暴言・妄言

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暴言・妄言

 5年前、ネコヤナギさんはまだ70歳前だった。私とは5年の付き合いになる。認知はない。私が出勤すると待ち構えてティッシュを数枚くれる。皆にではない。配れるものはティッシュくらいしかないのだ。  言葉が不明瞭だ。30代で脳梗塞。半身麻痺。わかる言葉は少ない。 「バカヤロー、はやくしてくれよ。どいつもこいつも、そんなもんだ」  5年の付き合いだから情が湧く。しかし次々変わるスタッフには評判がよくない。以前にもいた。 「ネコヤナギさんがいやだから辞めます」 という主婦が。人手不足なのだ。彼女は別のユニットに異動になった。  最近のスタッフは厳しい。バカヤローと言われ黙ってはいない。食事を配るのも最後にされる。リビングのテレビのチャンネルも自由にできなくなった。 「あなただけのテレビじゃないです。お部屋で見てください」 「朝から、なにブツブツ言ってんの? 男のくせに。うるさいっ!」  私は、かわいそうだと思ってしまう。  ネコヤナギさんも人を見る。敵わない相手に無茶は言わない。  この間、私が朝出勤すると、いきなり、バカヤローときた。 「どうしたの? 朝から」 「いいよ、もう、バカヤロー」  なお宥めようとすると、 「もう帰れ。バカヤロー」  さすがのばあさんも頭にきた。 「わ・か・り・ま・し・た。もう話しません」  それからは無視した。無言で配膳。片付け。ネコヤナギさんの言葉は変換して聞こうと思っていたが……バカヤローはアリガトーに。それでもダメなときは、人には言えないが、ブタがブヒブヒうなっている……そう思う。怒りも湧かず……結局、感情をなくすことが長く働く秘訣だ。怒り、同情は水に流す。自分が平常心でいるために。  しばらくするとネコヤナギさんはティッシュを持ってきた。 「ほらっ」  最近ではネコヤナギさん、セクハラが問題になっている。若いスタッフ、50歳くらいのスタッフも胸を触られそうになったとか……風呂の担当は男性になった。  私には誰も聞かなかった。   もっとすごい暴言を吐く人もいる。90過ぎたヤドリギさん。奥さんとも相当の暴力沙汰で警察のご厄介にもなったという。入居前、ファイルを見て極力関わりたくないと思った。  麦茶を出したら怒った。馬が飲むものだと。茶碗や箸をテーブルに置いたら汚い、と怒った。ヤドリギさんにはトレイを購入した。トレイのままお出しする。箸は汚いと言うので割り箸だ。メニューを説明するのだが、耳が遠い。腹の底から声を張り上げなければならない。  パートの若い女性が、ヤドリギさんと大喧嘩をした。些細なことから、死ね、と言われ引き下がらなかった。当人はケロッとして忘れただろう。パートの女性は少しして辞めた。そのせいかはわからないが。 「ありがとう」と暴言が、交互に出る隣のユニットのナツメさん。秋の空のように変わる。私はナツメさんの足を洗う。浴室に行くまでは機嫌がいい。湯をかけると怒り出す。凄まじく。かつてこれほど罵られたことはない。条件反射で言い返したら、もっとひどくなった。そして、ころっと変わる。 「サンキュ」  そのナツメさんを風呂に入れろ、だって? やれと言うならやりますが……最初は男性のリーダーがついていてくれたが……ダメだった。頭を洗えない。拒否と暴言……暴れられ、そうそうに終えた。ナツメさんを風呂に入れなければ、と思うと憂鬱になった。愚痴った。それでも担当になっていた。訴えた。 「男性の職員さんが入れてください」  口には出さないが、 「この時給ではできません」  今ではその方の症状はもっと進み、リフト浴になった。隣の浴槽で怒鳴っていたのもつかの間。ナツメさんは自分の体を傷つける。出血するまで。薬を飲むようになり、大人しくなった。別人のようだ。  コーヒー牛乳と甘い煎餅だけで生きてきたクスノキさんも、看取り介護になった。様子を見にいくとお水を求められた。職員に、ボトルの水を持っていくように言われたので、コップに入れて渡した。看取りなのにしっかりしていて、ご自分で飲んだ。そして怒り出した。これじゃない、と。ひどい暴言を吐かれた。 「水、わからないのか?」 クスノキさんが話すのを聞いたのは 「煎餅、ちょうだい」  それだけだった。一方的に怒鳴った。看取り介護の男性が暴言の嵐。 「わからないのか、いい歳してッ?」 わかりません。なにを怒っていらっしゃるのか…… 「水だろ、それは」 とは、さすがに死にゆく人には言い返さなかったが。  クスノキさんが欲したのはボトルの水ではなかったのか。イオンやカルシウム強化の水では……  妄言も怖い。聞く方は、またか、とうんざりだが、本人は真剣だ。  カリンさんの部屋に最近出るのは動物だ。夜中にベッドに入ってくる。1匹ではない。ウサギや犬や馬まで。掛け布団を奪うそうだ。 「寒くて眠れないのー!」  シーツ交換の時に注意された。 「鳥がいるから気をつけて」 「……ありがとう。気をつけます」 「犬が、嫌いなの。誰か好きな人に飼ってもらえれば……」 「探してみるね……」 本人は本気だ。  なぜ、もっといい妄想をしないのだろう? いい男が4人も……とか。嫌いなものしか現れない。  ミモザさんは入居してきたときは怖いくらいの方だった。お世辞を言うと、 「おべっか、言ってんじゃねーよ」  今では1日の長さが変わってきた。朝も昼も夜も寝ている。リビングに連れてきて食事をさせるが、スプーンを持ったまま眠っている。次の日は夜中も起きている。よく喋っている。浴室にいても聞こえる。ミモザさんの大声。目がいいのだろう。テレビを相手に喋っている。笑っている。   鏡に言う。 「ちょっと、そこの人」 ばあさんのうしろに、話しかける。 「坊や……」  夜勤さんは怖いらしい。 「そこに、○○が……」  施設で亡くなった方は多い。夜勤さんは感じるそうだ。ばあさんに霊感はない。週に1日だけ夕食時も働いている。帰るのは19時半。ひとりでエレベーターを降りる。真っ暗な洗濯場を通る。ばあさんは怖くはない。会いたい人がいる。笑顔が忘れられない人がいる。
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