっけ? というような些細な疑問と、変わらない音が宿っていた。だから最初、その言葉が耳に届いた時、彼が一瞬何を言っているのか、分からなかった。 「十二年前くらいだっけ。俺が七歳で、稔くんが八歳くらいの時」  具体的な数字を上げられて、ようやく彼の言葉が滞りなく俺の脳内を駆け巡る。俺はその記憶に、なんて言えばいいのか分からず、ただ閉口して、彼の背中を眺めていた。仏壇へと足を投げでした祥の背中越しに、細い線香の煙がひょろひょろと立ち上っているのが滲んで見える。 「あれ、ばあちゃんに絶対見られたよね」  そう言いながら、毛羽立つ畳を祥の長い指先が引っ掻く。俺はその骨ばった――七歳よりもずっと男らしく長い――指先と爪を見つめながら、小さな声で「うん」と、返した。  お互い一人っ子で、夏休みの盆と正月に顔を合わせる俺と祥は、会えば兄弟のように仲良く過ごしていた。俺は弟が欲しかったし、祥は兄が欲しいと言っていたから、俺達はお互いの役回りに何の不満もなかった。  夏は祥の手を引いて、都会ではなかなかお目に掛かれない山間の森林へ、祖父の運転する軽トラで出かけたり、冬は広い庭先で霜を競い合いながら踏んだりしていた。雪が降れば手がしもやけになる寸前まで遊んで雪だるまを作り、誰も入れないくらい小さなかまくらを作って、ロボット人形を押し込んでいたっけ。  ――そして俺が八歳で祥が七歳の時の、何てことない年末特番の長ったらしいドラマで、俺と祥は高校生同士の初々しいキスを目の当たりにした。  病魔に侵された少女と、そんな彼女を一途に思い続ける少年の長編ドラマだった。 「この手のドラマとか映画とか増えたよね」 「ホント。年末くらいドカンと笑えるのやって欲しいわ」  隣に居る母親たちが口々に文句を垂れる中、テレビの中の少女と少年は美しいキスをして、涙を流していた。俺はこたつの中に手を入れて、冷えた末端を擦りながら、ちょうど対角線上にいる祥へと視線を投げる。祥は蜜柑を剥いている最中のまま、まるで時が止まってしまったかのように、テレビに釘付けとなっていた。一日に蜜柑を十個以上食べたら、肌がオレンジ色になるという祖母の脅しに負けず、誰かと競うように蜜柑を頬張る祥の指先が、オレンジ色にぽっと灯っているように見えた。  祥の不思議なオレンジ色の指先を眺めていると、 「稔くん、あっちで遊ぼう」  祥は食べかけの蜜柑を机に転がして、突然こたつから抜け出した。 「あんた、食べかけ!」 「あとで食べる!」  言うが早い。祥は居間の隣にある仏間へと先に引っ込んでしまった。エアコンの効きの悪い日本家屋は、全体的にひんやりとどこもかしこも温度が低く、本当はこたつから出るのは億劫だけれど、祥に「遊ぼう」と言われて、断る理由が思い浮かばず、俺は渋々彼を追いかける形で仏間に入った。  仏間は暗かった。  小さな黄金色の観音様の置物だけが、仏壇の奥で、ぼんやりと火が灯るように輝いて見えていた。まるで、そこかしこの光を吸い込んでいるようで、何となくそこには近寄りたくない。 「祥?」  明かりを点けないままの部屋を見渡すと、突然くい、と手首を引かれた。驚いて引っ張られた方へと顔を向けると、祥が暗がりの中で笑っていた。ぱちっと大きな目を開くと、こっちこっちと部屋の隅へと引っ張っていく。 「なに? 何するの?」  電気くらいつけようよ、そう提案するよりも早く、 「キスしたい」  祥がそう言った、内緒話するように声を潜めて。俺は一瞬何を言われたのか分からず、一歩遅れてやって来た「キス」という単語の意味に、頭に血が上るような、恥ずかしいような、何とも言えない気持ちで、祥を凝視した。つい今さっき見ていたキスシーンが、頭の中に大きく映し出されて、言葉が空回り、くちから何も出て来ない。  いきなり何言ってんだ? 「いいよね、俺と稔くん、すっごい仲いいし、変じゃないよね」  確かに俺と祥は仲が良い。兄弟みたいに仲良しで、俺は祥のことは大好きだ、けど。  でもしたらいけない気がする。  意味もなく直感的に、後ろめたい気持ちがふつふつと湧いてきて――あんなにテレビのなかでは綺麗だったのに――いざ自分にと置き換えると、まるで悪いことをするよな気持ちになってくる。 「いいよね」  そう言って近づいてきた祥の小さな顔に、思わず後退る。しかし、一年分の僅かな身長差を、祥はいとも簡単に埋めてしまうと、背伸びをして俺の唇に、唇を重ねて来た。  同意もないままの初めてのキスは、怖かった。  何か怒られることをしてしまった気持ちで、けれど、バレなければ怒られないかもしれないと、心臓がばくばくと音を立てていた。  祥の薄くて柔らかい唇が触れている間、俺はぐっと息を止めて、二の腕に力を入れていた。緊張して、心臓が身体の中でぶるぶると震えているようだった。 「祥ちゃん、稔ちゃん、なにしてんね」  ふいに何の前触れもなく祖母の声がして、慌てて離れると、大きな影となって、祖母が俺達を見下ろしていた。仏間の隅、人影しか見えない暗がりで、心臓が壊れる胸を内側から叩いていた。祖母の後ろからすぅっと伸びる居間の明かりと、両親たちの笑い声がぐわんぐわんと、鼓膜で響いていた。  見られた?  怒られる? 「……明かりつけんと、目ぇ悪くするよ」  カチカチ、と天井から釣り下がる紐を引っ張ると、白い光が明滅しながら八畳ほどの部屋を、隅々まで照らし出した。 「もうすぐ夕飯できるからね」  祖母は皺でくちゃくちゃになった笑みを浮かべると、そのまま台所へ続く廊下へと出て行った。きしきしと歪み軋む音が、冬の冷たい空気の中、遠ざかっていく。  俺と祥は、ふたりで胸を押さえながら、暫くぼんやりと祖母の消えた襖の向こう側を見つめていた。
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