最後の再会

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 子供向けの映画だというのに、不覚にも感動してしまった。  妻に飽きられながら買ったパンフレットをカフェで開きながら、俺は娘を膝に乗せて、今の映画を語り合う。まだ言葉もおぼつかず、ただ煌びやかな画面の展開が好きな娘相手には、何を言っても通じない事は分かってはいたが、パンフレットを見せて指差し反応する娘とは、きっと心が通じているに違いない。 「うんうん、この子強くてかわいかったな!」  主人公の少女を指さして、かわいい、と俺の言葉を鸚鵡返しする娘に頷きながら、俺は更にページを開く。 「ねえ、私ちょっと買い物してきていい?」 「いいよ、俺ここでパンフレット見てる」 「はいはい。語り合っててちょうだい」  妻は半ば呆れ気味のように肩を竦ませると、映画館も併設される、巨大なショッピングモールの中へと紛れて行った。俺と娘は「いってらっしゃーい」と手を振ってから、またパンフレットに視線を戻す。 「今のアニメはクオリティーが高いなあ」  思えば座席の周りには男女問わず大人の人が多かった気もする、なんてポップコーンの味と一緒に思い出す。  あのバターソースの掛かった塩味のポップコーンもなかなかうまかった。 「もう一回観てもいいなあ」 「いやぁ」 「ええ、嫌か? 楽しかっただろう?」  意見が分かれたところで膝にいる娘を見下ろすと、彼女はツインテールのさらさらとした髪を大きく振りながら、俺の意見に「ノー」を突きつける。 「じゃあパパだけで行こっかな」 「ええ、マリも」  気紛れな返答に膝を揺らしてやると、娘はきゃっきゃと笑った。小さな手が俺の人差し指をぎゅうっと握り込む。その小さく柔らかな掌が、ほんのりと与えてくれる温かさに頬が緩んだ。  顔を上げて周りを見渡すと、ゴールデンウイーク中ということもあり、巨大ショッピングモールは家族連れや子供たちでにぎわっていた。映画館もあれば、レストランもゲームセンターもあるし、入場料もかからないし、ある程度の非日常も確保できる。  お手軽で、気取らなくてちょうどいい。  満席状態のカフェを見渡し、妻はどのくらいで買えるだろうかと腕時計に視線を落とす。長居しても申し訳ない気がする。 「もしかして、神山?」  ふいに呼ばれて顔を上げると、黒いキャップを被った小さな男の子を抱えた男が、俺を見下ろしていた。彼は爽やかな薄い水色のシャツに、デニムという素朴な出で立ちではあるが、その身体の上についた顔は小さく、まだ大学生ですと言っても通じるような幼さの残る整った顔をしていた。 「神山か、久し振り」  男はそう言って形の良いアーモンド形の双眸を優し気に細めた。 「席がないみたいなんだ、一緒にいいか?」  そう言いながら小さな丸テーブルを挟んだ向かいのスツールに、こちらの返答も待たずに腰を下ろした。  丁度真っ直ぐ、目線の高さまで来た彼は、間違いなく俺の知っている男だった。 「まさかこんなとこで、子連れで会うなんてな」  彼――高本はそう言いながら膝に、俺の娘と同い年くらいの息子を膝に座らせた。まだ小さな彼は警戒心を宿した、高本譲りの形の良い双眸で、俺をじっと見つめてくる。 「ぱぱ、おともだち?」  娘が俺と高本の間に横たわる沈黙に、疑問を重ねると、彼は「そうだよ」と娘に微笑みかけた。身体を前のめりにして、人当たりの良い笑顔を浮かべるその仕草は、俺の知っている頃からの、彼の癖だ。彼は誰に対しても距離感が近い。 「パパと高校生からのお友達なんだ」  高校生という単語は理解できないが、友達という言葉は聴き取れたと、娘は「へえ!」と目を輝かせて高本を見つめた。 「かわいいな、子ども産まれたって聞いてたけど、こんな可愛い娘だったなんてな」  そう言いながら高本は大きな手を伸ばして、娘の柔らかな髪に触れる。そのごつごつした節の目立つ大きな掌は、粗雑そうに見えて丁寧に娘の髪を扱った。  俺はその深爪気味の指先を眺めながら、記憶の奥に仕舞い込んでいた、開封すべきではないそれを意識してしまう。  ――だめだ。遠退きそうになる意識に首を振って、俺はパンフレットを袋に仕舞うと、 「そっちこそ、子どもが生まれたって風のうわさで聞いてたよ」  と言葉を返した。 「神山が勝手に連絡先変えたから、直接教えられなかったんだよ」  責めているわけでもなく、あっけらかんとした明るい口調で、高本は笑って呟いた。まるで、この混みあっているゴールデンウイーク真っ只中のショッピングモールの文句を言うような、軽やかさを持って。  俺はそれに対してなんて言えばいいのか分からず、俯きながら娘の髪を撫でた。今、高本が撫でたその跡を辿るように。  記憶の底で蓋をしていた記憶が、かたかたと微かに震え出すのを感じる。  高校生の頃、大学生の頃……。  薄いセピア色の記憶の中に、笑っている俺と高本の姿が映し出され、確かに楽しかった、正しい青春と過ちが、脳裏を横切る。  ふいに遠くで泣き声が聞こえた。子どものような自分のような、酷く曖昧な声が聞こえる。 「神山、偶然って怖いな」  高本の言葉に顔を上げると、彼は記憶の中の彼と寸分の狂いもなく重なる笑顔を浮かべていた。物わかりの良い、俺が何を言っても否定しない、優しさと弱さを湛えた笑顔だ。  俺はこの笑顔が好きで、嫌いで、苦しかった。 「神山、俺……」  そう言いかけたところで、 「お待たせ」  知らない細く長い指が高本の肩を叩いた。 「知り合い?」  両手に紙袋を持った女性は浅く頭を下げると、高本に視線を投げかけた。彼の隣に良く似合う、少し気の強そうな女性だった。 「……学生時代の友達」  ――学生時代の、友達。  その短く簡素で正しい紹介の定型文に、無防備な胸の奥が痛みを負う。それでも、その傷を露わに出来るほど、俺はもう子どもでもないし、身勝手でもない。 「初めまして、神山です」  当たり障りのない笑みを口元に置いて。 「そうなの? あ、もし良かったら私子ども見てるけど」  気を使おうとする彼女に、高本は「大丈夫」申し出を制すると、 「また連絡するよ」  と、スツールから腰を上げた。 「またな、神山」  高本は子どもを抱き直して、軽く手を振る。俺も手を上げて、それに大人としての振る舞いで答える。 「また」  高本の笑顔がふっつりと消え、何かを訴える視線が俺の胸に突き刺さる。ふいに周りの雑音が遠退いて、俺の世界には、俺と高本しか存在しないのかもしれないという錯覚に陥った。  しかし、それもほんの一瞬の出来事で、瞬きをした次の瞬間には、親子連れの人混みの中に紛れていく三人が、遠くに見えているだけだった。  ――また、なんて言いながら、俺達は相手の連絡先を知らない。 「ぱぱ、おともだちかえっちゃったね」  娘が静かにぽつりと零す。 「またあえるといいね」  娘の遠くに響く声を感じながら、俺は雑踏に紛れてしまった高本の背中を、いつまでも追いかけていた。
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