9.追想

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9.追想

「――将軍、女人です! 親子の……ああ、子供は生きてる! 母親は息がもう――」 「……っ! 今行く!」  ――思えばあのときから、ヴォルクの世界は再び色を持ちはじめた。  シャウルマ侯ヴォルク、通称ヴォルク侯爵またはヴォルク将軍。  戦時下の彼を知る者からは銀獅子将軍と呼ばれることもある彼の半生は、太平からの動乱、そしてまた太平と戻っていく国の動きに、常に寄り添い続けたものだった。  侯爵家の嫡男として生を受けつつも宮廷での権力闘争には興味がなく、軍の道へと進んだ彼はその恵まれた体格と幼少期からの教育に裏打ちされた知識、そして勇敢ながらおおらかな性格による人望で瞬く間に軍内での地位を確立していった。  そして彼が(よわい)26のとき、北国グラキエスの侵攻が始まったのだった。  攻防は熾烈(しれつ)で、敵にも味方にも少なくはない被害が出た。ヴォルク自身も左目の下と、体にも何か所か切り傷や矢傷を負ったがついには敵を退けた。  顔の傷はきわどい箇所だったが、幸いにも眼球や骨に達することはなくヴォルクは五体満足で帰路についた。  体の傷などいずれ癒える。生きてさえいれば。 『――いやっ! そんな血の臭いのする手で、わたくしに触れないで!』  まさか、帰りを待ってくれていると思っていた妻から、それ以上の刃を突き立てられるとは夢にも思わずに。 「――ヴォルク、それでな。……ヴォルク?」 「…!」  低い声で呼びかけられ、ヴォルクははっと顔を上げた。声の主を振り返ると、(とび)色の瞳の同年代の男が無言で自分を見つめている。 「……申し訳ございません、陛下。少々考え事をしておりました」 「ボケるにはまだ早いぞ、ヴォルク。……珍しいな。そなたが集中を切らすなど」 「申し訳ありません。この絵を眺めておりましたら、つい――」  ここはオケアノス王国の中心、王宮の中のさらに中央にある王の執務室だ。ヴォルクに気安い調子で話しかけるこの男こそ、当代のオケアノス国王・アステール3世だった。  赤い髪にやや下がり気味の茶色の瞳が甘い印象を与えるこの王はヴォルクより3歳年上で、幼い頃から共に遊び学んできた幼馴染でもあった。 「余の戴冠式か。そなたにとっては、その直前のグラキエスの南征のことでも思い出していた……というところかな」 「……っ。その通りです。申し訳ありません。陛下には隠し事はできませんね」 「ふん。そなたが余の戴冠式などよりも戦のほうに重きを置いていることなど、10年前の当時から分かっておった。今さら謝られることでもない」  執務室の壁に掲げられたのは、10年前のアステール3世の(おごそ)かな戴冠式の絵だった。その直前にグラキエスの南征があり、疲弊した前王が退位を宣言したため急きょ執り行われた戴冠だった。  だがヴォルクの記憶には、幼馴染の晴れ舞台よりも自身が身を投じていた戦いのほうがどうしても色濃く残っている。それを詫びると、アステールは絵を眺めて腕を組む。 「もう10年か。早いものだな」 「そうですね。最近は思い返すのも忘れていました。特にここのところは、『恵みの者』を保護したり――」 「そう、その話だ!」 「え?」  定例の報告のために寄った執務室でいつものように雑談に興じるさなか、ヴォルクは思いがけず強い王の相槌に振り向いた。アステールは目をキラキラさせて、少年のように身を乗り出してくる。 「恵みの者の話を聞かせてくれ。そなたが偶然保護したのだろう? 母子二人と聞いた。どのような女だ? 言葉は通じるのか? 歳は? 美人か?」 「陛下。陛下、質問が多すぎます……!」  ケイとココとの出会い。それは職務もあり充実はしているが、侵攻を食い止めて以降は大きな変化もなく単調に過ごしていたヴォルクの心に、鮮烈な印象を残した出来事だった。 「あれは人……か? オルニス! 先行して確かめてきてくれ」 「はい! 水死体かな~。だったらやだな~」  あの日、訓練地に向かうために王都の湖のそばを馬で通りがかったヴォルクは、水際に人らしき姿を見つけてオルニスを向かわせた。  自分でも歩みを進めるうちに、やはり人が倒れているのが確認できた。先行したオルニスの切羽詰まった声に、ヴォルクは馬の腹を蹴った。 「生きてるか!?」 「子供は大丈夫っす! でも母親が息してなくて――」  オルニスに追いつくと、水際から岸へと人が二人引き揚げられるところだった。後続する部下たちも加わり、乾いた地面へと二人を運ぶ。  母親らしき女は意識がなく、それでも子供の体をしっかりと抱きしめていた。子供は見たところ3、4歳といったところで、意識はないが咳をしている。固く子を抱いた手を引きはがし、女を仰向けにすると青白い顔がのけぞった。 (見慣れぬ風貌――この服はなんだ?)  全体的にのっぺりとした顔はオケアノス人には珍しく、身に着けている衣装もこの国では見たことのないものだった。眉をひそめたヴォルクは、そんな観察をしている場合ではないと気付き女の首に指を当てる。 「脈がある……。まだ生きてるぞ」 「えっ。でも呼吸――。将軍!?」  溺れた人間、脈はあるが息のない人間に対し、行うことその一。軍で徹底的に叩き込まれた人命救助法にのっとって、ヴォルクは女の首を傾けると躊躇なくその唇に己のそれを重ねた。 「お……男気ある……。さすが将軍……」 「馬鹿者、当然だ! 茶化してないで娘の方を介抱しろ!」 「はっ、はい!」  柔らかく、そして冷たい唇に息を吹き込む。胸がわずかに上下し、女の眉が動いた気がした。  この服装、この状況。オケアノス人がただ溺れた、というわけではないかもしれない。……それでも。 (生きろ……! 幼子を残して親が死んではならない!) 「けほっ……! ……ママぁ」 「!」  彼女が守ろうとした子供は無事に生きている。そして母に手を伸ばしている。  祈るような気持ちで、ヴォルクは女に息を吹き込み続けた。――戻ってこい! 「――げほっ! ……ぅえっ。……げほっ、かはっ……」 「戻ったー!! 将軍、さすがっすー!」  何度目かの息を送り込んだあと、女が息を吸い、咳き込んだ。それを発端に口から水を吐き、しばらく激しくむせると女がうっすらと目を開く。  ヴォルクが背中を撫でてやると、黒い髪と同様の黒い瞳がぼんやりと視線をさまよわせ、隣で泣く娘へと向けられた。 「……ココ……。ああ、無事で良かった……」  空気に溶けそうなかすれた声でわずかに微笑んだのを最後に、女は再び意識を失った。  そこからあとは、怒涛の展開だった。急いで王都中心部に戻ると、病院に着くより先に星読みの館の使者に出迎えられた。そこで、彼女たちは「恵みの者」だと告げられた。  幸いすぐに病院に運ぶほどの容態ではなく、館の方で医者を手配するとのことで彼女たち二人は星読みの館に引き取られることになった。  まだぐったりとして意識のない母親を引き渡すとき、本当に大丈夫かとヴォルクは心配になったが大神官の決定には逆らえない。どうか二人とも無事であれと祈るように黒髪の女を託し、公務に戻ったのだった。  そして翌日、目覚めた彼女と再会する。 「ありがとうございます。助かります……!」  向こうにとっては初対面の強張った表情から一転、目覚めた恵みの者――ケイは、所持品のかばんを渡すとヴォルクの目をまっすぐに見上げて礼を告げた。  高位の貴族かつ将軍であるヴォルクに対し、面と向かって発言をする女性は非常に限られている。  大神官であるアデリカルナアドルカは誰に対しても毅然とした態度で話すが、そもそも関わる機会も少ないし、彼女の態度とケイのそれはまったく違っていた。……一言でいうと、気安いのだ。  異なる世界から来た、異邦人。ヴォルクのみならず、こちらの世界の者が意識すらしないような常識やしきたりを知らぬケイは、戸惑う様子はありつつもヴォルクに話しかけることを躊躇しなかった。その素朴な態度と表情がヴォルクには非常に新鮮だった。 「勤め先まで紹介してやるとは、珍しくかいがいしいではないか。……さては惚れたな?」 「陛下……。はじめに助けた縁もありますから、使えるつてを少し使っただけです。他意はありません」  保護の経緯をさらっと説明すると、ヴォルクの王は興味深げに唇を笑ませる。それにため息で答えると、鼻で笑われた。 「そなたは本当につまらんな。……それで、ケイとはどのような容姿だ? 美人か?」  少年のような興味を瞳に浮かべてアステールがさらに続ける。ヴォルクはもう一度ため息をつくと無表情で返した。 「派手好みの陛下のご趣味ではないと思われます。私は女人の容姿には詳しくありませんが、そうですね……わが国で一般的に『美人』とされている顔とは少し方向性が異なる気がします。目元がこう、一重で優しげな――」 「良いではないか。たおやかな美人もまた良し。たしかに余の後宮にはいないな。ぜひ会ってみたいものだ」 「いえ、ですから美人という感じでは――」  何やら話がおかしな方向に転んできた。君主としての手腕はともかく、自他ともに認める女好きのこの王にケイを会わせるのは非常に危険な気がする。冷や汗をかきながら、ヴォルクは話を切り上げる。 「ケイもまだ仕事を始めたばかりで、急な休みともなれば職場でやりづらくなるでしょう。彼女自身、恵みの者として特別扱いを望んでいるわけではありませんし……どうか今は、ご容赦ください」 「ふむ……。まあ、一理あるな。自力で生計を立てようとしているのは素晴らしい」  意外にあっさりと引き下がったアステールにヴォルクは胸を撫で下ろす。しかし、続く王の言葉に頭を抱えたくなった。 「よし。では落ち着いたら呼び寄せることとしよう。余の予定を見て日時を決めてくれ。あくまでも彼女の同僚には内密にな!」
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