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前編
離婚の危機からの再構築。
そんなウルトラCを決めるには、並大抵の覚悟と愛情がなければ成立しない。
けれども、同僚のAはなんとかウルトラCを決めて、見事とは言えないが元のさやに着地することができた。
同僚たちが飲みに誘うよりも早く定時に帰るよう心掛けて、意地の悪い先輩の誘惑にも「妻が首を長くして待っていますから、伸びきる前に帰ります」と苦笑しながら辞退する。
人はここまで変わることができるのだろうか?
離婚問題が浮上する以前の――Aの為人を知る人間は、妻を第一に優先するAに対して反応が様々だ。
営業部のエース。仕事ぶりは堅実かつ誠実。が、プライベートでは、女にだらしのない自分優先の遊び人。
そんなAと結婚したBという女性は、取引先の会社の受付嬢で、当初はAの軽薄な愛の言葉になびかなかったものの、それがAの心に火を付けたらしく、強引なアプローチの連続にBが根負けするかたちで結婚にこぎつた。
結婚式のスピーチで二人のなれそめを語るBの友人は、オブラートに隠し切れない嫌悪感をAに向け、友人であり同性であるBに対して、哀れみの視線を向けていたのが印象深く、式は始終、明るさと暗さが交差するちぐはぐな雰囲気で進行し、なんとも言えないイヤな空気が漂っていた。だから、離婚問題が浮上しても、同僚たちは特に驚くことがなかった。
「あー。やっぱり」と、A以外が納得し、式を終えて早々に奥さんを放置して、夜の街へとくりだしてきたAを内心で軽蔑しながら、不幸な花嫁の再出発を心の中で祈り、不誠実な男が、落ちぶれて痛い目に遭えばいいと密かに願っていた。
それが、なんとか離婚を思いとどまらせての再構築。
どんな攻防と舌戦が繰り広げられたのかは分からない。
Aは態度を改めたものの、常に陰鬱な影を顔に落とし、まるで氷のうえを歩いているような緊張感を漂わせていた。
いっそ、離婚したほうが良かったんじゃないか?
気が休まらない。許されない。幸せじゃない。人生の墓場に入ってしまったような、そんな負のオーラは、周囲に同情よりも好奇心を刺激する。それはこれまでのAの行いが招いた自業自得にほかならない。
「なぁ、本当にAは再構築したのかな?」
昼休みの社員食堂で、同僚の一人が言った。
営業部として鍛えられた嗅覚が、妻を理由に家路へと急ぐAに、ある種のうさん臭さを嗅ぎ取ったからだ。
「さぁな。再構築したと思い込みたいだけじゃないか?」
じつは離婚していた可能性もあったが、そうなると会社で必要な手続きが発生する。Aはプライベートに関してはクズだが、仕事に関してはそれなりの誇りをもち、手続き一つでも疎かにすることはない――同僚たちは、彼のその点だけは信用しているし評価もしているのだ。
「ありえますね。Aの落ち込みようから、奥さんが実家に帰ったまま、別居しているってオチかもしれない」
「で、頃合い見て離婚ってか?」
「あっ、Bに実家はないよ。彼女、片親で、男で一つで育ててくれた親父さんが、唯一の身内だったんだけど……」
途中から言葉を濁す同僚は、わざとらしく声をひそめた。
「脳溢血で死んじまったんだ。BがAに口説き落とされたのは、身内が亡くなった心細さもあったんじゃないかな? つまり、そこをAにつけこまれたんだ」
「うわ、サイテーだな」
「うーん。人様の家庭に口出しするのは気がひけるけど、別居説は、家にいる奥さんの姿を確認できれば、疑問は解消できるかな。どう思う? つか、おまえ、奥さん見たことある?」
と、話を振るのは、Aと同じ市内に住む同僚だ。
「結婚式以来、Bさんは見たことねぇな。住んでる家も不便な場所だし。あぁ、だけど、飲み会の帰りに、深夜のスーパーで買い物しているAは見た。ショッピングカートに猫砂を積み上げて、結構な量の食べ物買い込んでいたから、見ていて危なっかしくて仕方なかったな。あんな量、一人で消化するより前に消費期限が過ぎちまう」
「おいおいおい。なんで深夜スーパーにお前がいるんだよ」
「適当にビール買って、家でシメめ飲みしようと思ったんだよ」
「なんだよ、そのシメのラーメンみたなノリ」
「危なっかしいなら、助けろよ」
「できねぇよ。あん時、酔っていたし。話の弾みで、いま思い出しただけだし」
「猫砂ってなに?」
「猫のトイレに入れる砂だよ。メーカーによっては消臭力がすごいんだぜ。そういえば、Aって、動物飼うタイプだったか?」
「奥さんのご機嫌を取るために飼い始めたとか?」
「そりゃねぇよ。俺の袖を見てみろよ、猫の毛ってかなり神経使わねえと服についたままなんだぜ? 仕事人間のAが、猫の毛をつけたまま仕事できるかよ」
「うわ、ちゃんと取れよ。飯に入ったらどうすんだ」
「いやぁ。毛のない猫もいるし、ソレ飼っているんじゃ」
「スフィンクスだろ。わざわざ飼うか?」
「別居説が濃厚だろ。べつに偽装するんなら、食べずにふつー捨てればいいんじゃね?」
「そう言うなよ」
あーでもない、こーでもないと彼らは勝手に話を広げて盛り上げて、勝手に可能性を潰していく。他人の不幸は蜜の味であり、最高の娯楽でもあるのだが、物事には終わりがつきもの。
真相は、Aが救急車に運ばれたことであっけなく発覚した。
どうやら、疲労の蓄積で注意力が散漫になり、階段から足を踏みはずして落下してしまったらしい。
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