第1話 噂の男、麗しの社長

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「宅配で送ればよかったっ!」  右手にキャリーケースを引き、左手には工具箱。背中には通勤にも使用しているリュックのいでたち。  羽田空港からリムジンバスに揺られ、路線バスを乗り継ぎ、八王子郊外にある己の職場にようやっと辿り着いたのである。    工場で使用される工作機械、測定機器の大手メーカーであり、家電なども製造し日本人なら誰でも知る大企業、南方(みなかた)精密でアフターサポート技術員をしている東新川(ひがししんかわ)沙羅(さら)は工具箱を技術準備室に戻し、それから事務室に足を向けた。  北九州の客先での機械の納入試運転を終え、職場に戻ったのである。  出荷時に見逃された初期不良を叩いていたら昨晩の最終フライトに間に合わず、泊まって朝移動で帰ってきたのだ。    彼女は額に浮いた汗を拭った。  時計を見ればすでに1時を過ぎているが、昼食はまだ。そろそろ腹の虫が鳴りそうだ。 「戻りましたー!」 「お帰りなさい!」  朗らかに事務員たちが迎えてくれた。部長の席も、課長の席も、その上その他外勤メンバーの席も皆すっからかん。すごく嫌な予感がした。  移動用のTシャツジーンズ姿のまま、沙羅は立ち尽くした。まだ五月末なのに背に汗が伝う。 「ヒガちゃん帰ってきてくれて助かるー! みんなトラブルで出ていっちゃったから。部長もトラブル対応で井上くんにくっついて頭下げにいっちゃったからさ」 「……なんか問い合わせ、来てます?」 「機械のPC立ち上がらないって。これ電話番号と機械シリアル」  事務員の小森千里は今年41歳。沙羅が頼るベテランだ。沙羅は小森の差し出したメモを受け取り目を落とす。 「メモリの抜き差しでもしときゃ直るんじゃないですかね。電話します。他には何かありました?」 「そうね……あ、社長が交代した! 朝就任挨拶リモートで見たんだけど超! 超! 超! イケメンでさ! ほんっとうにやっばい、今度本社行って本物見て来なよ!」  沙羅が知りたかったのは客からの問い合わせだったのだが、小森が教えてくれたのは別のニュースだった。心の中でこっそりと苦笑する。  噂で聞いたことがある。母親がドイツ人、ドイツ育ちで日本の大学に入り、大手銀行に入行。その後、当時社長、現在の会長である父親の熱烈なリクルートを受けて入社したはずだ。あまり表には出てこず、顔は知らなかった。イケメンだとは聞いている。  年齢は現在29歳の沙羅よりも少し上らしい。  ということは、30ちょっとだろう。そんな年齢で社長だなんて大丈夫かと思わなくもない。 (ま、ダメダメなら取締役会で引き摺り下ろされるだろうし……株主総会も炎上しそうだし。でもなぁ、その歳で社長はないな……) 「ええ、本社ですか? 先週ユーロ受け取りに行ったばっかりで、正直近寄りたくないです……社長って、例の息子ですよね?」 「そうそう、もうホームページ更新されてるよ! で、父親の方は会長になった」
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