33.その指先に

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33.その指先に

「ココ、おじちゃんとちゅり(・・・)したことあるんだよ! うまじいもちゅり、じょうず?」 「おお。なんせ旦那様に釣りを教えたのも俺だからなぁ。よーし、それじゃじじいと勝負だ」 「うん、しょーぶ!」  食事が終わると、グラースはココを誘って釣りを始めた。それを遠目に見ながら食事の後片付けをすると、一息ついたところでヴォルクが声をかけてきた。 「少し、いいか」 「は、はい」  ――来た、と思った。ケイが背中を伸ばすと、敷物に腰を下ろしたヴォルクが小さく眉を下げる。 「先ほども言ったが、そんなに緊張しないでくれ。……先日は急に済まなかったな。あとから思い返して、急ぎすぎたとは思ったが……その場の勢いや思いつきで言ったのではない。あの言葉に嘘偽りはない」 「……っ、はい……。ありがとうございます……」 「礼を言うところではないぞ」  ストレートな言葉にケイがぼっと赤くなると、ヴォルクが小さく噴き出した。湖畔のココとグラースを眺めると、風で乱れた前髪をかき上げる。 「屋敷にそなたらを招いても良かったのだが、視線が気になると思ってな。ここなら、ゆっくりと話せる。……少し、前妻の話をしてもいいか?」 「……はい」  ヴォルクの言葉に、ケイは唇を引き結ぶと彼に向き合った。  少し前までは、その単語を聞くだけで胸が締め付けられるようだった。今もそれは変わらないが、ヴォルクがあえて話そうとしてくれるなら聞きたいと思った。彼の、今まで知りえなかった心の内を。 「前にも話したが、私は死んだ妻と不仲だった。妻は、陛下の異母妹で――両家の取り決めとはいえ、王女が降嫁(こうか)という形で侯爵家に嫁がされたことが、気位の高い妻には我慢ならなかったようだ」 「えっ。王女って……お姫様だったんですか」 「ああ。まあ陛下の姉妹は他にも何人かいたが。だいたいが国内の貴族に嫁いだが、陛下の実の姉君は他国の正妃として迎えられてな。それがうらやましかったらしい」 「はぁ……」  肖像画から受ける印象でプライドが高そうとは思ったが、まさか王女様とは思わなかった。雲の上の身分すぎてその気持ちを想像することもできないが、他国に行かされるよりは国内に留まれたほうが心穏やかな気もするが。  複雑な心境も忘れてケイがぽかんと返すと、ヴォルクは苦く笑う。 「せっかく我が家に来てくれたのだから、どうにか馴染んでほしいと心を砕いたつもりだ。だが、妻はそもそも血生臭いことが嫌いでな……。社交界に興味もなく風流も解さない、無骨な将軍職の男など好みではなかったようだ」 「え……」  それはどう考えても、両家のマッチングミスではないか。ケイはそう思ったがさすがに口に出すことはしなかった。政略結婚だと言っていたし、貴族間の婚姻ならそういう不一致もなくはないのだろう。  それでも、いくら好みではなかったからといってこんなに素敵で優しい人と毎日一緒に過ごして、少しも心が動かないなんてことがあるのだろうか。  ケイが無意識に不服そうな表情を浮かべると、ヴォルクは視線を遠くのココに向ける。 「それでも、結婚して5年経ちようやく子供ができて――夫婦としての情はなくとも、やっとこれから家族になっていけると思っていた矢先に、グラキエスの侵攻が始まった」 「お子さん――いたんですか」 「ああ、いた。……生きて産まれることはなかったが」  明かされた事実にケイが大きく目を見開くと、ヴォルクは視線を伏せた。続いた言葉にケイはこの話の終着点が見えたような気がして指先が冷たくなった。 「妊娠が分かってから、つわりが重かったのもあって妻はますます気が立って、顔を見ることすら叶わなくなった。そうこうするうちに私は戦場へ行くことになり、ひと月後になんとか帰還して――顔を見せに行ったら、そんな血の臭いのする手で触れてくれるなと拒絶された。……疲れきった状態にあの言葉は、正直こたえた」 「……っ」  思わずケイは、眉を強くひそめた。  妊娠して気が立っていたのは分かる。それでも、国とそこに住む人々を守ろうと懸命に戦った人――しかも自分の夫に、そんな言葉を投げつけるのはあまりに理不尽だ。故人を悪く言いたくはないが、怒りが湧いてきて顔に出てしまう。 「それから私は戦後処理に追われ、家に帰れない日々がまた続き――そんな時に、妻が危篤との知らせをいきなり受け取った。まだ8か月にも入っていなかったが、大量に下から出血して……そのまま流産した。……小さな男児だった」 「……!」 「妻も出血が止まらず、息を引き取った。……私が帰宅した時には、すでに冷たくなっていた」  淡々と語られたヴォルクの過去に、ケイは茫然とその顔を見上げた。妻と息子を、同時に亡くしていたとは。  そして唐突に、以前レダが言っていたことを思い出す。 『本当に……こんな光景が見られていたら良かったのに……』  あれは、こういうことだったのだ。ヴォルクは硬い表情のまま口を引き結ぶと、静かな瞳でケイを見つめる。 「妻と子の死が防ぎえなかったことだとしても、なぜこういう結果になってしまったのか、何度も考えた。もっと寄り添うことはできなかったのかと。その手掛かりを含めて妻の遺品を整理していたら、手紙が見つかった」 「手紙? ヴォルクさん宛のですか?」 「いや……。他の男からの――恋文だった。しかも一通だけでなく、何通も」 「――!」  急に心がざらりとした。衝撃の内容に顔を上げると、ヴォルクはため息とともに続ける。 「結婚前から、何度もやり取りしていたようだった。不貞を働いた痕跡はなかったが――妻がずっと他の男を想っていたという事実は、さすがに衝撃的だった。結局、妻が心を許していたのは私ではなくその男だったということだ」 「相手の方、は――」 「知らぬ。……調べようと思えばすぐ分かるだろうが、あえて調べる気力もなかった。……思えば、妻も哀れな立場だった。好いてもいない男のもとに嫁がされ、我が子と共に命まで失うなど」 「…………」  政略結婚で、心が伴わなかったのはどうしようもなかったとしても、だからといって伴侶となった人をないがしろにしていい理由にはならない。  まして恋人と結婚後も繋がりを持ち続けていただなんて、ケイの感覚からしても許されないことだ。その事実にヴォルクがどれほど傷付いたかは想像に難くない。  風が強く通り抜けた。ケイがうつむき、拳を握りしめるとヴォルクは一つ咳払いをする。 「すまんな。すっかり辛気臭くなってしまった。……まあ、そなたが以前言ったように、これは私からの見方でしかなく妻には妻の言い分があったのだろう。どちらが悪かったか、などと今さら言っても詮無きことだな」  それはそうだが、ケイの胸中には重くモヤモヤしたものが残った。そんなケイを見つめ、ヴォルクは眉を下げる。 「不貞を働かれたわけではないが、私もそなたと似たようなものだ。だからなんとなく、そなたの心情も分かるような気がするのだ。相手を信じるのを恐れる気持ち、また裏切られるのではないかと恐れる気持ち――」 「…………」 「……だから、性急に答えを返す必要はない。ゆっくり考えて、答えてくれ。それがどんなものでも、偽りがなければ潔く受け止める。……これを言いたくて、前置きが長くなった。さて、そろそろグラースたちを――」 「……っ、待って」  立ち上がりかけたヴォルクをケイは制した。だが止めたはいいが続く言葉が見つからず、無言でヴォルクににじり寄る。  ――応えろ。勇気を出せ。彼が向けてくれた真摯な想いに、今こそ向き合うときだ。近付くことを、恐れるな……!  ケイはぎゅっと目をつぶると、言葉の代わりにヴォルクの手に自分のそれを重ねた。疲弊した彼をさらに傷付けた、呪縛のような言葉から解き放ちたくて。 「……っ。ケイ」 「…………」  グレーの瞳を少し見開き、ヴォルクがケイを見つめる。ケイは顔を上げると、視線を合わせたままヴォルクの手を持ち上げた。  その手を自身の頬に導くと、目を閉じて頬ずりをする。 「……っ」  ヴォルクの耳がさっと赤く染まった。ケイは目を閉じたままその大きさと温かさを感じ取る。  思えばこの世界に来てから今このときまで、この手にずっと支えられてきた。  助けられ、職を与えられ、ときに包み込んで緊張をほぐし、ときにココの頭を撫で、そして幾度か抱きしめられた――。その手が、汚れているだなんて絶対にそんなことない。 「こんなにあったかいのに……。もったいない」 「……?」 「私だったら……絶対に離さないのに」 「ケイ……」  ヴォルクの手を離し、その目を覗き込む。恥ずかしいけれど、視線を逸らしたくなかった。今から言う言葉が真実だと彼に伝えるために。 「ヴォルクさん。私……ヴォルクさんのいいところ、たくさん知ってるんですよ」 「……?」 「王様に信頼されて、部下の方たちにも慕われているところ。使用人の人たちにも優しいところ。……見ず知らずの親子を助けてくれるところ。しかも、その後のお世話までしちゃうところ」  指を折りながら挙げていくと、ヴォルクが目を見開く。ケイは小さく笑うと言葉を重ねる。 「ココと目線を合わせてくれるところ。大笑いしそうになると、咳払いで誤魔化すところ。照れたとき、顔は赤くならないけど耳が赤くなるところ。……あれ、どうやってるんですか?」 「……っ」  ヴォルクがうろたえたように耳たぶに触れる。それを優しい気持ちで眺め、ケイは8本目の指を折る。 「優しいから、ココにほいほい飴をあげちゃうところ。……私、知ってるんですよ。その小物入れに飴が入ってて、ココがねだるとあげてること。……もう、駄目ですよ。こういうのは奥の手なんですから、ここぞというときに取っておかないと」 「す、すまん……」  ベルトについた革製の小物入れを指さしてめっと叱ると、ヴォルクが少しうなだれる。その、叱られた大型犬のような表情に胸が甘く疼いた。 「八つまで来ました。あとなんだろ……。あっ、顔がいいところと筋肉が素敵なところ。これで10個!」 「……最後だけ、ずいぶんおざなりだな」 「いやもう自明の理というか、当たり前すぎて忘れてたんで。……あっという間に10個挙がりましたよ。まだ言った方がいいですか?」 「いや……いい。そなたは、私のことをよく見ているな」 「はい。だって好きですから」  耳がまだかすかに赤らんでいるヴォルクの照れ隠しのようなつぶやきに間髪入れずに返すと、ヴォルクは一瞬固まったあとケイをぽかんと見た。ケイはもう一度、赤い顔で念押しする。 「私もココも、そんなヴォルクさんのことが……大好きですから」 「…………」  ヴォルクの耳の赤みがもう一度戻ってくる。目を合わせていられなくてとうとうケイが視線を伏せると、頭上から探るような声が降ってきた。 「それは、どういう意味だ…? 友愛としてか……?」 「……っ」  ――こんなことを、ただの恩人に言うわけがない。こんな距離や触れ合いを、誰にでも許すわけもない。  この期に及んで、なぜそんなことを問うのか。顔を上げたケイは気付いてしまった。ヴォルクの瞳に揺れる、戸惑いと恐れの感情に。  彼も、怖いのだ。誰かをもう一度愛することが。  彼も――自分と同じなのだ。恋に臆病で、けれど今ここからその先に進もうとしている。  ケイはもう一度手を伸ばすと、ヴォルクの手に己のそれを重ねた。  ヴォルクがぴくりと身じろぐ。その長い指に自分の指先を絡めると、きゅっと握りしめた。   「こういう意味……です」 「……ケイ」  ケイの手には余る、ヴォルクの節張った手。その指先は温かく、ケイの体温もつられて上昇する。……動悸が速い。  赤い顔でうつむいたケイの手を、ヴォルクが握り直した。   「……ありがとう」  空気に溶けそうな低い声と共に、深く指が絡められた。腕を取られて顔を上げると、細められたグレーの瞳がケイを見ていた。ケイだけを、深い情と共に。  それに引かれるように見つめ合うと、ふいに高い声が二人の間を駆け抜けた。 「マーマー!! おさかな、ちゅれたー!」 「!!」  ばっと反射的に手を離し、同時に少し距離を取る。湖畔から駆け寄ってくるココとグラースに、ケイはぎくしゃくと手を振った。 「ママママママー! みて! おさかな! ココがちゅった!」 「えっ、すごい。ちゃんと針つけてたんだ」 「うん! うまじいがミミズちゅけてくれた!」 「そ、そっか。あとで手を洗ってね」  先にたどり着いたココが、満面の笑みでケイとヴォルクに釣り上げたばかりの魚を見せる。トゲや鋭い歯はない魚のようだが、逆さまにして尾を掴み、釣果を自慢するおっちゃんのようなポーズにケイは思わず噴き出した。  あとから追いついたグラースがのんびりとヴォルクに声をかける。 「旦那様~。気持ちは分かるけんど、イチャつくなら子供が寝でがらにしねえと目に毒だべー」 「! しておらぬ……!」 「してません!」 「嘘づげー。見えてたぞー」  がりがりと後頭部をかきながら投げられた言葉に、ケイはもちろんヴォルクもつられて赤くなった。  帰路は組み合わせを変えてココを乗せると言ったヴォルクだったが、先ほどの釣り体験がボーナスポイントになったのかココ自身が「うまじいがいい!」と言って聞かず、ヴォルクはあえなく同乗を拒否された。  結局、少し肩を落としたヴォルクとケイはまた二人乗りで帰ることになり、ゆっくりと馬を走らせる。  互いにあえて、先ほどの話はしなかった。けれど手綱を握るヴォルクの体温が、朝よりも少し近くなったような気がした。  朝と同じ集合場所に着く直前、背後から軽く抱きしめられたのは――きっと、気のせいではなかった。
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