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第1話 今日でやめます
また、黄色の風景からの、一連の感覚に浸っていた時だった。
「聞いてんのか?」
「……」
あ。……聞いてなかった。
――――荒い声を出しているのは、仕事場の先輩。
オレは、ウエブデザインの会社に勤めている。
別に仕事はなんでも良かった。たまたま受かって気が向いたところに就職した。
絵を描いたりは得意だったからか。デザインは割と認められてて、客の受けは好い。と思う。
だけど、それが気にくわないのか、オレ自身が気にくわないのか、ただのストレス発散か。
この先輩は、日に数回、オレにいちゃもんをつけることを生きがいとしてる気がする。
他の人も、聞こえてるだろうけど、特に助け船も出さない。
皆、自分の仕事だけこなしてて、こんなめんどくさいことに首を突っ込んではこない。
今時こんな奴、まだ居るんだな……。
……まあ、居るか。人間なんて、そんなもんかも。
「大体この間のことだって、オレが気づいてやったから、間に合ったんだろ。もっと期日管理を徹底しろよ」
……この間のこと。
この人が、オレに伝えた日程が間違ってて、それに合わせて進めてたら、途中で自分の間違いに気づいて、急げって言ってきたやつ? そういうの、かれこれ何回目だっけ。
ほんとは自分のミスだってバレないように、大きな声で今また周りにも聞こえるように言ってんだろうけど。
は。
めんどくせ。言い返す気も起きない。
やめること自体もめんどくさいし、新しい会社探すのもめんどくさいし。個人でウエブデザインとかやるって程の気合もないからめんどくさいし、仕事くるのかなっつーのもあるし。……めんどくさいって言いすぎか。
まあ多少うるせーけど、この人の、声だけスルーしときゃいいっつー話……。
何も心に響かないようになって、どれくらい経つかな。
……昔はもっと、色んなことに、感情が動いてたような気もするんだけど。まあ別に。どうでもいいか。
「聞いてんのかよ?」
「――――……」
この人には聞き取れないフランス語で、「聞いてない」と呟いた。
「は? 何て言った?」
「……いえ」
「つか、はっきり喋れよな。……大体お前はそうやっていつもスカして」
スカしてるつもりもないが。
……こうなってくると、なげーんだよな。
うまく心とは分離してるので、傷ついたりもしてないと思うが。
仕事させろ。
思った瞬間、デスクに置いてあった、スマホにメールが入った。
……あ。ばあちゃんの、アイコンだ。
昔飼ってた、犬のままの。
スマホを持ったって聞いた時は驚いたけど、やっぱり苦手らしく、ほとんどメッセージなんか来ないのに。
思わず、スマホを手に取った。
『ばあちゃん、もうすぐ死ぬみたい。末期だって』
――――は??
何?
何の冗談……。
――――馬鹿、か。
ばあちゃんが、そんな冗談、言うわけないだろ。
うるさい雑音を完全にスルーして、立ち上がったオレは、少し離れた席にいる上司の元に。
「あの――――やめたいんですけど」
「……なんだって?」
「今日でやめます。社員寮も明日出るので。手続き、させてください」
「……どういう」
オレは、スマホのメールを上司に見せた。
「祖母がもうすぐ死ぬみたいなので……両親は海外だし、オレしか居ないので、田舎に帰ります――人事課、行ってきていいですか?」
上司も、雑音の先輩も、周りで素知らぬ顔をしていた誰もが、唖然としてオレを見ていた。
退職手続きをして、机を片付けた。
そもそも仕事道具は、パソコンと、資料。机にある文房具を鞄に入れたら、終わった。
しばらくかかっていた結構大きな仕事が、昨日ちょうど終わったところだったから、それだけは良かったと思う。
「オレが辞めれば、さぞ、納期を守って快適な仕事になるんでしょうね」
今まで一度も、歯向かわなかったのは、後がめんどくさいから。ただそれだけ。
……もう二度と会うことはない、そう思って、出た嫌味だった。
これが一番、効くだろ。他の奴には分からないだろうけど、本人は、自分のミスだって知ってんだから。
お世話になりました。
そう言って、オレは、三年ほど勤めた職場を、後にした。
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