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知らないくせに
藻武の履き潰されたスニーカーが、リノリウムの床を踏みつける。換気もされていないのだろう、こもった匂いが部屋を覆い、少しだけ息苦しい。
敵を前にした時とは、違う緊張感が由比都の体を苛んでいた。目に見えないからこそ肌で感じる異常が、ゆっくりと喉元を締め付けるようだった。
「社長」
「うん、結局謎は深まるばかりだねえ」
「何が、見えてるんですか」
夜見の言葉に、由比都がもどかしそうに問いかける。
ぼんやりと枕を背もたれにしている田原は、微動だにしない。やせ細った体は、緩やかな死が体に侵食しているようにも見えた。
テマネキに返り討ちにあったと聞いていた。夜見は廿六木から言われたことを、軽く捉えていたようだ。三人の目の前にいる田原は、返り討ちなんて可愛い表現だったというのがわかるほど、精神を破壊されていた。
瞳が濁り、年齢を疑うほどに老け込んでいる。藻武が正面に立っていても、反応も示さない。関心がないのではない。おそらく認識能力も奪われているのだろう。
「ちょっと気が引けるんですけどね、でも見させてもらいますよっと」
藻武が田原の濁った瞳を覗き込む。藻武の黒い瞳の奥から、力が赤い螺旋を描くように瞳の中で広がっていく。それは、藻武の持つ過去視の能力であった。まるで拒絶をするかのように、田原の瞳が忙しなく動く。呼吸すらも許されぬ程の静寂は、藻武が顔を上げることで終わりを迎えた。
「廃人だあな、これ」
「つまり?」
「テマネキが田原を襲った時、そのまま生き霊の素である精神体を抜かれてる。いや、食われた?」
「もしかしたら魔障があるかもしれない。藻武君、場所変わって」
由比都の隣を離れて、夜見は田原の前に立った。浴衣にも似た入院着の合わせ目を開くと、夜見の手が肋の浮く田原の体へとそっと触れた。
「社長、絵面最悪ですよそれ」
「絵面?」
「あー、いい大丈夫。由比都はなんも見なくていい」
「見えませんが」
辟易とした藻武の声だけが、状況の不可解さを物語っている。二人の目の前で、夜見は閨事のようにくまなく田原の体を検分していった。今この場を誰かに見られたら、おそらく同性愛者の強姦魔と捉えられても仕方がないだろう。しかし夜見の顔は至って真剣であった。
「ん……?」
「なんかあったんですか?」
「藻武君、これなんだろう」
「どれ」
田原の体の両脇に、一定の間隔で妙な痣がができていた。こんなに大袈裟なものを医師が見逃すはずもないだろう。藻武の過去視では何も映らなかったことも気にかかる。
「田原の記憶覗き見したけど、こんなんなかったと思うけどな。なんだこれ、なんかに似てんな」
「あの」
「ああ、悪い。仲間外れにしたわけじゃねえんだ。なんか田原の体の両脇腹に妙な痣があって」
「痣、ですか……」
夜見は、珍しく真面目な顔をしていた。徐に田原の痣をスマートフォンのカメラで撮影をすると、画面に映し出されたのは痣もない男の素肌であった。
「魔障だね。写真に映らないってことは、俺たちにしか見えないってことだし」
「これわかっただけでも収穫になるんじゃないっすか。マ、田原のそれは薄いし、そのうち消えるっしょ」
「よいしょっと」
藻武の言葉はまるで聞こえません。とでもいうように、夜見は腰に下げたツールバッグから霧吹きと白い布を取り出した。
それは、夜見が怪異やヒトデナシ用に使う瘴気祓いの御神酒である。手に持った白い布にしっかりと吹きかけると、夜見は田原の痣を拭う。御神酒の効果か、魔障はあっという間に消え去った。
「いや掃除しちゃうのかよ」
「だってこんなん残したまま社会復帰したら可哀想でしょうよ」
「社会復帰……できるんですか?」
「できねえよ。社長のこれは悪い癖……見てえな?」
可能性がないことを前に、慰めで希望を持たせる。夜見の優しさは、時として残酷だ。由比都は何も見ることはできないが、夜見の行動は偽善者そのものだと眉を寄せる。笑みを浮かべていたとしても、その裏では何を思っているかはわからない。そんな人間に大勢出会ってきたからこそ、夜見の行動は由比都にとって不快だった。
(人とは違う経験をしていても、性根は生まれ持ったものというわけか)
「よし、一応田原の家族が頼んだ清掃業者ってことで通してもらってるから、軽く掃除ぐらいはしていくか」
「あいよ。由比都、このゴミ袋広げて持っといて」
「はあ……」
持たされたビニール袋が、ガサゴソと音を立てる。個室の部屋で、患者も寝たきりだ。そこまで汚れもなかったようで、夜見と藻武はざっと掃除を済ませてしまった。
本当に掃除屋もやっているようだ。由比都はなんとも言えない気持ちで大人しく立っていた。広げていたゴミ袋を、夜見の手が受け取った。もうこの部屋に用はないらしい。由比都はさりげなく腰に添えられた夜見の手を払いのけると、促されるままに病室を後にした。外に出る。しかし、由比都の中で積もり始めた苛立ちは、新鮮な空気でもすっきりはしなかった。
「ねえねえ、この辺にうまいカレー屋さんがあるみたいなんだけどさ。三人で行かない?」
「行きたいならお二人でどうぞ。私は結構です」
「ばっか、社会経験ねえの? 給料もらっている以上社長の言うことは絶対なんだよ」
「っ、雇用契約結んだ記憶はないんですけど」
「結んでいいならすぐに結ぶけど⁉︎」
「あんたほんとやかましいな⁉︎ 耳元で叫ぶな……っ」
唐突に肩を引き寄せくっついてきた夜見に、由比都はしっかりと抗議をする。左遷されてきたとはいえ、こんなわけのわからない職場で働くつもりなど毛頭なかった。
由比都が以前所属していた祓屋は、夜見の清掃会社のように隠れ蓑なんかなかった。なんでここまでコソコソと身分を隠すように生きねばならないのか。何よりも、由比都は京浜地区自体にも煮え切らない不満があった。
「神がいない地区なら、なんでもっと努力しない! そんな清掃会社にかまけている暇があるなら、もっと祓うことに専念しろよ‼︎」
夜見の腕を力任せに振り払う。思ったよりも、大きな声が出てしまったことに少しだけ後悔した。
振り払われた手をそのままに、夜見は目を丸くした。まるで積み重ねた不満が滲み出るように、由比都の顔色が悪かったのだ。
京浜地区が生ぬるいといわれているのは、夜見も知っている話だ。だからこそ、ここに飛ばされてきた由比都の心の憔悴は汲んでいるつもりだったのだろう。
跳ね除けられたまま、行き場の失った手を頭に運ぶ。夜見は、怒られた子供のように情けない表情を見せた。由比都の目が見えていたら、また火がつきそうな様子だった。
「情けないとは思うけど、こればっかりはどうしようもないよ」
「由比都、あんま怒んな。疲れるだけだろ」
「私の目が見えないからか⁉︎ だから、見放されたもの同士仲良く働けと⁉︎」
「おい、お前に同情するとか一言も言ってねえだろ」
怒気混じりの藻武の言葉に、由比都は肺に溜めた空気を吐き出すように笑った。そうだ。確かに、この場の誰も由比都を馬鹿にするようなものはいない。しかし、それはあくまで声色での話だ。表情の見えない由比都からすれば瑣末ごとである。口では、どうとでも言える。
見えないからこそ疑ってきた由比都自身にとって、夜見も藻武も心を許す対象ではない。
「嫌われたっていい。それはこれからもきっと変わらないことだ」
目が見えないだけが、由比都の首を絞めるのではない。周りからの見えない憐れみが鎖となって少しずつ心を締め付けるのだ。努力した、けれどどうしようもないことだってある。
最初から神のいない地区を任されているのと、持て余されて行き着いた先では意味が違うのだ。それを、きっと夜見も藻武も知ることはない。
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