人生で一番長い一日

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人生で一番長い一日

 はぁ、と何度目かのちいさいため息をつく。  目の前にいる男はどうやらこちらを手放さないようだ。どうしてこうなってしまったのか、自分でも分からないのに相手は苛々した様子で頭を掻き毟る。こちらは椅子に無理やり座らされ、長い間沈黙の中にいるのだからそろそろ限界が近くなってきていた。 「なァ、あんた」 「なんだ」 「そう苛々するなって」 「貴様のように悠長にしている暇は無い」 「いや、でも俺の毛が抜けるし…」 「知ったことではない、何故私がこのような…」 「…いや、やめておこう」  椅子に座っている男は白衣を、彼の向かいで落ち着きがない男は黒い縒れたコートを着ている。  白衣の方は後頭部で一つに結わえた濡れ鴉の羽のような色をした、長い黒髪を指先に絡ませ弄ぶ。一方黒コートの方は短く切った白髪を掻き上げ、落ち着かない素振りで部屋の中を闊歩していた。 「まさかこんな事になるなんて思わなかったよな」 「っ、誰の所為だと思っている……!」 「アンタだよなぁ、天才科学者の哀沢夏彦(あいざわなつひこ)。俺が踏み込むまで大人しくしてりゃ良かったのに」  白衣の男は笑いをかみ殺しながら黒コートを見上げる。先程まで自分の身体”だった”ものを。 ×   ×   ×   ×   ×  室内に時計はなかった。なので白衣の男の腹時計からすると、およそ2時間程前に遡る。  今日の依頼をこなす為、黒い縒れたコートの男はこの場所に足を踏み入れた。彼、冴島冬喜(さえじまふゆき)は依頼人の身辺警護を請け負う、所謂ボディガードである。  年々物騒になる都市の中でも天と地の差が激しい、禁忌区域と呼ばれる土地。そこで長年街を見てきた冴島の元に一本の依頼が入る。ある製薬企業から受けたもので、企業に所属している製薬開発に携わる科学者を護れと言うものだった。  その製薬会社は禁忌区域一帯を牛耳る巨大な企業で、良くありがちな市政との腐った関係を構築していた。  現在開発計画が進んでいるその薬は一般の市場には決して出ることがない、秘密裏に作られているものだった。どのような効果を齎すのか、開発工程を知る者も片手で足りる数しか居ない。  そんな企業宛に、薬の秘密を暴露されたくなければ金を寄越せと、まぁありがちな脅迫文章が届いたのが二日前。当の開発責任者である白衣の男、哀沢は単なる脅しで警護など必要ない、と上層部を突っぱねたが、不審者が侵入し機密情報を奪われかけたのが昨日の朝。  そして、突如冴島と哀沢の身体が入れ替わってしまったのが一時間前だ。  身体が入れ変わったのか、それとも精神が入れ替わってしまったのかは定かではない。  原因はこの企業で開発されていた薬のもたらす副作用だった。開発者の哀沢はこのようなことは想定していなかったようだが、事実として起きてしまっている。軍事に使われるものだとか闇マーケットに売り払われる予定だったとか、嘘と虚構に支配されつつあるこの街が好きそうなタネである。それを至る所に蒔き散らし、この企業が転覆することでも企んでいる輩が居そうなのは分かる。別の場所に利潤を生むなら手段を択ばない、前も後ろも見る必要がない連中にとっては恰好の餌だろう。 「…で、どうするんだよ。このまま生きていくしかないのか?」 「私が分かるわけないだろう。こんなことが起こるなんて…何と言うことだ」  深刻そうに項垂れているが、目の前にはくたびれたコートを纏う猫背の男の姿がガラスに映り込み、哀沢はやるせなくなった。  それと同時に自我は哀沢夏彦なのだが、肉体は別の人間なので名乗る時に何と言ったら良いのか分からなくなる。冴島は本来の哀沢夏彦であった華奢で貧相な躰を見下ろし、それでも案外悪いモノではないかも知れないと考え込んだ。 「…仕方がない。現状では元の自分に戻る手段を思いつかないから、私は貴様として生活することにしよう」 「自分の口から『貴様』って呼ばれるのゾクゾクするなぁ」 「……」  まるで汚物を見るかのような視線を向け、自分の顔と唇から出てくる言葉に怖気が走る。よりにもよって何故このような下品な男と入れ替わってしまったのかと、冴島の端正な顔で深く溜息をつく。そして彼の自宅の場所や生活様式を全く知らないことに気が付いて、哀沢夏彦は少しだけなら歩み寄ってやろうと決めた。 「…『君』のことを知らないので、教えてくれないだろうか」 「いいよ、無理しなくて。俺は冴島でも冬喜でも、あんた自身の名前でも貴様でも呼ばれればすぐに来るから」 「ならば私のことは哀沢と呼びなさい。但し人前では本来の名で呼ばれたら相手が応対すること…」 「いいの?俺、研究のこととかクスリのこととか全然知らないけど。トンチンカンな返答してあんたと相手を困らせても怒らないでくれよ」 「……」 「あと、俺が何の仕事をやってるか知ってんのか」 「ボディーガードだとか何だとかと上からは聞いているが」 「へぇ…それだけじゃなかったらどうする?」  冴島はにんまりと笑い、呆然と立ち尽くす自分の肉体に歩み寄る。  自分の身体が自分の意志から逃れようとしている光景は実に滑稽ではあるが、快楽主義者の冴島にとっては楽しくもあった。室内の角に哀沢を追い詰め、壁に両手を掛けて身動きを取れなくしてしまう。哀沢は窮地に陥った鼠のように縮こまった。 「そんな怖がんなよ…。あんたの顔、悪くはないと思うぜ?あ、今は俺の顔なんだよな…」 「な、なにをする…!」 「何もしないから。しいて言うなら…俺のこと教えてやるよ」 「…近い…」  当初の落ち着いた態度から一変し、慌てたように狼狽える自分の顔を見下ろす。今にも失神しそうな哀沢の意識に語り掛けるように、耳元に唇を寄せて小声で囁く。 「…俺は冴島冬喜、37歳。独身でそれなりに恋愛経験はあるけど…自分とはまだシたことなかったなぁ」 「な⁉何を⁉何をするつもりだ!」 「それはこれから教えてあげる」 「ひっ」  自分の顔が近づくや否や、冴島の身体で自分の顔を見上げた哀沢夏彦は次第に気が遠くなる感覚に襲われ、ぐるんと白目を剝いてそのまま膝を折ってしまった。気絶し体勢を崩した自分の肉体を支えつつ、してやったりと冴島は笑う。 「へへ…自分が自分と隣り合ってデートに行くなんて、誰だってできないだろうよ」  一体何を想像したのかは分からないが、あまりにもショックだったらしく暫く目を覚まさないだろう。その隙にと自分の身体を持ち上げて抱え、研究室からの脱出を試みた。室内扉のロックを解除すべく声帯認証の端末の前に立ち、咳払いをひとつ零す。 『パスワードをお答えくだサイ。秘密の質問の答えハ?』 「…私だ。」 『ロックを解除しマス』  自分の体を抱えたまま研究室を飛び出し、擦れ違う研究員の驚いた声を後目に通り過ぎる。言葉を吹き込んだ秘密の質問の答えは賭けでしかなかったが、1回で解けたのは不幸中の幸いだったと言わざるを得ない。 「所長…⁉一体どうなさったんですか…その人は…」 「私の愛人だよ」 「はぁ⁉」 「冗談に決まっているだろう…そうそう、彼から私の評判を聞かれたのだが。実際どうなんだ?」 「評判?そうですね…少なくとも男の人を担げるような力持ちではなかった筈…それに冗談も言うなんて、熱でも出たんですか?」 「いいや、熱は出ていない。至って正常だ…わかった、ありがとう」  製薬会社のスタッフと思しき人物は、狐につままれたような顔で通り過ぎる2人を見送る。  天井に備え付けられた監視カメラが、怪しげな白と黒をじっと追い掛けていた。
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