8.憧憬

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8.憧憬

「あら、復帰したのね。ココちゃん託児所行けた?」 「うん、もうすっかり。その節はありが――クシュン! ごほっ……」 「あー……。やったわね」  ココが解熱した翌日、ケイは仕事に復帰した。しかしそのまた翌日、ケイは赤い顔でベッドに沈んでいた。 「やっちまった……」  体温、おそらく38度ぐらい。症状、発熱と咳と倦怠感。……どうみても風邪。  ココの風邪をモロにもらってしまい、ケイは大きくため息をつく。 (新人なのに休んでばっかで申し訳ない……。いや、体調悪いときは休まないと、結果的に施設内での感染まん延のリスクになるって進言したの私だけど! ……まさか自分が第一号になるとは思わなかった)  ココはラスタが託児所に連れて行ってくれた。どこまでも女神のような同僚だ。ありがたすぎて頭が上がらない。  幸い、二次感染を見越してあらかじめ薬はもらっておいた。となれば、あとはひたすら寝て回復に努めるのみだ。  この世界に来て初めて得た一人時間が療養のためとはなんとも悲しいが、体の意思に従いケイは瞼を閉じた。 「ん……」  それから数時間後。控えめに鳴らされたノックの音にケイはぼんやりと目を開けた。コンコン、ともう一度鳴らされ、ベッドにのろのろと起き上がる。 (ラスタかな? いつもは勝手に入ってくるのに珍しい……)  ふらつく足取りでドアに近づくと扉を開ける。だが気のいい同僚の顔があるだろうと思った高さには、深緑色の硬そうな布があるばかりだ。 「?」  顔を上げると、灰色の鋭い目が自分を見下ろしていた。ヒュッと心臓が縮んだ直後、あ、と脱力する。 「ヴォルクさん!? え、なんで?」 「いや、私も寝込んでいる女性の部屋に行くのはどうかと思ったんだが、これを頼まれて――」 「あ……お昼?」  ヴォルクが抱えている紙袋には見覚えがある。ラスタが数日前に届けてくれたものと同じだ。 「わざわざすみません……! あれ、でもなんでヴォルクさんが私のこと知って――」 「ではこれで失礼する。長居は負担だろう」 「ちょ、ちょっと待ってください。お茶ぐらい飲んで――」 (――って、私いまドすっぴんだー!)  はっと今さら気付いてしまった。薄い顔という自覚があるため、普段は最低限のメイクはしている。そうしないと存在感がなさすぎると元夫に言われてしまったぐらいだ。  ついでに幸の薄そうな顔とも言われた。今思えばとんでもないモラハラ野郎だ。  そして今、そのぼんやりとした目もうっすら浮かぶそばかすもそのままで、肩にかけたストールでケイは慌てて口元を隠す。 「いや、本当に構わず――どうした? 大丈夫か」 「だ、大丈夫です」  じっと見られるとますます恥ずかしくなってきて、顔が熱くなる。縮こまるケイをヴォルクがさらに見るという悪循環になり、汗がふき出した。 (そんなに見ないでー!! 美形に見られると余計に緊張する!) 「本当に大丈夫か? 顔がずいぶん赤いが」 「大丈夫です……。ありがとうございます。でも、どうしてここに?」 「ああ……。ひと月に一度ほど、私が管理する施設を見回りに行くのだが今日カルム養老院に行ったらそなたは休みだと言われてな。一応そなたの様子も聞きたかったし、後日出直そうと思ったらそれを渡されて――」 「ええ……管理者に、そんなお使いみたいなこと……。あの、ちなみに誰からですか? 院長ですか?」 「いや、ラスタだ」 「!?」 (ラスター! 理事長ポジションの人になんてことを! そもそも侯爵って雲の上の人じゃないの!?)  一度は収まった動悸がまた戻ってきた。ケイはストールで顔を覆った。 「ご足労をおかけしました……。ラスタのこと、知ってるんですね」 「ああ。毎月会っていればだいたいの顔ぶれは覚える。それにラスタを採用したのは私だしな。彼女が一人親だったときに、養老院前で泣きつかれて……というか押し切られて、雇用することになった」 (行動力……!) 「それにあながち、お使いというわけでもないのだ。この寮も私の管理だが最近来られていなかったから、このあと見て回る。何か不便や気になることはあるか?」 「ないです。皆さんに良くしていただいてます」 「それは良かった」  ふっとグレーの目が緩み、ケイの胸が跳ねた。普段クールな印象の人が笑うと、ものすごい破壊力がある。  再び熱くなってきた顔を手であおぎながら、ケイはヴォルクに向き直る。 「あの、こんな格好ですみませんが改めてお礼を言わせてください。カルム養老院で働かせてくださって、本当にありがとうございます。同僚にも恵まれて、この世界でなんとか生きていけそうです。あそこで放り出されていたらどうなっていたか……。ヴォルクさんには、本当に感謝してます」  深々と頭を下げるとヴォルクが戸惑ったように眉を寄せた。そのあと、軽く息を吐いてまなじりを和らげる。 「ラスタの件もそうだが、幼い子供を不幸にしたくない。その親が困っていて、差し伸べられる手があったからそれを使ったまでだ。だから恐縮されるようなことではない」  低く深みのある声でそう言われ、ケイはぼうっとその顔に見とれた。そんな自分に気付き、ぷるぷると首を振る。……しっかりしなくては。 「このご恩は、一生懸命働いて返します。これからもよろしくお願いします」 「かしこまらなくて良いと言うのに。……立ち話が長くなったな。さ、もう休みなさい。院長からも明日まではゆっくりして良いとの言づてだ」 「分かりました。本当にありがとうございました」  ぱたんと扉が閉まりケイはふらふらとベッドに戻った。熱を帯びた頭はヴォルクの微笑を何度も再生し、ケイはきつく目を閉じる。 (体調不良時の私、チョロすぎるぞ……! 3倍増しで素敵に見えるだけ。変な気は抱かない。……推しにするには、生身すぎる) 「素敵な人だな……。奥さんも大変だ」  自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、ケイは栄養を取るべく差し入れされたパンにかぶりついた。
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