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真実
オカルトが苦手な人でも名前くらいは聞いたことがあるだろう。吸血鬼とは人の生き血を飲んで生きる存在。
小説や映画のなかならまだしも現実世界に存在するとは到底思えない……アキラはじわりと滲む額の汗を手で拭う。
男はアキラの様子を窺いながら語り始めた。
「生き血はとても貴重でな、なかなか飲める機会がないんだ。大抵の者は吸血鬼だと聞いて逃げて行くだろう?恐れられて当然だが俺たち吸血鬼は血を飲まないとどんどん弱っていくんだ、そしていずれ消滅する」
アキラは警戒しながら男の話を聞いていた。
「樹海には自殺をする人間が多くいてな、誰かに発見される前にここへ運んで、血を飲んで元いた場所に返していたんだ」
「……どうしてその場で飲まないんですか?」
「君のような人間に見られる可能性があるからさ」
「……」
「……すまなかった、君が美味しい料理を運んできてくれるのはとても嬉しかったが、美味しいと感じることはできてもこの体には何の意味も持たない」
「それでいくら食べても具合が悪そうだったんですね」
「ああ、君には申し訳ない事をしたと思っている」
男は言い終えると「うっ」とえずく。床に膝をつき口元を手で押さえている。苦悶の表情を浮かべ、冷や汗までかいている男の背にアキラが手を添える。
「大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……大丈夫」
「そうは見えません、そうだ、血!また飲めば治りますよね?」
浴室の女性の遺体の血をまた飲めば……と考えるアキラ。
「駄目だ、彼女は腐敗が進んでいる……」
「じゃあどうすれば……そうだ!僕の血を飲めばいい!」
どうしてこんな簡単なこともわからなかったのだろう。アキラは「さあ飲んでください!」と袖を捲りあげて腕を男の口の前へ持っていく。産毛の生えた若々しい前腕部を前に、男の喉が上下に動いた。
「いや駄目だ、君を傷付けたくない……」
「いいんです、貴方が元気になるのなら」
男は躊躇いながらアキラの腕を掴む。
「トラウマになってしまうかも……」
「その時はその時ですよ」
「……すまない」
そう言うと男の瞳の色が黒からだんだんと濃い赤色に変わり、唇からは鋭い犬歯が覗く。アキラは驚きはしたものの不思議と恐怖は感じなかった。ただ助けてあげたいという気持ちだけがアキラを突き動かしていた。
尖った歯が皮膚に宛がわれる。
「いっ!」
歯の先端を押し当てただけで簡単に皮膚が破け、真っ赤な血がどくどくと溢れてくる。男はその二つの穴に唇を宛がうとちゅうと吸い始めた。
「ん、く」
「すごい、本当にそうやって吸うんだ……」
アキラは夢中で自分の血を飲んでいる男に興味津々だった。
しばらくして男がアキラの腕から口を離す。ふぅと息を吐いた男の顔はみるみるうちに頬がふっくらし、窪んだ目元も治っており、ギョロギョロしていた目は綺麗なアーモンド形になっている。痩せ細っていた体も変化し、見違えるほど筋肉で逞しくなった。
(まるで別人だ……)
アキラは胸がドキドキしていた。魔法を見たときのように心惹かれていく。
男は口を手の甲で拭うとアキラの腕にできた二つの穴を指で押さえて止血した。
「ありがとう、本当に……なんと礼を言ったらいいか……君のおかげで生き返ったよ」
「いえ、あの、僕の血はどうでしたか?」
「美味しかったよ、ほんのり甘くてそれでいて深みがあって……」
男はうっとりとして口の中の余韻を味わっている。
「……聞いといてなんですけど何て反応していいか困りますね」
恥ずかしそうにするアキラに男はフッと笑うと「君には助けられてばかりだな」と言って立ち上がった。
「わっ!本当に逞しくなりましたね!」
身長は変わっていないが体格が二回りは大きくなった男にアキラは驚きを隠せない。
「君のおかげだよ、ありがとう。これで一ヶ月は持ちそうだ」
「そんなに長く?」
「ああ、君は若くて健康だからな」
男はそう言うと浴室をちらりと見てからアキラに視線を戻す。その瞳は未だ赤く、唇の間からは鋭い牙がはみ出ている。
(本当に吸血鬼なんだ……)
アキラは男の顔をじっと見つめた。
「怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ない……恐ろしいだろう?」
「そんな悲しい顔をしないでください、正直言うと貴方の事よりも浴室にいる遺体の方が恐ろしいんです、どんな思いで樹海に入ったのだろうと考えると……」
バスタブの遺体がアキラの脳裏に焼き付いて離れない。
「……自ら命を絶つとはとても辛いことだと思う、それは人間も吸血鬼も変わらない……」男は呟くように言うと続けた。「俺はこれから彼女を元いた場所へ帰しに行くつもりだ」
そう言いながらアキラの腕を押さえていた手をどけて、血が止まっているのを確認する。
「綺麗な肌に傷を作ってしまって申し訳ない、数日で消えるとは思うが……」
「綺麗な肌って」アキラは少し笑うと「僕は別に気にしませんよ」と捲っていた袖をおろした。
「それじゃあ僕はこれで帰ります、お弁当は……もういらないですよね?」
「いや食べるぞ、美味しいものは美味しいからな」
「そうですか、良かった!じゃあお弁当箱置いていきますね?僕はちょっと今は……」
ちらりと浴室の方へ目を向けたアキラに男はなるほどと頷く。遺体を見たあとでは食欲がなくなってしまったのだ。
アキラは玄関ホールに置いてきたリュックを持ってきて弁当を渡すと「それじゃあ」と観音開きの扉の取っ手を握る。すると後ろから「待ってくれ」と焦ったような声がして振り返った。
「ずっと聞いていなかった、君の名前は?」
「アキラです、そういえば俺たちお互いの名前も知らずに話していましたね」と口元を緩める。
「アキラ、ありがとう。俺はグレンだ」
「グレンさん、じゃあまた!」
「ああ、また」
グレンは少年が出て行った後も扉を見つめ続けた。
確かに彼は『じゃあまた』と言った。本当にまた来てくれるだろうか。
アキラと出会うまでのグレンには何もなかった。ただ死体を探して腹を満たす日々。腐敗した死体の血を飲み、何日も寝込んだ事もあった。しかし飲まなければ消滅してしまう。それは人間でいう死と同じだ。毎日死体を探して樹海を練り歩く。グレンはふと思った。こんな日々ならばもう消えてもいいか。そして廃屋の館で死を待つ事にした。何日も何日も、同じ場所に座り続けた。そこへやって来たのがアキラである。彼は明るくて眩しすぎるくらいだった。でもそんな彼が自分を心配してくれる事が嬉しかった。もう少し生きてみよう。真っ暗だったグレンの心に一つの灯火が点った瞬間だった。
グレンは何百年振りに恋をしたのだった。
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