エピローグ

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エピローグ

 物語にはまだ、続きがある。  あれから1年と半年ほどが過ぎた。ヴォルクの妻となったケイは養老院での仕事を辞め、侯爵夫人としてゆったりと落ち着いた生活を楽しんで――いるわけではなかった。生活は楽しいが、ケイの毎日は思っていたよりも多忙だった。  侯爵家に入ったケイを待っていたのは、使用人たちの熱烈な歓迎、ココへの溺愛、ヴォルクの深い愛、おまけにもう一つ、侯爵夫人に対するスパルタ教育だった。  ヴォルクがいいと言ってくれても、何も学ばないわけにはいかないだろうと覚悟はしていたが、それはケイの想像以上だった。読み書きからこの世界の常識、貴族女性としての立ち居振る舞いまで、ソコルとレダは容赦がなかった。  ケイも10ウン年ぶりの勉強モードに最初はなんとか食らいついていこうと頑張っていたが、アラサーを卒業してミドサーになりつつある頭は集中力が持たず、何度も赤点ならぬお小言をもらっていた。  隣でミミズのような文字を書いているココはべた褒めされるのに、なぜ私だけ。  だんだんと元気がなくなっていくケイを見かねてヴォルクが息抜きを提案し、ケイは週に数日、養老院にパートタイマーとして働きに出ることになった。  侯爵夫人でもココの母親でもない、「遠い国から出稼ぎに来ているただのケイ」になれる時間がケイの元気を取り戻させた。あとは自分で働いて小遣い稼ぎができるのも嬉しかった。 「いや、外で働いてる方が息抜きになるなんて思わなかったよ……。社畜だ社畜」 「何それ。……まあ分からなくもないけどね。あたしも今は休んでるけど、たまには子供預けて無性にシーツの洗濯とかしたくなるときあるもの。ひたすら黙々と作業してたい」  侯爵邸の庭を見渡せるテラスで、ケイはラスタとオルニスの妻、マウラと3人で茶を楽しんでいた。ラスタの腕には生後半年ほどの赤子が抱かれ、白昼堂々授乳をしている。  ラスタはひょいと手を伸ばすと茶菓子をつまみ、お茶をぐいっと流し込んだ。4人産んだベテラン産婦にかかれば、授乳しながら食事をするのなんて朝飯前だ。 「あー喉乾く。これ美味しいわね。お茶おかわりちょうだい、ケイ」 「はいはい」  侯爵夫人に対するとは思えぬ、変わらぬ態度にケイは苦笑しながらカップにおかわりを注いでやる。すると向かいに腰かけたマウラが慌てて腰を浮かせた。 「私がやります、ケイ様」 「いいですいいです。予定、来月ですよね? オルニスがそわそわしちゃって、会うたび和んでますよ」 「お恥ずかしい限りです……。産後しばらくお休みもいただきますし、侯爵様にもご迷惑をお掛けします」 「いいじゃない。父親のイクキューだっけ? こっちは死ぬ思いして産むんだから、そのあとの世話ぐらい仕事休んで旦那にやらせればいいのよ。どこの家にも使用人や親がいるわけじゃないんだから、それぐらい勤め先がお金出してくれてもいいと思うけど」  授乳を終えたラスタにねえ?と同意を求められ、マウラが苦笑しながらうなずく。ケイもうんうんとうなずくと、マウラの大きく膨らんだお腹を優しく撫でた。 「楽しみですね。どっちかなあ」 「つわり重かったから大変だったわね。もうさ、産前産後は上の子侯爵邸(ここ)に預けちゃいなさいよ。いいわよね? ケイ」 「うん、もちろん。ラスタもそうしたもんね」  ここ、というのは侯爵邸の空いた別邸で開いている社内保育所ならぬ邸内保育室のことだった。侯爵邸で働いている使用人の子のみならず、外部の子にも門戸を開いており、もちろんココもそこに通っている。  ケイはココをなるべく多くの子たちの中で育てたいと考えていたため、ベビーシッター専属の使用人を複数名新たに雇い、専用の部屋を設けて保育室を開設してしまった。  ケイの願いは「ココも他の子たちと分け隔てなく」だったので木登りもすれば追いかけっこもするし、ときには泥まみれになって遊んでいる。ココは野生児化がますます進み、体力オバケとなりつつあった。残念ながらプリンセスには程遠い。 (まあそのうち落ち着くでしょ。……うん、たぶん。……自信ないけど)  自分の予測がおそらく外れることを予感したケイの横で、マウラがラスタに話しかける。   「そういえば、ラスタさんはいつ頃復帰するの?」 「あー。この子の乳離れが済んでからと思ってたんですけど、レダさんの催促がすごくて……」 「無理しなくていいよ。子供4人もいて大変でしょ」 「そうは言っても、4人いるからこそ稼がないとねー。まあ邸内で預かってもらえるなら、仕事に戻ってもどうにかなりそうだけど」  ケイの生活も大きく変わったが、実はラスタも変わっていた。レダたっての希望で、なんと侯爵邸の次期侍女頭として修行中なのだ。  さすがに今は産後なので休んでいるが、復帰した暁には別邸の2階で住み込みになる予定だった。  今はケイの希望もあり以前と同じように気安く話しているが、仕事のときは一応敬語を使われている。……一応は。   次期侍女頭 兼 専属ヘアメイク&スタイリスト 兼 親友に、ケイはいつまで経っても頭が上がらなかった。  ちなみに彼女の夫は木工職人として、品質確かな「星印の車椅子」を全土に届けているため家計はだいぶ潤ったようだった。 「マウラさんもどう? 子供好きなら保育室とかいいんじゃない?」 「そうねえ……。いいお話かも」  ラスタの提案にまんざらでもないマウラに、ケイはうなずくともう一度そのお腹をさすった。 「私は大歓迎ですけど、まずはお産ですね。陣痛来たらほんと遠慮なくオルニスを呼び戻してくださいね」 「あれ、ケイの分娩台使った方がいいわよ。本当にいきむの楽だったから。あれならあたし、あと二人は産めそう」 「それはラスタだけだよ……」  ケイはこの世界で車椅子を考案し、侯爵夫人としてその普及にも努めていたがもう一つ生み出したものがあった。それは分娩台である。  この世界の分娩道具である「天井からぶら下がる紐」を見た瞬間、「こんなのじゃいきめません!」と叫んだ結果、ラスタの旦那さんが頑張ってくれて形になったのだった。  その試作品をラスタが先日使ってくれて、産婆と共に移動が可能となるよう組立式にして軽量化をはかったものが今、「星印の分娩台」として王都で実用化されている。  出産スタイルは人それぞれなので強制する気はさらさらないが、誰かの役に立っているなら嬉しい。そして―― 「あっ! ママー! ママママー!!」  庭の奥から、仔馬にまたがったココが姿を現した。グラースに手綱を引かれ、隣にはヴォルクが付き添っている。  男二人を従えた小さな野生児プリンセスは一丁前に乗馬服に身を包み、馬上で手を振っている。  ケイは立ち上がると、3人を出迎えた。そのお腹は、マウラほどではないがふっくらと膨らみつつあった。 「おんや。綺麗どころが3人揃い踏みとはこりゃあ眼福だべなぁ」 「やだーグラースさんったら。いくらあたしが美人だからって、侯爵夫人と並べたら失礼ってもんですよ」 「絶対思ってないよね……」  はじめに声をかけてきたのはグラースだった。仔馬を繋ぐとココを降ろしてやり、二人で一緒に乗馬後の手入れをする。その間に、ヴォルクがテラスへと歩み寄ってきた。 「おかえりなさい。バイアリーはどうしたんですか?」 「先に厩舎に戻してきた。仔馬の方はココがママに見せるんだと言って聞かなくてな……。まあたしかにだいぶ上達したが」 「ママー! きょうね、おとうさんとおにわいっしゅうしてきた!」  仔馬の世話をしながらココが大声で報告する。すっかり「おとうさん」呼びが板についた我が子に手を振ると、こちらもすっかり父の顔になったヴォルクが目を細める。 「体調は変わりないか?」 「はい。……あのそれ、朝も聞かれましたよ。半日で変わりませんて」 「む……。それはそうだが、何かあったらすぐに言うのだぞ。早馬を飛ばせば城の医師が駆け付けるから――」 「はいはい」  ケイの妊娠が分かったとき、ヴォルクはとても喜んだがそれ以上に不安そうだった。  過去が過去なだけに仕方ないとは思うが、ココのときと同様に軽めのつわりが終わって安定期に入っても、まだまだ心配そうだ。すっかり過保護になってしまった夫を見上げ、ケイは苦笑する。 「大丈夫ですよ。今日も元気にうにうに動いてますから」 「そうか……。私も胎動を感じたいが、なぜかいつも私が触れると止まるからな……」 「うーん。圧が強すぎるんじゃないですかね? 気合が入りすぎてて赤ちゃんも察するのかも」 「そ、そうか……」  若干しょんぼりと肩を落とした夫をなだめるようにケイが笑うと、背後で咳払いが聞こえる。 「あのー。ご自宅でイチャイチャされるのは結構なんですけど、一応あたしたちもいますんで」 「ご無沙汰しております、ヴォルク将軍。いつも夫がお世話になっております」  痺れを切らしたラスタとマウラの挨拶を受け、ヴォルクの耳がほんのりと染まった。ケイに案内されて空いた席に腰かけると、茶を飲んでペースを取り戻そうとする。 「久しいな、ラスタ。母子ともに元気そうで何よりだ」 「はい、おかげさまで。……すっかり旦那様も骨抜きにされて溺愛してますねえ」 「っ……!? いや、私は別にケイに対しそのようなことは――」 「あらぁ? ……あたし、ケイのことだなんて言ってないですけど? ココちゃんに対する親馬鹿っぷりを見て言ったんですけど」 「…!」  茶を噴き出しかけたヴォルクの弁明に対し、ラスタがにやりと追い打ちをかけた。再び絶句したヴォルクは口を押さえ、ケイはまあまあとその背をさする。 「ラスタ、意地悪しないの。……あれ? そういえばマウラさん、オルニスが迎えに来るんでしたよね?」 「はい、そうなんですけど少し遅いですね……。将軍、長居してしまってすみません」 「いや、気にするな。出産は来月の予定だったな。無事に産まれることを願っている」 「ありがとうございます」  その夫とは違いマウラが丁重に頭を下げるとちょうど手を洗ったココがやってきた。ヴォルクの隣に陣取り、えへへーと父親を見上げる。 「グラースさんもお茶どうぞ」 「おお。じじいにも悪ぃな」 「うまじい、このおかしおいしいよ! ココもういっこほしい……!」 「こーら、お菓子は三つまで!」 「良いではないか、一つぐらい」 「あっ、またそうやって甘やかしてー。何かあるとすーぐお父さんとこ行くんだから!」  もともと賑やかだったテーブルがさらに賑やかになった。さらに追い打ちをかけるように、息子を連れたオルニスがひょこっと顔を出す。 「マウラー! ごめん、遅くなっちゃった! 馬が急に機嫌悪くなって――。あっ、将軍!?」 「オルニスか。身重の妻をあまり待たせるな」 「あっ、オルニス。せっかくだからお茶飲んでって。ココー、お菓子運んでー」 「へへ……。すみませーん。ココちゃん、ウェーイ」 「オルニスちゃん、ウェーイ!」  謎の挨拶でハイタッチしあう二人に苦笑していると、気を利かせてやってきたレダが茶を注いでくれた。ケイは自分の席に戻ると、手元に置いたスケッチブックを開く。  腕の中で赤子が寝てしまったラスタが横から覗き込んだ。 「ずいぶん溜まったわね」 「うん。でもまだまだ描きたいんだ」  服や宝飾品の類は対外的に必要なものしか揃えなかったケイだが、ヴォルクと結婚して唯一ねだったことがある。それは、絵を習いたいということだった。  肖像画なら画家に描かせれば良いとヴォルクは言ったが、ケイが欲しいのはそういうかしこまった絵ではなかった。  家族でしか見られないような日常風景を、ココの成長記録を、スケッチレベルでいいから後に残しておきたかった。撮れなくなってしまった写真の代わりに。  結婚指輪ですら「仕事で汚しちゃうからいらないです」と当初は断ったケイの唯一のおねだりに、ヴォルクは苦笑しつつも先生を探してくれた。以来、少しずつ描き方を教えてもらい、人物ばかりではあるがスケッチをしている。  最近では力仕事ができない代わりに、養老院の入居者の誕生日などに似顔絵を描いてプレゼントしたりと仕事でも多少の役に立っていた。 「あらまあ、旦那様ったらデレデレしちゃって」  スケッチの対象は、当然ながらココとヴォルクが圧倒的に多かった。笑顔、泣き顔、怒り顔……ココのあどけない豊かな表情がそこには描きとめられている。  そしてスケッチブックの中のヴォルクも、いつも優しい顔をしていた。  たくさんの人に囲まれるココとヴォルクを見て、ケイはアデリカルナアドルカの言葉を思い出す。  再婚が決まったとき、ケイとヴォルクは報告のため星読みの館を訪れた。  半年ぶりに再会した大神官は記憶通りの無表情と抑揚のない声で「そうですか」と答えた。そしてこう続けたのである。 『こうなることは最初から分かっておりましたから、報告は不要です。この先の星行きも、まあ心配はないでしょう』  結局彼女がどこまで見通していたのかは分からないが、心配いらないと言われてホッとしたのは事実だった。  ちなみにそのあとアステール王にも報告をしたところ、「離縁したら余のところに来い」などと余計なことを言われたため、ヴォルクが不機嫌になってその夜また大変だったことも思い出してしまいケイはうっすら赤くなった。 「ママー! オルニスちゃんたち、かえるってー!」 「お邪魔しました、ヴォルク将軍、ケイ様。また産まれましたらご報告しますね」 「はい。お大事にしてくださいね。会いに行きますから……!」  オルニス一家とラスタを見送り、ケイたち3人は邸内へと入る。ケイの腰をヴォルクが支え、ケイは呆れながら背の高い夫を見上げた。 「あの、本当に大丈夫ですから……。あと何か月あると思ってるんですか」 「愛する妻を夫が支えてはいけないか?」 「なっ、そっ……。いやいやいや、普通に歩きにくいですから!」  赤い顔で一瞬ほだされかけたケイだったが、ココが見ていることに気付きヴォルクの腕から抜け出した。妻に去られた侯爵に、幼子から同情的な視線が向けられる。 「おとうさん、かわいそう……。ココがおててつないだげるね」  仲の良い親子は玄関から廊下へと進み、その扉が閉められる。侯爵邸の廊下の一角には、新しい肖像画が飾られていた。  ケイとヴォルクが結婚したときに描いてもらった、家族で初めての肖像画。その中央に描かれたヴォルクは、これまでの絵とは違い穏やかに微笑んでいた。  こうしてケイは、異世界で無職のケイから侯爵夫人 兼 介護職パートタイマー 兼「なんか色々広める人」になったのだった。  一風変わった「恵みの侯爵夫人」は、その後も末永く幸せに暮らしましたとさ。おしまい。  完
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