観察対象:自分自身

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観察対象:自分自身

 辛うじて脱出を計れた冴島は、気絶してしまった哀沢夏彦──もとい自分の身体を担ぎ上げ、自分の根城にしている事務所兼自宅に向かう。基本的に自分1人で切り盛りしている事務所だが、週に2回だけ事務員が来て書類整理や経理などの雑務をこなしていた。肉体が入れ替わったのか、はたまた魂とやらが入れ替わったのか…ドラマや漫画でしか見たことのない状況に、彼自身は楽しそうに入口のドアを開いた。靴を履いたまま室内に入ると、事務所のソファに気絶してしまった哀沢を横たえて靴を脱がしてやる。目を瞑り穏やかな呼吸を繰り返す自分自身、冴島冬樹の寝顔をじっと見つめ、普段なら絶対にありえない光景に背筋がざわざわと総毛立った。 「へぇ、俺の寝顔ってこんなかわいい顔してんの?よく独身のままでいられたな…」  にやりと笑い、哀沢夏彦が掛けている黒縁眼鏡のフレームを持ち上げて顔を寄せる。自分の顔に掛かった白髪に近い銀色の糸を掻き上げた。  今まで自由奔放な男女関係を築いてきたが、これまで特定の『恋人』というものを持ったことはない。護るものが増えればそれだけ弱点が増してしまうため、なるべく一夜限りの関係かだけの関係でいるようにしていた。ここのところ仕事が立て続けに入っており、暫くそちらはご無沙汰気味だ。この肉体でいる限り、彼らとは暫く音信不通になるだろう。  男女どちらも性的対象になり、快楽主義で自分自身を気に入っている。哀沢曰く変態であるが、本人は退屈が大嫌いな為それでいいと思っていた。まさか警護対象の男と入れ替わるなどと、予想もしていなかったが。  冴島冬樹が営む『インヴェルノ・シークレット・サービス』、略してISSは要人ボディーガード任務の他に諜報活動、政治家や著名人の浮気調査など、ありとあらゆる依頼を受けていた。今回の仕事もその中のひとつに過ぎなかった筈だが、クライアントから受けっとた手付金は既に自分の酒代に消えている。カネを貰った以上はきっちり任務をこなす、それが冴島なりの流儀である。成功報酬は哀沢の安全確保で、今のところ傷ひとつついていない。相変わらず彼の肉体には慣れず、動きがギクシャクしてはいるが冴島がこの身体を預かっている限り、まず大怪我や最悪の事態は免れるだろう。 「さて、これからどうしますかねぇ?」  表情筋が凝り固まっている哀沢夏彦の顔を両手でマッサージしつつ、ソファの上で小さく呻く自分の顔を見遣った。 「よぉ、哀沢先生。目が醒めたか?」 「ん…ここは…」 「俺のアジトだ。あんたを担いでここまで運んでくるの、大層だったぜ」 「…なっ…ま、まだ貴様は私の身体に…!」 「そうだよ。ワリィなぁ、お前の身体借りててよ?哀沢夏彦、39歳独身。童貞のガチガチなインテリ学者…こりゃ、開発し甲斐があると思わねぇか?」  ソファの上で起き上がり、見慣れぬ場所にたじろぎ唖然とする自分の顔を見ていた冴島は、面白いものを見ているかのようににやけている。しかし哀沢夏彦の顔は笑う事に慣れていないのか、引き攣ったような恐ろしい微笑みになっていることに気づいていない。 「ひぃっ!わ、私の顔は…そんな凶悪犯のような人相をしているのか…早くその身を返したまえ!」 「えぇ?そんなに怖いの?あんたの顔、そう悪くはないと思うんだけどなぁ。でもま、自分の身体を返して欲しいのは確かだな。そうは言ったって、どうやって元に戻るんだ?」 「これが試験薬の副作用なら…一定期間経過すれば、元に戻る筈だ。しかし既に8時間は経過している...ならば、考えられるのは…」  哀沢は今や自分のものとなった冴島冬樹の手を彼の顔に向け、顎に手を当てて人差し指で下唇を弄る。どうやら考え事をしている時に無意識で出てしまう哀沢夏彦の癖のようで、それは冴島冬樹の肉体であっても変わらぬようだ。冴島は自分の唇に触れる哀沢と同じ仕草をし、哀沢夏彦の下唇に触れた。かさついていて、今すぐ保湿したいと思うくらいには水分量が不足している。 (こりゃ、俺でいるうちに保湿パックとプルプルリップ使わないと駄目だなぁ…それなりに素材はいいのに、勿体ないことをする) 「…貴様っ…私の顔に触れるな…!」 「ん?自分も同じことしてるのに、気づかない?俺の唇、柔らかいでしょ」 「なっ…この……」  続く言葉が出てこないのか、哀沢は口を閉ざし奥歯を噛み締め、冴島冬樹の眉間に皺を寄せた。それまで皺ひとつなかった端正な顔が苦悶に歪んでしまっているが、それを傍目で見ていた冴島自身は今にも卒倒してしまいそうなくらい身を捩らせる。 「あぁぁっ!誰だよこのイケメン!俺だ!こんな表情もできるなんて…卑怯すぎるだろ、くそが…」 「くっ…この変態め……そのような汚らしい言葉を私の声で喋るな…!」  何をどうしたところで冴島の思う壺であり、彼を喜ばせてしまっていることに溜息をつく。話を元に戻そうと努め、苛々とした声音で言葉を続けた。 「…作っていた薬の副作用ではない。もしかしたら別の要因があるのやも…まずはそこを調べねばなるまい」 「へぇ、そっか。で、どうやって調べる?」 「私の研究室に置いてきたパソコンなら、今までの臨床実験データや薬についての内容が事細かに残されている。しかし…この身体では…」 「ほーんと碌でもねぇ薬を開発してたんだな、あんた…入れ替わりが副作用だとして、本来は何に使う筈だったんだ?」 「私はこのような結果を求めてはいない…もっと、データを集めなければ…」 「おい、哀沢」 「何故上層部はこのことを黙っていた…?もしや副作用の方が本来の目的では…いや、そのようなことがあってはならない…これでは……」 「おーい……」  冴島が彼の名を何度も呼んで話し掛けても、哀沢は自分の世界の中に入ってしまったようで自分の知らない単語をぶつぶつと呟いていた。肉体は入れ替わってしまったものの、どうやら知能やそれまでの記憶などは肉体ではなく、意識の方が優位なようだ。だが先程、冴島が哀沢夏彦の顔で笑うと表情筋が引き攣りそうになったように、動作や感覚などはその身体が保持するもののままで過ごすしかないようだ。  冴島冬喜の頑丈な身体でいる以上、哀沢が痛い思いをする事はないだろう。しかし逆を言えば、哀沢夏彦の貧弱な肉体のままでは冴島が保持している、ボディーガードとしての身体能力を活かせないことになる。動き方を習得していないこの身体では拳銃の扱いも、護身術や武道も一から習得し直さなければならないだろう。 (参ったなぁ。考えようによっては俺が哀沢夏彦の身体をどうこうできるってことだろうけど…いやぁ、でも流石にそれは…) 「はぁ…どうすっかなぁ」
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